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2006年05月 アーカイブ

2006年05月01日

メロディ



5月1日は、メーデー(直訳すれば五月の日か)である。


いつもなら、亀戸か代々木に行っている日(わたしはふだんはぜんぜんまともな活動はしないのにこういうときだけ仕事を休んで昼間から酒が飲めると思って参加するチャランポランなやつである)だが、引越しの予定があったのでやめた。


でも実際には、その引越しも電気工事やクーラーの工事、その後に来るサーバラックの移設工事などを考えると、わざわざ連休の中日にする必然性が薄いので、中止した。


結局締切を過ぎた原稿を書いて一日が終わった。


歳をとるにつれて重みは増す、ような気がする。でも、死ぬ間際の経験と、十代のころのあの思い出と……死んでしまえばすべてが無に帰すと思っているわたしには、どちらが大切なのかを決めかねる。死に際の思い出(というものがあればだけど)として。


もちろん、思い出以外の日常もある存在にとって、常に続く現在には今も昔もあるわけがない。だって昔には帰れないんだから。


それはともかく。今日、初めてだと思うけど、50近くなってなにかを始めるのも良いですといわれて、自分の歳を自覚させられた。50近い人間が何かを始めるはずがないと素直に思える年頃が正直うらやましい。


2006年05月03日

すしはスリムな夜の女王



米国の学術雑誌サイエンスのオンライン・ニュースによれば、日本人がスリムなのは、タウリンを多く含む魚介類を良く食べるからかもしれない。


わたしの勤め先である、国立健康・栄養研究所の笠岡(坪山)宜代研究員の研究で、雑誌『内分泌学』のオンライン版に4月20日付で掲載された。


実は、この論文の投稿用の図表を彼女が上手く作れなくて、手伝わされたのである。それこそIT支援じゃないですかとか彼女は言うのだが。……多分、違うと思う。


2006年05月06日

フロイスの見た戦国日本



中公文庫のこの本を読むと、信長も秀吉も独裁者であり、その点、夕方ケーブルテレビでやっていた『アドルフの画集』のヒトラーと大差ないようである。


著者は、近代民主主義がどんなに欠点を抱えていようとも、独裁者を生み出さないだけで良いシステムといえると書いている。


でも、ヒトラーもムッソリーニも政党政治の中から出てきたのではなかったっけ? 東條は?


独裁者というのはどんなところにでも現れるからこそ恐いのではないか?


権力が集中するようないかなる仕組みも排除してきたはずの日本において、それに逆行するシステムが機能し始めているように思える。だれも個人の思い通りにならないシステムがよかったのではないのだろうか? 上に立つ人間の意志をそのまま通さないのが良かったのでは?


かならずこの体制のなかでも独裁者と後に呼ばれる人物が現れるに違いない。未来の予測は必ずはずれるので、これもはずれるのは間違いないけれど……


2006年05月07日

Human-centered design



人間中心主義という場合の人間は、ヒトではない。つまり生物学的な存在としてのヒトではありえない。


もちろんいろいろな考え方があるだろうけれど、(生き物としての)ヒトは、ただそこに、進化の過程で(サルの仲間としては)一番新しく現れた存在であるかもしれないが、そこにあるだけの存在だからである。


そんな存在を中心にできるわけはない。中心というのが、時系列的な(現時点での)最終(最新)を意味するというような説明はあきらかに欺瞞があるからだ。


最近になって、人間栄養学がどうして違和感があるのかに思い至った。だれだったか、この言葉はおかしいのではないかと言うとただちに、「でも人間関係学とか、ありますよね」という答えが返ってきたことがあった。関係学があって、それに人間を賦与したのなら意味があるけど、これは人間関係の「学」だから、まるで反証になっていない。そんなことは直ぐにわかるのに、言ってみなければ気がすまなかったということだろうか。


言葉にこだわりすぎているという反省は確かにあって、ヒトでも人類でも人間でもどうでも良いのかもしれない。


でも、人類生態学を人間生態学と言い替えるとまるで異なる意味になるだろう。明らかに(少なくとも日本語では)人類と人間は異なる言葉なのだ。人類栄養学と人間栄養学も同様に異なる領域を意味することになるはずである。


