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2006年07月 アーカイブ

2006年07月07日

たなぼた



ではありません。はとほの違いはけっこう大きいかもしれません。年に一度というのは、耐え忍ぶ一年マイナス一日が言外ににおわされているのに、たなからぼた餅が降ってくる人間は別に耐えてもいないし忍んでもいない、敗戦の日の日本人とは逆の境遇にある人です。だからこそ「もうけもの」を意味するわけです。だから、耐え忍んで得たものは普通たなぼたとはいいません。


 と、またしても目一杯脱線したからといって、別にロート製薬からお金貰っているわけではないのです。底も抜けてないし。


 近頃、業務が以前にも増してコンピュータ寄りになってきていて、だんだん栄養学の話題を調べる余裕さえなくなってきているが、所詮予算は通常のIT予算に比べればほんとうにわずかなものだから、依然として栄養学中心で業務をしていろという意味だと勝手に解釈する。


 もちろんわたしはオタクという言葉が科学者という言葉よりはよほどしっくりくる(と自分でも感じる)存在なので、ずっと面倒臭くて使わないできたWebDAVが最適解だと思えば、使うことにためらいもなく、幸いMacOSXのDAVはとても簡略化されていて使用も容易だ。


 とはいえ、わたしにはまだ研究者だという自覚があるし、今の職場にいるのだって研究者だからである。それも栄養学というか生化学の研究者、だったはずだ……。思えば当時の部長に、赴任と同時に新しいコンピュータを購入してあげるといわれて、それはもうこれいじょうないくらい細かな注文を出したのだが、今となっては、あれが間違いのもとだった。


 もっとも、移る前の職場の教授にいわせれば、わたしの業績はコンピュータをネットにつなげて適正に運用したことが第一らしいから、もっとずっと前から間違っていたのかもしれない。


2006年07月08日

だあれがみつけたクックロビン



 結局、このブログをみて応募のメールをくれたひとはいまだに存在しないが、あきらめて栄養研の公式サイトに載せたらすぐに何人かの応募があった。


 ときどきこのページを見ているのは作者ひとりだけではないかと思ったりするが、そう思って筆がすべると、すぐにメッセージをいただいたりして、(実はうれしかったけど)精神的ひきこもりの作者は、過剰反応してしまったりする。


 最近『リンクDEダイエット』のGoogleランキングはさらに8ページ目あたりまで後退してしまい、もやは回復不能という感じになってしまった。ダイエットの記事を載せなくなったから当たり前ではある。ネットのなかだけでは一日500アクセスが限界だったのが、TVで紹介されれば簡単に10万を突破する現実を見てしまい、Googleやアクセス数なんてどうでもよくなってしまった、ということもある。


 だれがみつけたの?


2006年07月14日

それはわたし、とはえが云った



 正確にいうなら、はえは、小さな眼で彼(クックロビン)が「死んでる」のを見たわけです。


 それは、カールスルーエから支線に入った小さな町にある中洲の学校での……。


 すみません、なんのことかわからないですね。萩尾望都です。カールスルーエは、ユリスモールがトーマを連れ戻しに列車で向かう途中で六角メガネに偶然出会う駅(……だとずっと思い込んでいたが、違うらしい。グーグると、ユーリの実家はウィースバーデンだったとか。3年位前に文庫版も買っているのだが、そんな細かいところまではチェックしていない。そういうアバウトさは自覚していて、つくづくオタク、評論家、ついでにいうなら研究者としても半人前だと思う)。


 『小鳥の巣』では、中洲の学校の所在は西ドイツとしか書かれておらず、カールスルーエの近くかどうかもわからないので、かなりいい加減な類推だし。


 Wikipediaの『ポーの一族』の項によれば、作品が発表されたのは1973年の4月から7月にかけてである。他人事みたいに書いているが、もちろんリアルタイムで読んでいた。トーマはそれからほぼ一年後の週刊誌連載で、いままで月刊誌にしか描いていなかったのと目を患っていたらしいことから、ほんとうに完結できるのか毎週ひやひやしながら読んでいた記憶がある。毎号のトビラ絵がゾクッとするような素敵な絵になっていて、とても毎週リアルタイムに描いていたとは思えなかった。


