2007年10月28日

火星年代記とスターウォーズ



 よくよく考えてみると、スターウォーズの方がSFらしく見えるのに、SFファンはあれはSFではないという。でも、火星年代記は(TVドラマのほうじゃないですよ)間違いなくSFなのである。


 結局のところ、どちらがSFというものを豊かにしてきたかを考えれば、SFファンの考え方は偏狭に過ぎるといえるけど、その結果SFなんてものはなくなってしまった(それみたことか)。


 インターネットも同じように消滅しかけている。


 沈黙の大衆パワーというやつなのだろうか。マスコミの陰謀なのだろうか。もっとほかにも理由はありそうだけど、大衆に迎合する2.0なんたらが最大の原因に違いない。


 答えは風の中にあるんだろうか? もう40年以上たってますが…


2007年10月27日

カラフル



森絵都の長編小説。


大きな過ちを犯して死んだ男が、冥界に行く途中で抽選に当たったと天使に告げられ、自殺した少年の身体に入ってやり直す機会を与えられる。


大島弓子の『四月怪談』とか、赤川次郎の『ふたり』とか、十代のころからずっとこの手の物語が好きだった。


少し前にハマッた『ヒカルの碁』なんかも典型的な幽霊憑依譚だった。少なくとも第一部は。


去年公開された映画『この胸いっぱいの愛を』では、ちょっとひねってあったけど(原作がSFだったのでそのつもりで観ていたから意表をつかれた)。


最近ハマッてる『ハヤテの如く』にも憑依ネタが登場する。いちばん笑ったのは、女装マニアのデザイナーに憑依されたハヤテがメイドさんになってしまうやつ。


でもなぜかいままで現実では一度も幽霊にお目にかかったことはない。


#これからまたこういう類の話題も書いていくようにしようかな。


2007年10月24日

ポパーは関係なく



 栄養学が自然科学の一分野であり、それが物理学と同じレベルで考えてよいということなら、ポパーは無視できない。社会科学的な部分についても、学界における議論による精緻化ということは、じっくり考えなければいけないことである。


 でも、もし議論を単純化して、自分が客観的だと思うことはなにを言ってもよくて、その理由というのが、客観性については自分(個人)では判断できないから、というのであれば、それは違うだろうと思う。


 客観性の判断が議論によって最終的に学界で落ち着いていくということには、疑問はない。それはウェーバーとても、論文を発表した後では、そのような過程が現実社会でおこったことは間違いないからだ。


 だが、たとえ自らの客観性の基準そのものに(普遍的な科学としての)客観性を持ち込むことが不可能だとしても、論文を書いている時点で、論文における(本当の)客観性の視点をまったく無視してよいことにはならないだろう。ポパーもそこまではいっていないと私は思っている(まだ原著を読んでいないのであくまで想像であって、ひょっとしたらそこまでポパーはいっているのかもしれないが)。


 ウェーバーはポパーのような科学哲学者ではなくて社会学者であり、彼の方法論は普遍的な知識社会学の理論というより、彼独自の理解社会学という社会学による自身の著作のための方法論を論じたというのが今日の一般的な理解だろうから、両者の間には対象がずれているという基本的な乖離が存在する。


 ポパーは物理学の展開を念頭において社会学に踏み込んだようなのだが、ウェーバーにとっては社会学は物理学のようには展開できないというのが前提なのだ(ウェーバーは少なくとも翻訳ではいくつか読んでいる)。


 というわけで、私自身は、栄養学の発展のためにはポパーも必要かもしれないと思うが、このサイトで論じてきたことについては、ポパーは邪魔なだけだと思っている。私は栄養教育のような人文科学的な(社会学的といってもよい)部分にはそれ相応のいわゆる自然科学として栄養学とは異なる考え方が必要だと思ったのだから、それも結局は自然科学と同一原理で説明できるといわれても困ってしまうのだ(究極的にはできると思うが、それは現時点ではたんなるファンタジーに過ぎない)。


 とりあえず、個人の内面的な問題として考えることが必要だと思う。


2007年10月22日

ウェーバーとポパー



 簡潔に、それゆえ詳細には突っ込みどころ満載だろうとは思うが、とりあえずシノプシスのようなものを書いておくことにする。いくつか論文を読んだ感想文のようなものだとおもってもらえばよい。