結論からいえば、人間栄養学を目指すというヒトがいて、なんの問題もないということにわたしは気がついた。それはつまるところ、人間医学というようなものなのである。ヒトを対象にしない医学はありえない(その場合は獣医学という)のでそんな言葉は出てくるはずもない。ならば栄養学はヒトを対象にしないのかというと、それもそんなことはないはずで、栄養学はその出発点から徹底してヒトを対象にした学問だった。


でも、世の中には、動物実験をしていると、どうしてヒトが蔑ろにされるのかと、本気で憤るヒトがいるのである。わたし自身、どんなにありえる状況であっても、レンズマンをいまだに読めない強い忌避感があることを認めざるを得ない。いまさら読むものでもないというツッコミは禁止。


もしかしたら、ビタミンを物質的に明らかにしたのがハトの実験だったことに、いまだにトラウマを感じるヒトがいるのかもしれない。ハトの実験だったからなかなか認められなかったのは、振り返ってみれば、汚点のようにも見える。


というわけで、わたしは、できれば人間栄養学なんて言葉はなくなってほしい。人間という生物学的存在以上のものを意味する言葉を使うこともおかしいが、そもそも栄養学に人間も動物もないと思うからだ。


いや、ヒトと動物の代謝の違いはもちろん存在する。でも、栄養学という時に、だれが乳牛の栄養学を思い浮かべるというのだろう。看護学はもっと端的な例である。動物を対象にした看護学なんて基本的にはあり得ない(もちろんどちらも獣医学の領域として存在しているが、頭にけものを意味する単語が付加されるのが普通だ)。


議論のなかでは、人間という単語が肯定されているが、医学も看護学も、そして栄養学も、人間を対象にしているのだから、これはしかたない。わたしは、栄養学をわざと貶めるような言葉遣いが嫌なだけである。


かつて、人間工学という学問が持て囃されたことがあった。人間のための工学という意味で、これは明かにヒトではない人間を意味している。なぜならば、ヒトとしての人間は、その工学技術に適応しているからである。生物学的な存在としてのヒトが使うようにすべての工具は作られている。当たり前の話で、動物が使うようにデザインされたものは恐らくただのひとつもないだろう。


それなのに、なぜ人間工学なのか。わたしはこれがそのまま人間栄養学にも適用できるのではないかと考えている。


2006年05月08日

Human-centered design (承前)



というわけで、昨日は、周産期栄養学があり小児栄養学があり、それらをひっくるめて人間栄養学だ、人間だ、と主張する理屈は、ほとんどそのすべてが人間社会のため、人間が暮らしやすくなるための工学に「人間」を付加する理屈と同じではないかと述べた。


 工学というものが、人間を無視しているという観点からの警鐘の意味があったのかどうか、この言葉が広く使われるようになった70年代にはわたしも生きていたはずだが、知る由もない。


 ウィキペディアの説明が正しいかどうかは判定できないにしても、文中にある心理学的側面というのがポイントかもしれない。もともとエルゴノミクスはエンジニアリングとは全く異なる単語だから、それが工学であることは日本人には自明ではあっても、なんと呼ぶべきか議論があったことは想像に難くない。


 前述のように、工学技術は、すべてヒトに合わせて作られている。クマの曲芸用の踏み台やライオンの火の環潜りの環をふくめて(サーカスで客が喜ぶように設計されているのだから。そもそもクマもライオンもそんなものは存在しないほうがうれしいのではないだろうか)、そういう意味では、ヒトのための工学であり、それ以外にはありえない(ラットの給水瓶というようなものもあるが、それは例外に属するだろう)。


 蛇足だが、ロボット工学の三原則を御存知だろうか? SF作家のアイザック・アシモフが、編集者キャンベルの助言に従って作り出したということになっている。アシモフのロボットものにはかかせない三原則だが、ロボットについての工学という意味で、ロケット工学と同じつくりの造語であり、決してロボットの立場に立脚した工学ではない。これを人間工学と同じつくりの造語にできれば、アシモフはサイバーパンクのさきがけにもなったかもしれないが、はたしてそんなことが可能だっただろうか?


