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2006年09月 アーカイブ

2006年09月04日

えんぱわめんと



 エンパワメントのような言葉は両刃の剣である。


 正直に言おう。私は、この言葉を聞くたびに、自分自身が鼓舞されるような奇妙な高揚感を感じる。私はこれを実施する側にいるのだから、相手をエンパワメントするための方法論やら哲学やら実施するための具体的な手続きやらでいそがしいし、少なくともだれも私をエンパワメントしてくれない。


 それなのに、である。エンパワメント、エンパワメントと言いまくっているだけでエンパワメントされてしまっている自分にふと気が付くのだ。もしかして勤行というのはこのようなものなのだろうか?


 別に私は、ソーシャルワーカーや糖尿病の治療にあたる医師が、エンパワメントを合言葉にして自分たちを叱咤激励していると、言いたいわけではない。だが、例えば、糖尿病のためのエンパワメントの教科書が、治療や指導を実施する側(私から見ればこちら側)をエンパワメントすることばかりで、それに比べるとエンパワメントされた患者の視点がいささか欠落しているように見えることがとても気になる。


 フレイレがその元祖だと書いてある(日本語の)本があったので、実際にフレイレを読んでみると、確かにそのようにも見えるが、フレイレはエンパワメントのようなキャッチフレーズは使っていない。


 エンパワメントでは、「傾聴」という日本語では通常目上の人に対する行為を示す言葉を、目上とは考えられない立場の人の話を聞くのに使うのだが、フレイレでは(日本語訳しか見ていないので、もしかしたらポルトガル語では同じ単語かもしれないが)単に「対話」と表現している。


 対話というのは、同等でも上下関係があっても関係なく成り立つが、傾聴するのは、ふつうは相手を尊敬しているからである。例えば、あなたが、後輩の話を「傾聴」するのはどんな時かを考えてみれば明らかだろう。後輩と対話をするのとはずいぶん違うだろうし、そもそもそんな経験を持つ機会は少ないような気がする。というか、まずないのではないだろうか?


 患者はいつも施療者からは目上という意味があるのかもしれないが、現実の関係がそうでないのに、建前だけで目上扱いするのは、慇懃無礼というものではないか。


 私の言語感覚を笑ってもらってもかまわないが、こんな言葉遣いに無神経な人たちがするエンパワメントも、さぞや無神経なものに違いないと思えてくる。


 揚げ足取り? そうかもしれない。


 でも、傾聴ではなくて、耳を傾けると言ったらどうだろうか? 同じことを言っているとしても、私の受ける感じはかなり異なる。まあ、全く同じ意味合い、同じニュアンスに受け止める人もいるかもしれないし、個人個人の受け止め方には明らかに幅がある。お互いに笑っていればすむことかもしれない。ただ、書き手の意図したように理解されたい場合には、日本語の表現としては、誤解されない表現を選ぶほうがよいというのが、ふだんの私のやり方ではある。


 ならば、おまえはダイエットエンパワメントなどと、わざと誤解されそうな題名をつけているのかと批判されるかもしれないが、実はそうなのである。というか、このほうが誤解されないだろうということだ。とはいえ、えいよう・こみゅーんはまだしも、サラダの日々やソネット第18番に至っては、ヴィアンの『北京の秋』といい勝負。その度合いによって、書き方も変わってくる。


 残念ながら、キャッチフレーズには、どこまでいってもキャッチフレーズ以上の意味を持ち得ない場合もあるようだ。杉山先生が、早い時期にこの単語を使わなくなったのは、たぶんそのことに気が付かれたからなのだろう。


 私自身はこの先もエンパワメントという言葉を使う。糖尿病エンパワメントも別に医師や管理栄養士を鼓舞するだけのものではない……と思うし。ほかならぬこの私自身がいちばんその効果を期待しているのかもしれないのだが。


2006年09月05日

えんぱわめんと(承前)



 前回言いがかりめいたことばかり書いたことをおわびします。私も「いわゆる傾聴ってやつ」のような言い方をするし、「気分はケーチョー」みたいなこともあるし、それになにより、私はエンパワメントを取り入れた栄養教育を現実には実践していない。


 リンクDEダイエットの最新ニュースの解説やEBISのページをご覧になれば一目瞭然なように、私は入り口の敷居を低くしようとしているだけで、少しも相手の話を「傾聴」していないし、実際のユーザさんの参加を求めてもいない。


 ニュースの解説は諧謔に満ちていて(自画自賛。現実にはそんなにレベル高くない)、およそエンパワメントの対極にあるように思う。


「そうね、エンパワメントね」とか言って胸張ってるどこかの管理栄養士と同じレベルだろう。私のイメージ(あくまでイメージね)では、「そうかもね、エンパワメントかもねえ」ぐらいがちょうど良い加減で、それはつまり、エンパワメントというのは、ぼろぼろの対象者というくらいの存在に対して、ふつうにやってみても良いんだという気分にさせ、それを実践させるものなので、胸張られた瞬間に逃げちゃうだろうと思うからである。


