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2004年07月 アーカイブ

2004年07月02日

ダイエットの喜び

台湾の東森新聞報ETtodayの記事(日訳)によれば、

肥胖是健康的隱形殺手,衛生署北區醫院聯盟主任委員張金堅今天在一場減重成果發表會中表示,肥胖所造成的最大威脅,在於容易誘發許多疾病的發生,如心血管疾病、高血壓、尿酸過高及痛風、腦中風、不孕症與陽萎、癌症、血脂肪過高、第二型糖尿病,所以減輕體重不只是為己者而減,同時也是健康的指南針

なんだそうである。

うーん…。難しい漢字が多いなあ(いや、そういう問題じゃ…^^;)

日本語機械翻訳を読んでもよくわからないが、最後の「所以減輕體重不只是為己者而減,同時也是健康的指南針」というのは、「したがって、体重軽減は、ただこれ減るもの自身の悦びのために為すのにあらず、同時にこれ健康指針なり」ということだろうか? もっと分かりやすく言えば、減量すれば、体型がかっこよくなるだけでなくて健康になるので長生きできるし医療費も削減できますよということだ(中国語は全く知らないのでいいかげんな解釈であることは請合う)。

そういうわけで、運動のやり方や食事のしかたを教えてくれる、いわゆる健康教育の重要性を記事の中で説いているらしい。その部分の機械翻訳は以下のようになっている。

「桃園病院のもう1度健やかな科の医師の呉正哲は、毎日使う熱量は摂取する熱量より多いのでさえすれ(あれ)ば、体重を軽減することができて、しかし最も重要なのは根気よく続けるので、リズム感、全身性を選ぶことができることを提案して、大き「筋肉の群の運動の方式を使って、例えばはや足が歩いて、ゆっくりと自転車に走って、水泳、乗って、あるいは酸素の舞踊があると指摘している。呉正哲はいっそう説明して、今流行する「333運動」、毎日3回運動して、毎回30分、強さは動悸の130の下でだ!

苗栗病院の栄養士は明華の強調を祈って、普通の民衆が長くて重い民間の処方を減らすことを求めて、バランスが取れている、低い熱量の飲食をマスターすることが分からないで、いつでも運動する秘訣を掌握して、最もよく重い方法を減らす。現代人の外で食べる機会が大いに増加するため、特にみんなが説明する外に食の技巧のため明華を祈って、油脂と熱量を減らしてから手を書いて、特に外で食べてバイキング式料理を食べる時、料理を注文してニワトリの足を試験して鶏の足のから揚げに取って代わることを選ぶべきで、ご飯でチャーハンに取って代わって、両者の熱量の違いの1倍数、不可うっかり! 」

 中国の人あるいは日本語のうまくない誰でもいいが、そういう人が話していると思って読んでみると、なんとなくわからないでもない。

 世の中には、文庫本は本ではない、ときっぱり断言することができて、実際にも買うことはなく、そうすることで読めない本(たとえば岩波文庫やハヤカワ文庫には文庫しかない翻訳が多い)が存在してもかまわないと、これまた断言するひとがいる。2人の知人から断言された記憶があり、私には全く(未だに)理解の範疇を超えているので、よく覚えている。

 翻訳は偽者だから読まないといった女の子も知っている。

 どちらも気持ちはよくわかる。どちらも渡部昇一の著書か発言に影響されているのだろうと思う。いや、違うかもしれないが、彼の『知的生活の方法』がベストセラーになった前後の「伺か」(しゃれ、しゃれ)であるのは確かだと思う。

 というのは、どちらの意見も、私自身がいちどは大まじめに考えたことであり、その年代が70年代だからである。ひょっとしたら誰でも高校生位の時には一度は考えるのかもしれないが、少なくとも、語学については、ラテン語が『ガリア戦記』を読める程度で、だれか英米のベストセラー作家の新作(英語)を読み始めたら止まらなくて、夕食も忘れて読了してしまった、という記述が前掲書中にあったことははっきり覚えている。

 どうなんだろう。確かに、自分だけの基本図書セットを所有するべきだという意見も前掲書にあったのはなんとなく覚えている。でも、文庫じゃだめだと書いてあったという記憶はないのだ。

