というと、旧があるのかという話になるが、それはあったようななかったようなで、未公開のまま闇に葬られつつある。あるいは、新がつくのは、今ここであえてサラダの日々なのだから、というようなことでもよい。
実はまた新しいブログを立ち上げたというわけだ。栄養社会学あるいは栄養クレオール主義の拠点になるべき新プロジェクトである、とかなんとかいっても、ほとんど思いつきで書いているに過ぎないので、いままでにも紆余曲折あったように、それに重なるアクシデントにも見舞われたように、予定がリニアに進むとは自分でも思えないが、栄養クレオール主義のとっかかりは見えてきたように思う。
でも、その言葉がなにを意味しているか聞かれても答えられない。単なる思いつきの域をでない。二年前、栄養学が新しい声を手に入れようとするとき、それはクレオールになるだろうと思ったのがきっかけだが、もちろんクレオール主義という題名の書籍があったから思いついたのだ。とはいうものの、未だにクレオール主義は何度読んでも理解できないので、当然栄養クレオール主義はクレオール主義となんの思想的関連もない。
クレオールやピジンの説明から始めたら長くなりそうなので、この言葉はそれ以来使わなかったが、それが栄養社会学としてひとくくりにできるような気がしてきた。
もちろん、栄養社会学も単なる思いつきの言葉であるが、ヒトの生き方そのものを変える(生活習慣を変えるというのは、かならずそういうことになる。自分の習慣の由来をなんでもいいから考えてみればすぐわかることだ。ことさらそうでないものを捜すという意地悪なやり方は、それ自身そのことを証明してしまっているという意味で墓穴を掘っている)のであるからには、差別や排除の構造を探るのと同じような力と方法論が必要だと思ったところからきている。
たとえばなしになるけれど、共同生活をした当初、言葉に齟齬がみられるという経験は一般的だろう。これを解消するためにピジン・イングリッシュが生まれる。これが発展するというわけでないところが微妙なところだが、同じように共同体のコミュニケーションのために生まれかつ母語といっていいい存在になったものがクレオール。
栄養クレオール主義というのは、栄養学が疫学や心理学などの概念を取り入れて、ヒトの栄養学をことさら人間栄養学とよんでみたり、栄養カウンセリングという言葉で栄養指導には心理学が必須だという思いを込めたりする、その総体を社会学的な現象としてとらえるものだと、いま書きながら思いついた。
これはたしかに栄養社会学のような気がしてきた。