 それはともかく、『ポー…』は基本的には英国の物語であって、そっち系は、『トムジョーンズ』と『トリストラムシャンディ』に(嗜好としては)受け継がれていくが、『小鳥の巣』と『トーマ』がヘッセ(作中に出てくる)とマンとゲートとさらにはハイネも引きずりこんで、ドイツという存在をワタシ的には決定的なものにしていくのである。


 では、どうしてハイネと共にドイツ滞在中の座右の書はモンテーニュだったのか、という問題につきあたるのだが、今14歳のあなたはともかく、24歳のあなとと34歳のあなたに云えるのは、ヒトは変わるということにつきる。面倒なので説明はしないから、これからの10、20、30年のあいだにゆっくり考えてね。


2006年07月18日

だあれがころしたクックロビン



それは、わ・た・し、とすずめがいった


わたしの弓と矢羽で


わたしが殺した……


2006年07月27日

ウェーバークライス



 ドイツ語では、「W」は英語の「V」のように濁って発音されるので、ワーグナーはヴァーグナー、ウェーバーも最近はヴェーバーと表記されることが多い。とはいえ、何十年も清音で記憶してきた名前が急に濁ると別人にしか感じられないので、ここでは清音で表記する。ドイツ語で話すときはもちろんヴェーバーと目一杯前歯を唇に擦りながら息を吐き出している。


 話がそれるけど、ドイツ人と話すとき、自分では美しくないと思う発音をするほうがわかってもらいやすいと感じる。例えば、本を意味する「ブッフ」の後ろの「ッフ」は咽喉で発音する音で、決してカタカナから連想されるような、唇をちょっと尖らせて出す「ウフ」のような口の前の方でする音ではないと思う。咽喉の奥から息を思い切り吐き出す感じで、「R」の咽喉を震わせるのに似ているように感じる。ドイツ語の専門家ではないのであまり信用しないように。


 ウェーバークライスというものが存在したということを知ったのは、岩波現代文庫の『神話と科学』(上山安敏著、岩波書店)でだったが、その時点でも特にウェーバーの著作を読もうとは思わなかった。


 最近社会学というものをきちんと勉強しないといけないのではないかと感じはじめ、社会学といえばウェーバーだと信じ込んでいたせいで、文庫になっている著作を読み始め、いままで白帯だからと敬遠していたのは失敗だったかもしれないと思うようになった。


 もちろん、ウェーバーを読んでも、クックロビンが殺された理由が明らかになるわけではないけれども。


2006年07月28日

ハンプティダンプティ



Humpty Dumpty sat on a wall.


Humpty Dumpty had a great fall.


All the king's horses and all the king's men


Couldn't put Humpty together again.


 もちろん、それは卵のことである。サーバの名前に使ったのは、栄養=卵という単純な連想からに過ぎない。でもひょっとして、メリーベルのことが記憶の片隅に残っていたのだとしたら?


 割れてしまった卵を元に戻すことはできない。この日記をずっと過去に遡っていくとそれがわかるかもしれない。でも卵はいずれ割れるのだ。卵がかならず割れることを理解できないヒトもいる。割れない卵も死んだ卵なのに。


 割れた卵からひよこが出てきたかどうかが大切なんだけど。


 一般には、取り返しのつかないことの比喩としてこの歌が引かれることが多いが、中からひよこが出てきたとしたら、ぜんぜん意味が変わってくる。王国の騎士団も歩兵も単なるオヤジになってしまうだろう。モンテーニュがいうようなオヤジということである。


2006年07月31日

最後の晩餐



 梅雨もようやく明けた7月の最後の月曜日、湿っぽい言葉は似合わないし、ギターも湿っぽい音を出したりはしないだろう。だいいちギター持ってないし。


 トラルファマドール星人を知っている人間が今どれくらいの割合で存在するのかわからないが、一応解説しておくと、トラルファマドール星人というのは、人間が三次元空間をひと目で見渡せるように、時間軸も見渡してしまう宇宙人だ。人間が生まれてから死ぬまでを鉛筆の端から端までを見るように見ることができるのだから、当然人間そのものの見え方も人間とは全然違っている。映画のフィルムを手に持って眺めるようなもので、視線を上にずらしていけば人間は年をとっていくし、下にずらしていくとどんどん若返って、生まれた瞬間がその端になるが、その下にも生まれるまでの十月十日が、これは母親の大きなお腹しか見えない(透視能力はないから)が、つながっている。