 翻訳にしても、原書が読めると世界が広がるくらいのことしか書いていなかったような気がする。

 どちらもどこかではっきり断言しているのを読んだ記憶はあるのだが。

 話題がそれてしまいましたね。要するに、何かを信じることはいいことだけど、少なくとも私にはなにか絶対的なものを想定することはできなかったということです。ある意味では挫折の告白だと言ってもいい。

 私も機械翻訳の気が狂いそうになる文章が好きなわけではない。吉田健一や石川純や内田百が良くて、大江健三郎がだめというのはすごくよくわかる。

 でも、一番好きなのは、今挙げた中では、大江の『個人的な体験』なのだし、それはほかならぬ、あのごつごつして読みにくい、けれども変にリリカルな文体のせいだ。今気がついたけど、あの文庫本、翻訳嫌いと、大江、埴谷雄高嫌いは通低するものがあるような気がする。説明できないけど。

 大江健三郎のあまり時間をかけないで書いたらしいエッセイや、講演を読むと、普通の人間が話しているので驚くことがある。TVのインタビューもそうだ。

 ということは、彼の文体は、極めて恣意的な産物なのであって、決して頭が悪いというような巷に言われることが原因ではないと思う。多分彼の批判者はただ嫌いなのであって、そのためにそういう言い方をしているだけなのだろう(例えば倉橋由美子などは典型的ではないか)。

 ただ嫌いですめば簡単なことではある。そう書くだけでお金になる人々にとってはそうだろう。しかし、嫌いではあってもそれだけではお金にならないとき、問題は複雑になる。

(はなしはますますややっこしくなってきたが、もう時間も遅いので、あとは明日にする。連載は初めてだ。もちろん、続く保証はない…。フィクションですよ、あくまでも)

2004年07月04日

続・ダイエットの喜び

 前回からの続きである。

 さて、機械翻訳をむやみに嫌うのは良くないと言った。とはいうものの、もし以下のような記述をまじめに実行しようとするなら、その限界はあまりにも明らかだ。

「桃園病院のもう1度健やかな科の医師の呉正哲は、毎日使う熱量は摂取する熱量より多いのでさえすれ(あれ)ば、体重を軽減することができて、しかし最も重要なのは根気よく続けるので、リズム感、全身性を選ぶことができることを提案して、大き「筋肉の群の運動の方式を使って、例えばはや足が歩いて、ゆっくりと自転車に走って、水泳、乗って、あるいは酸素の舞踊があると指摘している。呉正哲はいっそう説明して、今流行する「333運動」、毎日3回運動して、毎回30分、強さは動悸の130の下でだ!

苗栗病院の栄養士は明華の強調を祈って、普通の民衆が長くて重い民間の処方を減らすことを求めて、バランスが取れている、低い熱量の飲食をマスターすることが分からないで、いつでも運動する秘訣を掌握して、最もよく重い方法を減らす。現代人の外で食べる機会が大いに増加するため、特にみんなが説明する外に食の技巧のため明華を祈って、油脂と熱量を減らしてから手を書いて、特に外で食べてバイキング式料理を食べる時、料理を注文してニワトリの足を試験して鶏の足のから揚げに取って代わることを選ぶべきで、ご飯でチャーハンに取って代わって、両者の熱量の違いの1倍数、不可うっかり! 」(前傾ニュースより)

 前段の食べたエネルギーより使ったエネルギーが多ければやせるので、そういう状態を長く続けろというあたりはよくわかる。運動も、はや歩き、自転車、水泳、エアロビクスで、一日3回x30分、脈拍が130以上にならないようにしなさい、ということだろう。

 ところが、後段はぜんぜんうまくない。一行目は体重を減らす方法を説明しているのだろうか? バイキングで低カロリー低脂肪のメニューを選択せよ、というのはわかるのだが…

 やはり本当にそれに基づいて何かをしようとするなら、こんな翻訳ではかなり無理がある。ほかに手段がなければやむを得ないとしても。

 英語の機械翻訳にしても全く同様のことが言える。機械翻訳はそれなりには使えるが、それ以上に使うのは明らかに間違っている。こちらとしてもそれ以上の働きなど、はなから望んではいないのだが、使う人間が無意識の期待感をこちらに投影していることがあり、しかもそれは無意識だけにちょっと面倒なことになりやすい。

 はじめのころ、こういう無意識に気がつかず、そのためにそれを意識的に回避するようにはサイトを作らなかった。積極的に機械翻訳を利用してほしいと思ったからだが、これは行き過ぎだったようだ。