1 ロボットは自己を守らなければならない。


2 ロボットは、人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。


3 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。ただし、あたえられた命令が、第一条および第二条に反する場合は、この限りでない。


 実際のロボットの三原則では、人間に危害を加えないのがもっとも根本的な原則だ。ロボットはヒトのために作られた道具なのだから当然である。でもロボットが自意識を持つとしたら? チャペックの戯曲『R.U.R』は、ロボットの語源になったそもそもの作品だが、当然のこととして、そのような高い技能を代行できる存在の自意識が主題になっている。つまり、ロボットは反乱を起こし、ヒトを殺してしまうのである。


 そんな自明のことを未然に防いで物語を紡ぎ出すのが編集者であり、できればそれに騙されないのが良い読者ということになるだろうか。


 自分でなにかを見つけるというのは貴重なことだ。見つけたものをだれかれなく喧伝してあっぱれなヒトもいる。わたしはとてもついていけないことも多い。判断を自分でするという当たり前のことが励行できるなら良いのだけれど。 


2006年05月13日

栄養社会学へのいざない

 サラダの日々というのは、別の処で何度も書いているように、シェイクスピアの戯曲の中で、クレオパトラがシーザーとの羅馬での生活を省みて言う台詞である。その時点での不倫相手のアントニーを念頭におき、しかも、そのとき既に三十代後半と思しく、シーザーとの日々は十代の最後の数年だったと思われるので、既にその両方の歳を過ぎている人間には(つまりわたし。でも性別が異なると成長曲線はかなり異なる)、一種の懐かしさも伴って実感されるような気分ではある。

 どうしてそれが英語の慣用句として残ったのかは調べていないのでわからないが、多くの人が、たしかにサラダだと思ったのだろう。

 わたし自身はまちがいなくそう思っていた。つまり、そのサラダの日々のなかにあって、ということである。

 でも、それが栄養社会学(ググってもヒットしない)にどうつながるのかは、正直に書くなら、まったくわたし個人の問題ということになるだろう。「栄養社会学」という言葉はさっき思いついたもの(ちなみに、健康社会学は大学の学科名にもなるくらいすでに普及している)だし、もちろんそれが意味するところに一般的な了解が存在するはずもない。

 そこに、重ねて、サラダの日々だって? しかも新がついているなんて、わたしはそういうのを面白いと思うので、そうなっているが、それゆえリンクDEダイエットのような継子扱いになるのは避けられないかもしれない。というか、それを望んでわざとやっている面がなきにしもあらず。

 教科書的に書いておくと、栄養学においては、既に栄養指導(佐伯先生の造語らしい)や栄養カウンセリング(もとの英語とは微妙に意味がずれている)という分野がある。栄養社会学はそれらを包括しつつ、さらに社会学的な視点を取り入れたもの、ということになる。健康社会学や医療社会学が意味するものを特に栄養運動休養に特化した概念といったところだろうか。

 認知行動療法のようなくくりで、あくまでも治療法の一種と考えるのもひとつだが、エンパワメントのような概念は、もともと教育学のものであり、治療のような医療行為とはかなり異なっているので、いっそのこと、それらすべてを包含する概念というのも有効では…

 ということでは全くなく、単に質的研究について調べている過程で思いついたというのが偽らざるところ。こういう分野が主流になるなら、それこそ人間栄養学に違いないと思うのだが。

2006年05月14日

新・サラダの日々



というと、旧があるのかという話になるが、それはあったようななかったようなで、未公開のまま闇に葬られつつある。あるいは、新がつくのは、今ここであえてサラダの日々なのだから、というようなことでもよい。


 実はまた新しいブログを立ち上げたというわけだ。栄養社会学あるいは栄養クレオール主義の拠点になるべき新プロジェクトである、とかなんとかいっても、ほとんど思いつきで書いているに過ぎないので、いままでにも紆余曲折あったように、それに重なるアクシデントにも見舞われたように、予定がリニアに進むとは自分でも思えないが、栄養クレオール主義のとっかかりは見えてきたように思う。


 でも、その言葉がなにを意味しているか聞かれても答えられない。単なる思いつきの域をでない。二年前、栄養学が新しい声を手に入れようとするとき、それはクレオールになるだろうと思ったのがきっかけだが、もちろんクレオール主義という題名の書籍があったから思いついたのだ。とはいうものの、未だにクレオール主義は何度読んでも理解できないので、当然栄養クレオール主義はクレオール主義となんの思想的関連もない。