 そのトラルファマドール星人によれば、人間が生まれるためには、五人の人間が必要なのだそうで、それもすべてがつながっているからこそわかることなのだろう。そういう視点から考えてみると、確かに子どもができるまでに母親に接触する(別に性的な意味だけでなく)人間が何人かいてもおかしくないような気にもなってくる。


 でも、わかりきったことだが、このトラルファマドール星人というのは、カート・ヴォネガットというアメリカの作家が書いた小説の登場人物に過ぎず、五人云々も、たいして意味があるわけではない。なにか暗喩なのかもしれないとはいえ。


 わかりきったような解説をすると、ヴォネガットはドレスデンでの体験を書かなければならなかったが、まじめに書いたらあまりにも陰惨な物語にしかならない。SFというのはいつでも荒唐無稽(ゆえに微苦笑を誘う)という隠れ蓑の影に陰惨な現実を滑り込ませるものだから、ヴォネガットもそれを利用したに過ぎない。それをSFと呼ばないファンも多いのだけれど。


 陰惨な現実を下敷きにした小説は、『われら』とか『1984年』といった名作も多いし、いまここで話題にしている『スローターハウスファイブ』も間違いなく傑作の部類に入る。荒唐無稽にでもしなければ作者自身が書き進められなかったのではないかというほど、まじめに考えれば考えるほど陰惨な現実が背後には、ある。


 まあ、いつまでも講釈たれていても始まらない。トラルファマドール星人は、上に書いたような目を持つ宇宙人なので、当然の帰結として、時間から超越している。超越というのは言いすぎか。人間は三次元世界を眺めることができるので、その見えている世界の中であぶなそうな領域には普通は踏み込まないようにしている。けれどもトラルファマドール星人のように時系列は見えないから、いつの間にかヤバイ空間にきている可能性もある。実際、そうやってヒトはトラブルに巻き込まれるわけだし、寿命のように時系列的に考えれば、最後の避けられない瞬間というものもある。


 ところがトラルファマドール星人の目があれば、端っこのほうには近づかなくてもすむ。時間を空間のように眺められるのだから、危なそうな「時間」には近寄らないという判断が働いて当然なのだ。トラルファマドール星人もおおかたの生物同様、滅亡する運命である。トラルファマドール星人自身がそれを知っている。その原因も知っている。でもそれを避けることはできない。人間が三次元空間のヤバイ場所にはいかなくても、そのヤバイ場所そのものをなくすことはできないのと同じに、時間が棒のようにつながって見えても、それは見えるだけのことで、変えることはできない。


 人間がいろいろ努力してヤバイ場所を変えようとするようにトラルファマドール星人も、それを変える努力をした。でも変えることはできなかった。楽屋落ちになるかもしれないけれど、時系列を眺められるということは、ある程度固定された時系列が存在することを前提とする(でなければ、時系列はいつでもボケボケの写真で、なにも見えないことになるだろう)。となると、無限に開かれた未来が存在することは物語の成立もあやうくしてしまう、ということだ。


 さて、そういう前提で組み立てられた物語の中で、トラルファマドール星人がなにをするか、ということだ。それを書くために延々とここまで物語を説明してきたのだ。


 単純といえば単純なことなんだけどね。一番面白かった時空間だけに意識を留めておくというのだ。人間が一番安全だと思うところに身を留めておくのと同じに。それでいいのかって話なんだけど。


 トラルファマドール人ほどリアルにではないけれど、人間も思い出だけに閉じこもってしまうことがある。ヴォネガットの視線はやさしい。そうやって人間は悲しみから逃れられる。もっと積極的にその効用を考えてもいいじゃないか、という。


 リアルからファンタジーへ連続して分布する人間の意識というものを想定しよう。一番リアルなのはたぶん政治の世界で、その次に行政がくる。なぜかというと、そこにあるのが、常に今の世界だからだ。一番ファンタジーに近いのは、芸術活動。芸術には過去がある。モナリザ然り、ひまわり然り。政治には過去はありえない。いま、どうするか、が全てだから。


 リアルが現実の世界ではある。それがすべてではある。でも、人間はそれだけの存在ではない。それこそが人間を他の動物と異なるものにしているといってもあながち間違いではないはずだ。


 いや、わたしは決して逃げているわけでは……。逃げているわけか。


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