 現在のサイトではかなり意識しなければ機械翻訳にたどり着けない(というほどでもないが、結局ちょっとした違いなのである)構造になり、クレームはなくなった。

 しかし、翻訳では読まないといった前述の女の子にとっては、問題はぜんぜん次元が異なっている。文庫本は買わないというのと同じく、偽者だから嫌だというのだから、翻訳の質の問題とはぜんぜん関係がない。

 一番現実的な答えは、人間に使える言語は通常限りがある。多くの場合はひとつかふたつであり、本当に細かなニュアンスまで完全に理解できるのはひとつだけのことが多い。翻訳はしたがって必要悪であり、それによってかなりの理解が実際に達成できるのだ、というものだろう。

 文庫本は、いまだにどうして本じゃないのか、よくわからない。どなたか出典をお教えください。

2004年07月14日

やっと公開だよ

 とうとう公開にこぎつけました。「健康食品」の安全性・有効性情報です。午後2時頃からパスワードなしでアクセスできるようになりますので、もうしばらくお待ちください。

 内容はかなり盛りだくさんで、しかも信頼性の高いものばかり。その分ちょっと難しいかもしれませんが。

2004年07月18日

栄養クレオール主義

 漠然としてますが。

 とりあえず、サイト名は、『えいようトルトレータ』でいこうか、と。

 ふざけ過ぎだって?

2004年07月29日

にがり(こみゅーんより転載)

 栄養教育とは直接関係ないけれど、「健康食品」の安全性・有効性情報で話題になっている「にがり」の痩身効果なしという情報ですが、予想されたとおり健康食品の販売会社から抗議が殺到しているようです。

 今回の抗議からは、どうやら、一般の人にとっては、3人の学者が学会で発表していれば、それは充分な根拠なのだということがわかりました。

 研究者(学者)の視点からすれば、たった3人の学者(少ない)が学会でしか発表していない(全く信頼性なし)ものは、なにも証明されていないに等しいのですが。

 販売会社にとっては死活問題かもしれないし、本気で信じているのかもしれませんが、彼らはまず、東方の三賢人(確かな根拠があると主張する3人の学者)に聞いてみるべきでしょう。

 もし聞いてもしかたないくらい無知(専門教育を受けてないという意味です。バカという意味ではありません)なのであれば、栄養研にクレームをつけても無意味です。簡単に論駁されてしまうでしょう。

 どのにがり製品で検討したのかと会社の人は仰るようですが、製品ごとにことなると考えているのであれば、それは、「にがり」に効果がないことを認めていることになります。他社の製品には不純物が多いとか、いろいろ主張されているようですが、にがりの効能に関する「研究」は、そういうさまざまな会社の製品を用いて行われているのではないでしょうか? 学会発表でもとりあえず確たる証拠と認めると仮定しても、もし製品ごとのばらつきが大きいのなら、学者の研究で用いられた製品以外の製品は、結局効能を主張できないことになってしまいます。

 ところで、今回の栄養研の発表では、体重が減ることはありえると言っているのに気づいたでしょうか? タイトルには「痩身効果」なしと書いてありますが、下痢や軟便によって身体から水分が失われることで見かけ上体重が減ることはあると言っています。

 でも、必要な栄養素の吸収を阻害することになるので、止めたほうがいいと主張しているわけです。

 日本人の複数の研究者の方々が、にがりの痩身効果について研究していることもこの文章の作者は承知していると思われます。にがりのメカニズムとして主張されているいくつかの点について調べれば、すぐにそれら先生方に行きつくからです。

 通常、まともなエビデンスがないと研究者が言うとき、それはPubMedで文献が見つからないことを意味しています。それは、例えば中国語や日本語で書かれた文献がないという意味ではありません。それらの文献が嘘をついているといっているわけでもありません。

 簡単なことなのですが、よほど偏屈な学者でないかぎり、論文はできれば英語で発表したいと思います。したがって、もし効果がすばらしいものであれば、英語で発表したいと思うのは当然ですし、だれもがそうするように勧めるでしょう。

 では、もしにがりの英語文献があまり存在しないとしたら、それは何を意味するのでしょうか?