 ポパーが自然科学の反証可能性で有名なことは知っていたつもりだが、ウェーバーに反論していることは最近までしらなかった。ポパーは自然科学の原理を社会科学に拡張するつもりだったのか、それとも別のものとしていたのかはしらないが、とにかく、社会科学も論じていたのである。


 ポパーの反証可能性は、ファイヤーアーベントのような弟子によって批判されているし、クーンのパラダイムシフトもある。それは、天動説から地動説へのコペルニクス、ガリレオらの論証。ニュートン力学、相対性理論、量子力学などのあいだを、反証可能性だけではうまくつなげないという反論だと思うが、それら科学論における批判はここではあまり関係がない。


 問題は、ウェーバーとポパーが、科学と価値判断の区別という点においては同じだが、区別のレベルが異なるという点にあると私は(論文を読んでいて)思った。つまり、ウェーバーの研究者内部における科学と実践の峻別は、ポパーによれば不可能であり、ポパーは、社会(共同体)における反証可能性を軸とした議論によって科学が実践(価値判断)から区別されて真理に近づくと考えたらしい。


 日本語で読める論文をいくつか読んだところでは、どうも両者には乖離があり、社会科学を相対論や量子論のようなレベルで考えるポパーの発想自体に現時点では無理があるという感じがする。ただし、ポパーの著作を読んでいない(したがって解説書レベルの知識しかない)ので、それがどのていどの妥当性を持っているかわからないのだが。


 ただし、私がここでこの一年書いてきたようなウェーバー社会学による栄養学の見直しという視点からいえば、ポパーの議論はあまり関係がなさそうだ。というのは、ポパーの議論では、研究者や実践者個人の内面的な科学と実践の区別という問題は、結局社会(共同体)での議論で解消されていくべきもののようだから。


 目の前にいる好きな、けれども実は人類を破滅させる存在を殺すのが正しいかどうか、というSFではありがちなシチュエーションなのだろうか。公衆衛生学者たらんとするなら、かならず殺すべしということになるのだろうが。


2007年10月12日

追記



と書いたばかりで問題発覚。プログラムが修正されるまで日々の更新はしばらくお待ち下さい。


EBIS復旧しました



リンクDEダイエットEBIS(健康食品文献情報のページ)が再び毎日更新されるようになりました。この半年分の文献をまとめて登録してありますので、一度ご覧ください。


2007年08月08日

キラービー(B)(承前)



 ガイドラインは二つの部分からなり、ひとつはエビデンス、もうひとつは具体的指示ということで、これをウェーバーの理解社会学における科学と実践に当てはめてみることができる。



エビデンスは基本的に研究論文のことであり誰にとっても大きな違いはないものだが、具体的な指示は地域的なものであって、地域ごとにかなり大きな違いがでる可能性がある。



 中国でも妥当しなければいけないと(多少偏見入ってますね)ウェーバーのいう、普遍的客観的な真理を扱うのが科学であり、ここではエビデンスに当たる。それに対応するのが、行政のような実践行為であって、ここでは具体的な指示ということになる(こちらは日本と中国では異なって当然だろう)。


 異論は多々あるだろうが、わたしはそのように考えている。そのように考えると、具体的指示をどうするかという自由度が広がる。これはガイドラインではなくて、具体的な患者への適用を考える場合も同様である。具体的指示が科学の一部だということになれば、確かに適用をする人間(医師、栄養士)の気は楽になるかもしれない。一定の手順によって具体的指示が出てくるが、それは科学的な推論の結果なのだから、個人の責任(時には英断)には帰せられないということだ。


 実は、この二つの異なる部分を繋ぐ考え方について、EBMはあまり踏み込んだ議論をしていないように私には思える。というのは、勝手な先入観で申し訳ないが、この部分をウェーバーのように踏み込んで議論してしまうと、EBM自体が成り立たなくなってしまうように思うからだ。


 というのは、ウェーバーは、その区別を科学の厳密性を実践行為のアバウトさと混同しないために、そしてそうすることで社会科学を科学として存立させるために議論したのに対して、EBMは実はウェーバーが例にあげた国民経済学のように、医療的実践行為はすべて科学から適用できるということを前提にしているように見えるからである。


