えんぱわめんと
エンパワメントのような言葉は両刃の剣である。
正直に言おう。私は、この言葉を聞くたびに、自分自身が鼓舞されるような奇妙な高揚感を感じる。私はこれを実施する側にいるのだから、相手をエンパワメントするための方法論やら哲学やら実施するための具体的な手続きやらでいそがしいし、少なくともだれも私をエンパワメントしてくれない。
それなのに、である。エンパワメント、エンパワメントと言いまくっているだけでエンパワメントされてしまっている自分にふと気が付くのだ。もしかして勤行というのはこのようなものなのだろうか?
別に私は、ソーシャルワーカーや糖尿病の治療にあたる医師が、エンパワメントを合言葉にして自分たちを叱咤激励していると、言いたいわけではない。だが、例えば、糖尿病のためのエンパワメントの教科書が、治療や指導を実施する側(私から見ればこちら側)をエンパワメントすることばかりで、それに比べるとエンパワメントされた患者の視点がいささか欠落しているように見えることがとても気になる。
フレイレがその元祖だと書いてある(日本語の)本があったので、実際にフレイレを読んでみると、確かにそのようにも見えるが、フレイレはエンパワメントのようなキャッチフレーズは使っていない。
エンパワメントでは、「傾聴」という日本語では通常目上の人に対する行為を示す言葉を、目上とは考えられない立場の人の話を聞くのに使うのだが、フレイレでは(日本語訳しか見ていないので、もしかしたらポルトガル語では同じ単語かもしれないが)単に「対話」と表現している。
対話というのは、同等でも上下関係があっても関係なく成り立つが、傾聴するのは、ふつうは相手を尊敬しているからである。例えば、あなたが、後輩の話を「傾聴」するのはどんな時かを考えてみれば明らかだろう。後輩と対話をするのとはずいぶん違うだろうし、そもそもそんな経験を持つ機会は少ないような気がする。というか、まずないのではないだろうか?
患者はいつも施療者からは目上という意味があるのかもしれないが、現実の関係がそうでないのに、建前だけで目上扱いするのは、慇懃無礼というものではないか。
私の言語感覚を笑ってもらってもかまわないが、こんな言葉遣いに無神経な人たちがするエンパワメントも、さぞや無神経なものに違いないと思えてくる。
揚げ足取り? そうかもしれない。
でも、傾聴ではなくて、耳を傾けると言ったらどうだろうか? 同じことを言っているとしても、私の受ける感じはかなり異なる。まあ、全く同じ意味合い、同じニュアンスに受け止める人もいるかもしれないし、個人個人の受け止め方には明らかに幅がある。お互いに笑っていればすむことかもしれない。ただ、書き手の意図したように理解されたい場合には、日本語の表現としては、誤解されない表現を選ぶほうがよいというのが、ふだんの私のやり方ではある。
ならば、おまえはダイエットエンパワメントなどと、わざと誤解されそうな題名をつけているのかと批判されるかもしれないが、実はそうなのである。というか、このほうが誤解されないだろうということだ。とはいえ、えいよう・こみゅーんはまだしも、サラダの日々やソネット第18番に至っては、ヴィアンの『北京の秋』といい勝負。その度合いによって、書き方も変わってくる。
残念ながら、キャッチフレーズには、どこまでいってもキャッチフレーズ以上の意味を持ち得ない場合もあるようだ。杉山先生が、早い時期にこの単語を使わなくなったのは、たぶんそのことに気が付かれたからなのだろう。
私自身はこの先もエンパワメントという言葉を使う。糖尿病エンパワメントも別に医師や管理栄養士を鼓舞するだけのものではない……と思うし。ほかならぬこの私自身がいちばんその効果を期待しているのかもしれないのだが。