 クレオールやピジンの説明から始めたら長くなりそうなので、この言葉はそれ以来使わなかったが、それが栄養社会学としてひとくくりにできるような気がしてきた。


 もちろん、栄養社会学も単なる思いつきの言葉であるが、ヒトの生き方そのものを変える(生活習慣を変えるというのは、かならずそういうことになる。自分の習慣の由来をなんでもいいから考えてみればすぐわかることだ。ことさらそうでないものを捜すという意地悪なやり方は、それ自身そのことを証明してしまっているという意味で墓穴を掘っている)のであるからには、差別や排除の構造を探るのと同じような力と方法論が必要だと思ったところからきている。


 たとえばなしになるけれど、共同生活をした当初、言葉に齟齬がみられるという経験は一般的だろう。これを解消するためにピジン・イングリッシュが生まれる。これが発展するというわけでないところが微妙なところだが、同じように共同体のコミュニケーションのために生まれかつ母語といっていいい存在になったものがクレオール。


 栄養クレオール主義というのは、栄養学が疫学や心理学などの概念を取り入れて、ヒトの栄養学をことさら人間栄養学とよんでみたり、栄養カウンセリングという言葉で栄養指導には心理学が必須だという思いを込めたりする、その総体を社会学的な現象としてとらえるものだと、いま書きながら思いついた。


 これはたしかに栄養社会学のような気がしてきた。


2006年05月16日

歌は世に連れ世は…

 健康教室を開催して、集団に対する健康教育を行うのもひとつのやり方だが、まずかなわないと思われる敵に先制攻撃を仕掛けて、しかも絶対にやめようとしない戦争を行うことによって、集団の栄養状態を負の方向にもっていくのも、ひとつのやり方である。

 前者は意識的であり、後者は、栄養という視点に無自覚だという違いがあるに過ぎない。国民全体をいやおうなしに巻き込む、徹底して栄養に自覚的な最近の例として、食育推進会議のようなものもある。

 骨と皮だけの女性がもっとも魅力的と思う男性ばかりではないはずだが、若い女性は痩せたがる傾向にあるようだ。まるで自然現象のようにいわれるとしても、これは明かになんらかの健康教育の結果である。戦争のように、その教育は健康とは何の関係もないかもしれないが、人為的であって、修正可能なもののはずだ。マスコミはわざと、統計を作っている側は客観性を重んじて、それが人為的なものであることを言わないでいる。まるで、女子高生はレミングだといわんばかりの…ちょっと考えればおかしいことはすぐにわかる。だって女子高生と女子大生ほど他者に依存して生きている存在も珍しいでしょう?

 というわけで、美空ひばりと戦後の歌謡史が社会学の対象なら、GHQの指導で始まった国民栄養調査に始まる戦後の栄養行政は、立派な社会学の対象である。所要量も当然そう言うことになる。なんで毎年調査して五年ごとに所要量を変えるかという。

 でもそんなディープな話題は、こんなおちゃらけたブログにはまるでふさわしくない。そんなのまるで社会学じゃん。栄養社会学は、所詮クレオールなのだから、「インターネットの情報信じるなんて馬鹿じゃん」みたいなところから始めていきたい。

 僕らはおちゃらけクレオール探険隊です。爾後よろしくお願いいたします。ちゃんちゃん。

2006年05月18日

栄養指導



 現在の栄養士教育課程では、栄養教育または栄養カウンセリングという言い方にかわりつつあるが、「栄養指導」という熟語は、栄養研の初代所長、佐伯博士の創案によるものだということを最近知った。


 ならばむやみに変えるべきではないのかもしれないが、今は「食育基本法」の時代である。「食育」という単語は、起源は知らず、少なくとも明治36年ごろには、知育体育徳育に先立つもの、つまり今の食育と同様の用例がすでにあるが、時代はそれに遅れること十数年の新語「栄養」のほうへと傾いた。


 用字が異なるだけで、「営養」という言葉はもともとあったのだから当然ともいえるが、同時代には「食養」という言葉もあったようで、それらの意味するところは各々異なってはいても、結局は日本人の健康を増進というかキッチリしたいという目的は同じだったと思う。


 それで、戦後の法律は栄養改善法だった。今は健康増進法に代わられている。健康増進法というのは、私鉄の駅が全面禁煙になり、JRでも朝は全面禁煙になった、あの原因を作った法律だが、栄養関係のことも、すべてこの法律に受け継がれて、栄養改善法は消滅した。


 国が推進するものは食育になった。健康日本21を作っているときにはあまりそういう考え方はなかったように思う。まだ栄養学の時代だった。


 なるほど、それで人間栄養学という言葉をしきりに提唱していた先生が最近めったに使わなくなったことが了解される。たぶん、これからは人間食育なのだろう。という冗談はさておいて。


 栄養指導はどうなのだろうか、というのが本稿のテーマであるが、意外にも「食育の推進には栄養指導が効果的だ」と書いてもあまり違和感がない。ということは、やっぱり栄養指導でいいんじゃん、ということだろうか?