 だから例えばウェーバーは、賛成と反対の数をいくら数えても実践は導かれない、とか、実践が自動的に導かれるような幻想を読者に抱かせてはいけない、と、はっきり断言している。社会学の学徒には、科学の限界をわきまえるための教訓になるだろうが、こんな風にいわれたらEBMの困難性は無限大になるわけで、医師ならともかく、それ以外の人間は一挙にやる気が失せてしまうだろう。


 現実的な問題として、ここで話題の中心にいる人間は管理栄養士さんなのであって、決して患者の生死を分かつような臨床判断をすることはないのだから、そのあたりは曖昧にしておけばよいということもあり、そうなるとなんのためのEBMということになるのは目に見えている。


「きみ、歩調をあわせてくれないと困るなあ」


「なんのことですか?」


「とぼけるなよ、きみ、ヘビースモーカーの患者に、ベータカロテンのサプリを薦めただろう?」


「それがなにか?」


「なにか、じゃないんだよ。肺がんのリスクがあがるんだよ、肺がんの! 昨日のJAMA見てないの?!!!」


 って、見ているわけありません、って。


2007年07月20日

キラービー(B)



 殺人蜂(killer bee)の語呂合わせらしい。そのためにむりにBで始まる単語で統一しているのだろうか?



実地に適用可能なガイドラインはサケットらがいうところの「キラーB」に抵触しない必要がある。栄養指導が(B1)病気の負荷に見合うだろうかという問題がまずあり、(B2)介入の価値、(B3)コスト、(B4)障壁も簡単には決められない問題である。要するにそれは多くの検討を必要とする問題ということになるが、そのような困難性をかかえたガイドラインなど本来あるべきでないのはいうまでもない。



 サケットらは、ガイドラインの要素として、エビデンスと具体的な指示の二つを挙げている。エビデンスは基本的に研究論文のことであり誰にとっても大きな違いはないものだが、具体的な指示は地域的なものであって、地域ごとにかなり大きな違いがでる可能性がある。


 上記の引用におけるガイドラインというのは、それら二つの要素を包含したガイドライン全体のことであるが、特に、自分の患者/診療/病院/地域に合わせた個別のガイドラインを指している。そうでなくては意味が通らない。学会や国の機関が出すガイドラインに実地不可能性や実現困難性が最初から含まれていることは(特にそれが優勢なはずは)ありえない。


 ところが、自分の側の特別な事情によって、ガイドラインはしばしば変更を余儀なくされる。そして出来上がった個別のガイドラインが、キラーBに抵触していたらゆっくり考え直す必要があるだろう、ということだ。基本的には、サケットらのEBMの教科書(第2版の邦訳)に書かれていること(最新第3版の原書では構成が見直されて違う場所に移動しているが)を敷衍しているに過ぎない。


 別に殺人蜂でも、別人28号でも、どうでもいいのだが、こういうベタな判断基準が実は重要なのかもしれない。微妙であるので慎重であれといわれても、なにもできないが、少なくともキラーBに答えることはできるだろうから。


 形は輸入するけど、和魂洋才? 和魂を教えて!


2007年07月17日

問題を立てるところから始めよう



 (あなた)の人生の物語(仮)というフォーラムを立ち上げ(事実)て、栄養実践においてヒトについての実証的根拠をどう考えるのが良いのか(価値判断)を考えてみようとしたが、二つ三つ書いただけで、すぐに困難を感じ始めてしまった(価値判断)。


 いま、ためしに事実と価値判断をカッコに入れて明示的に示してみると、感想文なのであたりまえではあるが、ほぼ個人的な感想を述べているだけで、ちっとも科学的ではない。根拠がN=1(えぬいち、と読む。例数が1しかないという業界用語)なので、もっともらしく書き直しても同じことである。


 たとえば、「(あなた)の人生の物語(仮)というフォーラムを立ち上げ(事実)て、栄養実践においてヒトについての実証的根拠を実地に適用する場合のガイドラインを提示することを試みた(事実)が、極めて初期の段階でその困難性が明らかになったため中止した(事実)。」という具合。


