インターネット、特にWorld Wide Web(ウェブ)は、情報探索ツールとしていまや欠かせないものであるが、図書のように10進分類法などで分類された目録は存在せず、Medlineのようにサーチャーが内容を読んだ上で付与したキーワードインデックスも存在しない。「検索サイト」と通常呼ばれるサイトで検索をするか、「ディレクトリサービスサイト」で項目を上から下へ辿っていく以外には総当り的に情報を探索しなければならない。検索の効率を高めるためのメタタグ、RDFのような試みはあるが、ウェブが急速に広まった理由のひとつであるHTMLの簡便さ、柔軟性に比べ、厳密さが足枷となって、あまり普及していないのが現状である。
必然的に、検索機能やディレクトリサービスの充実度がきわめて重要な意味を帯びており、それはGoogleの登場によって少なからず変化してきた。
ただし、かつては情報が枯渇していたため有用なサイトに関する情報が求められていたが、現在は主要な官公庁、企業体のサイトがほぼ掲載された状況であり、また、Googleのサイト・ランキング・アルゴリズムはかなり優れていると思われるが、Googleのアルゴリズム自体がサイトの有機的な連携の度合いに多くを負っているので、10年前との単純な比較はできない。
インターネットの比重がますます高まりつつある現在、インターネットから信頼性の高い有用な情報を効率的に検索することは、栄養学の専門家にとっても、またそうでない一般の人々にとってもきわめて重要な課題であるが、専門研究者であれば、PubMedのような学術文献サイトやBioMedCentralのような学術サイトで原論文や抄録で正確な情報を探索するのが既に一般化している。Googleのような一般の検索エンジンを使用することも多いとは思われるが、その情報を鵜呑みにしないだけの知識を持ち合わせており、最終的には専門サイトの記述を信用するだろう。
他方、全く栄養学の教育を受けたことがない一般の人々にとっては、多くの検索サイトで採用されていた極めて優れた検索アルゴリズムをもつGoogleの検索結果で満足してしまう可能性が高いように思われるが、筆者らが検討した範囲においては、Googleにおける栄養学分野の検索結果はかならずしも満足行くものではない。信頼性のあるサイトを構築するために米国スタンフォード大学が提唱しているスタンフォードガイドラインや、また、栄養学的なサイト評価における米国タフツ大学(現在は終了)サイトランキング等を用いて採点することで、それを判別することも可能であるが、結局そのために栄養学の専門知識が要求されるという悪循環に陥り、どこかのレベルで妥協せざるを得なくなる。
学術論文を評価する場合に研究者が感じる専門と専門外のギャップと同様であり、とうてい付け焼刃的な勉強では追いつかない分野の論文の判断は、研究者といえども、ある種の権威に頼らざるを得ないというのが本音であろう。
幸いなことに、専門家にとっては、PubMedや学術論文のサイトがかなり充実してきており、それ以外にも英語圏では信頼するに足る情報源がいくつかある。これにGoogleによる検索結果を批判的に加えることでかなり信頼性の高い情報を得ることが可能である。
ところが、残念なことに、日本語圏においては、PubMedはもちろんのこと、学術論文サイトの整備も英語圏に比べてかなり遅れをとっており、ギャップを埋める簡単な方法は存在しない。日本語の学術論文を無料で全文ダウンロードできるサイトも少しずつではあるが増えつつあるが、その日本語の論文を無料で検索できるPubMedのようなサイトが日本語圏には存在しない。厚生労働省、東京都等のサイトに掲載されている情報だけを信頼するということにしても、それらのサイトにある情報量は限られている。
また厳密にいえば、官公庁のサイトだから情報に誤りがないとは言い切れない。筆者も協力している国立健康・栄養研究所のHFNETでも、毎週のように掲載情報の誤りが指摘され、そのたびに対応に追われているのが現実である。
ところで、健康情報には別の落とし穴も存在する。実は、PubMedであれ学術論文サイトであれ、どんなに読みこなしたところで、科学の世界では、「ゆえに何をすべし」という結論は出てこない。それは価値判断であって、科学の領域から外れてしまうからである。医師も栄養士も、論文などの健康情報を知っているから自動的にするべきことが決まるのではなくて、知ることはもちろん前提条件であるが、医師あるいは栄養士として行為を成すためには、価値判断をしなければ先に進めない。