 本当に重要なのは言葉ではなくて本質、というか具体的な行為だとは思うものの、食の教育ということで、いままで栄養学にはほとんど登場しなかった食の専門家、つまり料理人の世界が活気付いているのは、料理学校の校長が栄養研の理事長と同じレベルで栄養学(というか食育)を競い合うところまできていることからも明らかだろう。別に個人の資質や職業の貴賎を言いたいわけではない。


 つまり、食育なのだから。もう栄養学の枠ははみだしてしまったのだから、新しい枠組みが今作られつつあるのだ(多分)ということなのである。


 こういう記述は、歴史学なのかもしれないし、社会学なのかもしれないし、考現学のような言い方のほうが良いのかもしれない。どうせわたし自身は社会学はおろか文系の研究に関する教育は全く受けていないので、なにをやっていても無視されるだけ。ついでにいえば、いままでもずっと無視されていまに至っているので、もうそういうことはどうでもよくなってしまっている。単なるルポルタージュでもドキュメンタリーでも良い。


 ところで、今気付いたのだが、栄養研の新しい組織図では、栄養教育の中に食育が含まれる形になっている。現状認識としては、このほうが正しいのかもしれない。しょせん、言葉だけなら遊びである。本質を見極めるというような、書いていて恥ずかしくなるようなことを、いつまでも恥ずかしがっていないでするのが良いわけだ。


 つまり、これは栄養社会学である。どっちが上位概念かではなく、両者の融合を考える。栄養クレオール主義というわけだ。もっと栄養学的にわかりやすくしたほうが良いのだろうが、一方では栄養教育とか栄養カウンセリングと言い、他方では、いきなり食育である。


 ほんとうに、本質を見極めることが重要とでもいうしかないのだが、もとの言葉(フランス語)とアフリカ人奴隷の言葉、インディオの言葉が混ざり合う現実において、本質とはなんだろう。クレオールの話者の大半にとって、あるのはただ日常だけであり、その結果なりゆきまかせにできる言葉がクレオールである。主義という場合、その本質にもっと自覚的にという意味合いがあるとはいえ。


 これ、ぜったいヤバイ。これからは、なるべく公開サイトでは書かないようにしようと思う。


2006年05月21日

もう迷わない、健康食品選びのポイント



 今晩は。書いているそばからウソっぽい気分に背筋がゾクゾクするkhirota1958です(^^;


 選び方のポイントを教えられれば、られるほど、ますます迷うに決まってる、というか、迷ってもらわなくちゃこまる、というか。


 簡単なものは、といえば、青酸カリで自殺する方法。でも、胃腸薬の飲み方、頭痛の治し方になると、もうだめ。そんな急性疾患の治療薬も簡単には選べないとしたら、どうして、30年後に効果がわかるものを選べるというのだろう。


 たぶん、タイトルの意味しているのは、選び方のポイントを列挙するときに、迷わなくなるということ。それは教えることが容易だし学ぶことも容易。いつだったか、選び方のポイントをやはり教えたパンフレットがでまわっていたが、手当たりしだいに目に付いたおかしな広告をあげつらっただけのようで、その項目がどのような順番でならんでいるのか、書かれていなかった。広告のことばのほうが理解されやすいと思ったのか、それをもっと普遍的かつ理解しやすく一般性もある言葉に置き換えなかったのが最大の欠点だと思われた。


 もっとも、論理的だとおもわせておいて、むちゃくちゃを述べ立てる技術もあり、書かれたものには常に注意が必要だ。もちろん、そのようなことを文章でいうこの文章にはもっと注意が必要だろう。上記の文書がベストセラーになったりテレビに取り上げられたりしているのに、このページは街の噂になったりしないのだから、信用しないほうがいいにきまってる。


 そうですよね?


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