 真実は知りません。でも学会でふつうに考えるのは、英語の文献が存在しないならば、エビデンスが希薄なのだということです。それは効果がありえないといっているわけではないのですが、そこのところの解釈が一般の人と研究者で大きく異なるようです。

 研究者として、英語の文献の欠如は、1)いいかげんなもので実際エビデンスがないから、2)研究している人が英語を書けないから、3)国粋主義者なので英語では発表しないから、のどれかだと考えます。3)は私が知っている範囲ではひとりも知りませんし、そんなことを言っていたら博士号も取れないので、まずありえないでしょう。

 とすると、1か2ですが、英語の翻訳サービスも今はありますし、とにかく英語で書かない研究者は、中世ヨーロッパでラテン語で書かない研究者と同じで、無視されたとしても文句は言えません。

 学会で発表してると抗議するかもしれませんが、そんなことをまじめに主張できること自体が恥ずかしいことなのです。

 そうは言っても、上記のことが、にがりに効果が絶対に存在しないという証拠にならないことを認識することが重要です。

 健康食品会社の人はもしかしたら認識しているけれど、購買層が絶対に認識しないからクレームをつけてくるのでしょう。そう思いたい。

 その認識が欠如しているとしたら、健康食品を扱うのはやめたほうがいいのではないでしょうか? もちろん誰でも何を売っても法的な問題はありません。でも道義的な問題がないとはいえないでしょう。

 「わたしは一週間で2キロやせました。これをどう説明しますか」というクレームがついたとして、その「わたし」さんの元の体重は書かれていない、アルコールを断ったというけれど、その前後の体重変化も書かれていない。運動が増える状況ではない、食事量は明らかに増えていると言われても、だれも見ていない。まさに、そういう結果報告のことを、エビデンスがないというのです。

 もし初耳なら覚えてほしいと思います。

 一般の書籍では、こんな実例を10か20か集めて、事足れりとしている。学会発表もこのレベルで可能です。もう少し例数を増やせば日本語の論文になります。

 たしかに、例数をはるかに増やせば、こんないいかげんな報告でも英語の論文になるでしょう。でも、例数を増やすと、いいかげんな結果ではきちんとまとめられないことが多いのです。そのために英語の論文にならない。

 正直なはなし、こんな説明を毎回くりかえすのはうんざりかもしれません(今回は私は当事者ではないけど)。

 高校の課程で、こういう研究のことを教えればいいんですね。

2004年07月30日

あまんじゃく

 中学生のとき、校長先生が朝礼の時にたびたびしたたとえ話のひとつに、あまんじゃくの話がある。天邪鬼が訛ったものだが、校長先生は子供を狙う悪い大人の話を、みんなあまんじゃくの事として話す癖があったものだから、私のなかでは、いつもひとりの「あまんじゃく」が悪いことをしているような気がしていた。

 これに小学生のときに流行していた伊賀の影丸の敵役がプラスされて(天野邪鬼)、それが実は由比正雪(だったような全然違う話だったような、実はよく覚えていない)であって、しかも長髪の美男子に描かれていたために、ついには、「あまんじゃく」は、美男子の政府転覆を狙うテロリストで、忍法の心得があり、子供を狙う、決してつかまらない(だっていつも登場するって事はそういうことだ)悪いやつというイメージが出来上がってしまった。

 どうして、校長先生が悪い大人のことを「あまんじゃく」と名づけたのかはわからない。当時も今も私の考える天邪鬼のイメージは、「あまんじゃく」とはかなり異なっているからだ。

 校長先生はおそらく50代だったと思う。50年も人間をやっていると、発想に一定の型ができてしまうのはしかたないことかもしれない。べつにそんなことで校長先生を責めるつもりはない。中学生にも本当の自治を、とかなんとかわけわかんないことやって、生徒会をめちゃくちゃにした、という事件がうちの中学で起きたときの校長だったと思うが、なんだかあまり記憶がない。音楽の早川先生にこってりしぼられたことは覚えているのだけれど。

 天邪鬼のはなしだった。

 ある意味で、私にとって、天邪鬼はヒーローである。「あまんじゃく」ではない。いつでも結論をひっくり返したり否定したり無視したりするという意味での真の「天邪鬼」のことだ。

 なぜかといえば、これは研究をするときの心情に極めて近いのだ。研究者ほど意地の悪い集団はいない。それを抑えると研究は停滞する。

まとめ:断定するようになったら要注意かも。

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