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最後の晩餐



 梅雨もようやく明けた7月の最後の月曜日、湿っぽい言葉は似合わないし、ギターも湿っぽい音を出したりはしないだろう。だいいちギター持ってないし。


 トラルファマドール星人を知っている人間が今どれくらいの割合で存在するのかわからないが、一応解説しておくと、トラルファマドール星人というのは、人間が三次元空間をひと目で見渡せるように、時間軸も見渡してしまう宇宙人だ。人間が生まれてから死ぬまでを鉛筆の端から端までを見るように見ることができるのだから、当然人間そのものの見え方も人間とは全然違っている。映画のフィルムを手に持って眺めるようなもので、視線を上にずらしていけば人間は年をとっていくし、下にずらしていくとどんどん若返って、生まれた瞬間がその端になるが、その下にも生まれるまでの十月十日が、これは母親の大きなお腹しか見えない(透視能力はないから)が、つながっている。


 そのトラルファマドール星人によれば、人間が生まれるためには、五人の人間が必要なのだそうで、それもすべてがつながっているからこそわかることなのだろう。そういう視点から考えてみると、確かに子どもができるまでに母親に接触する(別に性的な意味だけでなく)人間が何人かいてもおかしくないような気にもなってくる。


 でも、わかりきったことだが、このトラルファマドール星人というのは、カート・ヴォネガットというアメリカの作家が書いた小説の登場人物に過ぎず、五人云々も、たいして意味があるわけではない。なにか暗喩なのかもしれないとはいえ。


 わかりきったような解説をすると、ヴォネガットはドレスデンでの体験を書かなければならなかったが、まじめに書いたらあまりにも陰惨な物語にしかならない。SFというのはいつでも荒唐無稽(ゆえに微苦笑を誘う)という隠れ蓑の影に陰惨な現実を滑り込ませるものだから、ヴォネガットもそれを利用したに過ぎない。それをSFと呼ばないファンも多いのだけれど。


 陰惨な現実を下敷きにした小説は、『われら』とか『1984年』といった名作も多いし、いまここで話題にしている『スローターハウスファイブ』も間違いなく傑作の部類に入る。荒唐無稽にでもしなければ作者自身が書き進められなかったのではないかというほど、まじめに考えれば考えるほど陰惨な現実が背後には、ある。


 まあ、いつまでも講釈たれていても始まらない。トラルファマドール星人は、上に書いたような目を持つ宇宙人なので、当然の帰結として、時間から超越している。超越というのは言いすぎか。人間は三次元世界を眺めることができるので、その見えている世界の中であぶなそうな領域には普通は踏み込まないようにしている。けれどもトラルファマドール星人のように時系列は見えないから、いつの間にかヤバイ空間にきている可能性もある。実際、そうやってヒトはトラブルに巻き込まれるわけだし、寿命のように時系列的に考えれば、最後の避けられない瞬間というものもある。


 ところがトラルファマドール星人の目があれば、端っこのほうには近づかなくてもすむ。時間を空間のように眺められるのだから、危なそうな「時間」には近寄らないという判断が働いて当然なのだ。トラルファマドール星人もおおかたの生物同様、滅亡する運命である。トラルファマドール星人自身がそれを知っている。その原因も知っている。でもそれを避けることはできない。人間が三次元空間のヤバイ場所にはいかなくても、そのヤバイ場所そのものをなくすことはできないのと同じに、時間が棒のようにつながって見えても、それは見えるだけのことで、変えることはできない。


 人間がいろいろ努力してヤバイ場所を変えようとするようにトラルファマドール星人も、それを変える努力をした。でも変えることはできなかった。楽屋落ちになるかもしれないけれど、時系列を眺められるということは、ある程度固定された時系列が存在することを前提とする(でなければ、時系列はいつでもボケボケの写真で、なにも見えないことになるだろう)。となると、無限に開かれた未来が存在することは物語の成立もあやうくしてしまう、ということだ。


 さて、そういう前提で組み立てられた物語の中で、トラルファマドール星人がなにをするか、ということだ。それを書くために延々とここまで物語を説明してきたのだ。


 単純といえば単純なことなんだけどね。一番面白かった時空間だけに意識を留めておくというのだ。人間が一番安全だと思うところに身を留めておくのと同じに。それでいいのかって話なんだけど。


 トラルファマドール人ほどリアルにではないけれど、人間も思い出だけに閉じこもってしまうことがある。ヴォネガットの視線はやさしい。そうやって人間は悲しみから逃れられる。もっと積極的にその効用を考えてもいいじゃないか、という。


 リアルからファンタジーへ連続して分布する人間の意識というものを想定しよう。一番リアルなのはたぶん政治の世界で、その次に行政がくる。なぜかというと、そこにあるのが、常に今の世界だからだ。一番ファンタジーに近いのは、芸術活動。芸術には過去がある。モナリザ然り、ひまわり然り。政治には過去はありえない。いま、どうするか、が全てだから。


 リアルが現実の世界ではある。それがすべてではある。でも、人間はそれだけの存在ではない。それこそが人間を他の動物と異なるものにしているといってもあながち間違いではないはずだ。


 いや、わたしは決して逃げているわけでは……。逃げているわけか。


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2006年07月31日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

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