 そもそもエンパワメントと一語に要約してしまっている時点でもう間違いだろうが、それは今は措く。


2006年09月09日

日本臨床化学会年会 at 昭和女子大学



 臨床化学会年会のお手伝いがおわって、ちょっと一息。


 時代はますますテーラーメイド医療への道を突き進んでいて、買ったままになっているニュートリゲノミクスの本をまじめに読まないといけないと感じる。というか、米国では、栄養でもそういう単行本が出版されるところまで来ているのである。


 3年遅れの世界ということは、2009年ごろには日本も栄養遺伝子学とか言っているかもしれませんね。


不思議現象(オカルト)



 不思議現象は、むかしからみんなの大好きなものだった、というか、昔の方がよほど不思議のオンパレードだったような気がする。


 むしろ、20世紀という時代が、逆に不思議現象にかげりが見えた特異な時代だったのではないだろか?


 それは相対性理論に代表される科学の勃興が、その理由のひとつだろう。


 では、その時代を基盤にさらなる進展があるはずの現代において、どうして不思議現象の再興が特に若者を中心として起きているのかということが問題になる。


 教育だけでは、20世紀を形作った人々は19世紀の後半から20世紀の前半に教育を受けており、その教育は基本的に暗記中心の現在の受験勉強につながるようなものだったはずなので、説明できない気がする。


 ヒトはみな不思議現象を信じたがるような生得のメカニズムをもっているようであり、私自身も小学生の頃には、人並みに占星術や手相、UFOなどの実在を信じたいと思うような感覚をもっていた。


 中高生のころでさえ、米国ハーバード大学の生化学教授にして、SF作家のアイザック・アシモフがUFOはまったくのでたらめで、あれが宇宙人なんてとんでもないという意味の発言をしていることを知って、釈然としない気分になったのを覚えている(いつだったか思い出せないが、小学生のときはSF小説を読まなかったので、それより後であるのは間違いない。いまでもSFファンだが、アシモフの意見は当たり前すぎてかえって面白みが無い)。


 問わず語り(古文で読むほうがよほど艶っぽくて面白いというのは冗談)はさておき、私はいかにして水爆を愛するように…(すみません、これも冗談です。博士の異常な愛情の副題です)


 紅茶キノコや人面犬のようなブームもあり、今の現象も別に再興ではなくて、要するにヒトはずっと不思議現象がすきだったというのはかなり事実に近いと思う。


 私の経験からいうと、不思議現象は増えても減ってもおらず、変わったのは私の意識のほうである。テレビが近年特にひどくなっているということもないと思う。川口探検隊がいなくなっただけ良くなっているのではないか(失礼、これも冗談です)。


 つまり、



  1. 不思議現象はむかしのほうがひどかった。

  2. 科学はそれを解消する有効な方法論である。

  3. ところが科学それ自体そんなに確固とした知識を提供できる訳ではない。

  4. 科学についての理解が深まるにつれ(これ自体は好ましいこと)、これを利用しようとする人々が現れた。

  5. 科学は単なる情報ではなく、それを解釈する技術と一体のものである。

  6. 受験勉強型の教育は、解釈技術を無視する。

  7. 間違った科学情報を鵜呑みにする。


 問題は、科学そのものの絶対性のようなものがゆらいでいること、マスコミがわざとではないとしても、科学とはいえない立場から科学しているような発言をすること(解釈技術が、マスコミにも受け手にもなければ、科学ではない)だろうか。


 そのような現状に対処しない教育の問題と言えないこともないが、教育されていればすぐにわかるような欺瞞をおこなうのはあきらかに背信行為というものだから、そのようなおかしなものを全国民に届けてしまうのが最大の問題ということになるだろう。ずいぶん変わってきているとは言っても、あいかわらずマスコミの情報はかなりおかしいことが多い。結局、消費者は自衛しなければならない、ということで教育の問題なのだということは可能である。


 でも、なにを教えればよいのだろうか?


2006年09月23日

エンパワメントにようこそ



 栄養教育に資するような新しいサイトを立ち上げると、決まって誰かが、その効果は? とたずねる。研究所の中の場合もあるし、外の場合もある。


 つまり、その人は、新しいサイト(生活習慣病予防のための自己学習システムでも、えいよう・こみゅーんでも、本家のリンクDEダイエットなどなど)に効果がなければ、わざわざアクセスしてみようとは思わない、ということなのだろうか?