 学会の予稿集用の作文である。


 専門家が見れば、すぐに「栄養実践においてヒトについての実証的根拠を実地に適用する場合のガイドラインを提示する」ことが具体的にどのようなものなのか、それはガイドラインとしての基準を満たしていたのか、「極めて初期の段階」とは具体的に、運用開始後何日目なのか、それとも投稿数幾つ目なのか、「その困難性」というのは具体的にどのようなものなのか、明らかになるというのは、具体的にどのような現象をさすのか、それらの全てを客観的な根拠を明示しながら説明するように求められるのは明らかだ。


 そこで、次のような書き換えはまったくのフィクションで事実と思われると困るのだが、例えば次のように書き直したりする。


(あなた)の人生の物語(仮)というフォーラムを立ち上げ(事実)て、栄養実践においてヒトについての実証的根拠を実地に適用する場合のガイドラインを<サケットらが根拠に基づく医療(EBM)として提唱する5段階の診療モデルに基づいて>提示することを試みた(事実)が、<運用開始後3日目、投稿数3という>極めて初期の段階で<サケットらのEBMモデルにおいては、対象となる患者に即した問題の定立がその第一段階であり、それなしには第二段階の根拠の探索、第三段階の吟味、第四段階の患者への適用における調整を行うことに著しい困難が伴うことが明らかになった。また、サケットらは、ガイドラインの作成へのEBMの適用法についても述べているが、それに従うとしても、すでに論文がメタ分析である場合(今回の事例)に、ここで必要なことは「患者に適用するための詳しい指示」というガイドラインの2つの明瞭な構成要素の2番目のものであることが明らかであって、患者が存在しなければやはりそれを行うことは困難である。もちろんその場合の患者は仮想的な存在であるから、それを想定したガイドラインを作成することは不可能とはいえない。しかし実地に適用可能なガイドラインはサケットらがいうところの「キラーB」に抵触しない必要がある。一般的に(というのはガイドラインは限定された地域において患者を一般化してするものだから)栄養指導が(B1)病気の負荷に見合うだろうかという問題がまずあり、(B2)介入の価値、(B3)コスト、(B4)障壁も簡単には決められない問題である。要するにそれは多くの検討を必要とする問題ということになるが、そのような困難性をかかえたガイドラインなど本来あるべきでないのはいうまでもない。というわけで、>その困難性が明らかになったため中止した(事実)。」


 いや、まだ中止したわけではない。が、これを書きながら、困難性が以前よりも具体的になってきた分、やはり中止か、方針変更というのはもう間違いないように思えてきた。というのは、批判的な視点(これが特徴のつもりだった)をいくら導入したところで、所詮一般化してのことである。その一般化が有効性の障害になっているのだとしたら?


 個人から始めなければいけないというのは、以前にも何度か書いた気がする。


 結局問題は個人的なものなのかもしれず、解等可能な問題の定立というのは、なかなか意味深ではあるかもしれない。


2007年07月13日

栄研の新しい紹介ビデオ



http://health00.nutritio.net/ramgen/eiken_short.rm


 結局以前と同じリアルメディアのストリーミングがいちばん手軽にできるので(他のものも一通り試したが、QuickTimeのストリーミングがメディアの変換まで含めると意外にもいちばんむずかしく、次がウィンドウズメディアで、もっとも簡単なのがリアルメディアだった。ウィンドウズマシンを主なクライアントとした場合だが、もちろんそう想定しないわけにはいかないだろう)、栄養研の新しい紹介ビデオを暫定的に手持ちのマシンにサーバを立てて公開してみた。まだ専用のページなどが準備できていないので、ここだけの限定公開である。


 この短縮版ビデオは、昨年4月から5年間の第二期中期計画の紹介で、本編は16分あるが、ウェブではそんなに長いと飽きるだろうということ(?)で、ウェブ用の短縮版も製作した。本編はウェブで公開する予定は今のところない。わたしはただ短縮版を公開しろと言われているだけで、本編を公開してはいけないとは言われているわけではないが、何か意図があってのことだろうから、積極的に見られるようにするつもりはいまのところ、ない。


 でも、短縮版でも充分だと思う。計画の概要が知りたいだけならば。栄研のサイトで紹介ビデオを観たいということはそういうことだろうし。