 というか、ということ、なのだろう。私も別の局面では同じように質問するのはほぼ間違いないと確信できる。ようするに、相手の話がよく理解できず(本当に新しいものを立ち話の二三分で理解できるはずがない)、でも興味が無いわけでもないときには、よくそんな質問をする。


 新しいものに関しては、それが実際のところ、新しいという以外にどんな利点があるのかを見定めなければならない(というのが研究的な視点というものだ)から、話し相手との共通の約束事として、「効果」(表現はいろいろあれど)を質問するのは考えてみればきわめて自然なことだったりする。


 でも、それはあくまで自然科学系の学会やそういう文脈での話である。栄養教育の話は、舞台はどこであれ、少なくとも自然科学とはいえないだろう。


 したがって、冒頭の一行には、もちろん否定的なニュアンスがこめられている。インターネットサイトの機能が、教育効果だけでないのは明らかだし、もしそれだけだったとしても、相手の話に興味を覚えたら、URLを訊いて、あとは簡単に使い方を教えてもらったり、コンセプトを訊いたりする。はずだと思う。


 効果の問題は、なかなか証明することがむずかしいものであり、相手が研究者ならそのあたりはお互いの共通理解の範疇なので、あまり率直には訊かない。少なくとも相手と今後も仲良くしたければ、私は遠慮しがちにしか訊けない。相手が研究者ではない場合には、むずかしいことは避けている(利益にならないから?)ことが多いので、まず効果の問題を訊いたりするが、これも仲良くしてきたいときにはあまり率直には訊かないかもしれない。


 そのように考えてくると、冒頭の質問者は、私と仲良くしていきたいとは思っていないということになるのだろうか?


 それが、でも、そうではない、というのがいちばんの問題なのだが、冷静に考えると、やはりそういうことになるのかもしれない。


 アッシジの聖フランチェスコのようになりたいよ。


2006年09月27日

HFNETにようこそ



HFNETの会議室が今日リニューアルされて、かなり読みやすくなりました。投稿が少なければ、前の方がわかりやすかったかもしれませんが、少ないことを前提にリニューアルするヒトはいないので、これは良いことでしょう。ぜひユーザーになって書き込みしてください。


と、いうことで、わたしも書き込みかけたのですが、冗談を書く板ではないので、編集途中でこちらに移動してきました。


で、以下がその文章です。


SF小説『病気にならない…』





> あと、元の情報が科学的根拠に基づくかどうか、についてですが、同じような主張が 


> 山梨医科大学名誉教授 佐藤章夫氏のサイトに書かれています。一応参考文献もつい


> てますのでご参考になれば。私は斜め読みしただけで脱力してしまいました。一文一


> 文を熟読・検証する気力は湧きませんので、どなたか気合いのあるお若い方、よろし


> くお願いいたします。


> http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html



新谷医師の赤本(『病気にならない生き方』)は、副題がミラクル・エンザイムで、最初からファンタジーであることを主張しているので、SFとして読めばなにも問題はないのです。いかにも本当らしい記述を続けて、いきなりミラクルですから。酵素の元ならプロトロンビンやプラスミノーゲンのような酵素前駆体やアポ酵素のことかと思いきや、そんな説明はいっさいないようだし(全文は読んでいないのでどこかにあるかもしれませんが)。


ミラクル以外の栄養学批判は、いままでのいわゆる正統派栄養学批判の焼き直し的な感じで、それが世界的権威の医師の手にかかると、あれほどまことしやかになってしまうという意味で、わたしは新谷医師をすごいと思ってしまいました。


それにくらべれば、上記の佐藤名誉教授の文章は、まともですが、日本では牛乳を1,000年もの間飲まなかったという主張は、江戸城にウシの牧場があり、チーズに似たものを生産していたと主張する本に対立するものです。確かに牛乳そのものは飲まなかったようですが。


基本的に、医師や生物学系の研究者は、なぜか自然科学からはずれた部分(このばあいは日本史)になると、とたんにトンデモ本の主張を鵜呑みにして、まったく批判的な視線が欠落することが多いようです。


何十年の間、自然科学者にあらずんばヒトにあらず、の世界で生きていれば、無理も無いのかもしれません。経験的にいえば、歴史のようないかがわしい分野(自然科学者的にはですよ)について、(自然科学では普通にするような)文献を引用しながらの論証を試みる行為自体が、その自然科学者が自然科学者として能力がないことの証明になってしまう世界(そんな論証をする時間があるということは、自分の本来的な仕事をなまけているからである)ですから。


だからといって何を言っても良いはずはありませんが、おそらく大半の研究者は、科学的な研究をするのでトンデモ本を批判する余力はないでしょうし、70歳に近い先達の意見を表立って批判するのは憚られるし、というところでしょう。


4月には完成していなければならないものを6月の終わりに初めてプロトタイプで提示して(その時点で3ヶ月遅れている)、それを9月の終わりに批判したら、誠実でないとなじられる様なものでしょうか(実際なじられた)? 誠実でないのはどちらですか? 3月の24日にと言っていましたが、研究所の方向は閣議で認められる以前から明らかだったし、明らかでなくても対応策を立てておくのが誠実な態度でしょう? 立てないでいても、6月の終わりでは3ヶ月も経っているわけで、少しく遅れているとはいえないのでしょうか? 現在が提示されてから3ヶ月なのは事実ですが、もともと3ヶ月近い遅れをもって提示したものを、3ヶ月近い遅れ(現実には遅れではなく、もともと遅く提示されたというだけ)で解答して責められる理由はありません。とはいえ、これはこれ。科学とは無縁。わたしが両方やっているというだけのこと。人間というのはそういうもろもろの総和ですよね。


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