価値判断は、職業的行為におけるもっとも高度な技能であるから、素人がこれを自ら容易に行う方法などあるはずがない。ベストセラーになるような健康本では、著者がこの価値判断をしてくれることが多い。牛乳は良いとかコーヒー浣腸は悪いとか、具体的に価値を教えてくれる。それも含めての健康情報だと、一般には思われているかもしれないが、専門研究者はそういう風には考えていない。それは、例えばHFNETの中核をなす健康食品素材情報データベースの記述を見れば明らかである。そこにあるのは、可能な限り客観的に判断しようとした場合に依拠できる文献(根拠)と、それらからの、やはり客観的な判断、いわば科学的な価値判断、だけである。
明らかに、一般にいう「価値判断」とは、そのような限定されたものではなく、長寿とか健康寿命とか、さらにはそれらも含むところの文化的な意義においての「価値」の判断である。しかし、これはいわゆる科学の範囲を超えるものと専門研究者は考えているのだ。
さて、いささか唐突ではあるが、筆者が最近知ったウェーバー社会学において、ウェーバーは、一般的な意味での「価値判断」についても科学が寄与できる部分があると主張する。それはいわゆる自然科学ではなくて、必然的に社会科学の領域に踏み込むことになり、基本的に栄養学者というのは自分が自然科学者だと思っているから、そこには踏み込まない。
しかし、社会学的な観点から見れば、そのような栄養学者の態度も「価値判断」に過ぎず、それらを全て包含するような文化事象の全体についての科学(社会科学)も成立する余地がある。筆者の個人的な考えではあるが、このような観点は意外に栄養学そのものに寄与するのではないかと思う。特に、栄養情報学というのは明らかに自然科学ではないので、その素地があると考える。
具体的な例を挙げてみよう。
栄養情報学的には、「健康に生きるためには最良の科学的証拠を知るべきだ」という価値判断があり得る。ウェーバーはこれを、「健康に生きる」という目的のための「最良の科学的証拠を知る」という手段に分けて考える。その上で、(1)この手段が目的にどの程度適しているか、(2) 証拠を知ることが健康に生きることに適うように見えるとき、これを実施したら当の目的以外にどんなことが起こるか、証拠を知らずにいることを選択したらどうなるのか、(3)「健康に生きる」ことの意義に関する知識、(4)「健康に生きる」ことの根底にある理想を批判的に評価すること(ただし形式論理的にのみ)が、経験科学(つまり栄養学のような自然科学)の領分だと主張する。
つまり、なにをなすべきかは教えられず、なにをなしうるか、なにを意欲しているかを教えるに過ぎない、というのである。これは、専門研究者にとっては自明の理のようにも思えるが、一般の人々にとっては、意外に理解されないことであるようにも思える。
つまり、この例でいえば、「健康に生きるためには最良の科学的証拠を知るべき」かどうかは結局わからないということになるからだ。
まさに、この点が専門家と素人を分けている点であり、専門家は科学的な検討を元に、それを是として受け入れるか、否定するか、代案をだすかという「価値判断」を行うのであって、そのためにウェーバーのいうような検討が極めて有意義であることを理解する。ところが、この場合の「価値判断」は上述のように高度な専門技能に属するから、素人のよくなしうるところではない。
テレビのバラエティ系の健康番組も最近はこの構造をよく理解してきており、専門家に科学を語らせ、それ以外の芸能人(素人にあたる)に、「価値判断」をさせる。健康食品販売サイトやCMにある、「使用者の感想」も、通常は効能を巧妙に宣伝したあとで、「これは使用者の感想であって効能効果をうたうものではありません」という一文を入れて提供する。専門家の発言ではないからどんな価値判断でもありなのである。
だが、これらは部分ごとに独立して視聴されることはないから、全体として製作者の「価値判断」に基づいていることが明らかである。ウェーバー社会学的な視点に立てば、これらもそのような「価値判断」を因果連関の一部に組み入れて科学することが可能になるのだ。
繰り返しになるが、なにをなすべきかは教えられないが、なにをなしうるか、なにを意欲しているかを教えることはできるということである。栄養学は自然科学の立場から、このような領域については頑なに沈黙を守っているようにもおもえるが、いっそ栄養社会学と開き直って、もっと積極的に発言していくことが必要だろうと筆者は考えている。そこには、素人が期待する「するべき」も当然含まれることになるので、有益なものになるだろう。ただし科学との境界が常に明確になっていなければならない、というのもウェーバーが主張するところである。
他方、もっと善意にあふれているはずの官公庁、公益法人の方法について考えてみよう。筆者らの運営しているHFNETもそこに含まれる。
自然科学の文献を元に素人が価値判断するのは明らかに困難である。EBMにおいて最終的な医療行為を決断するのは医師の高度な職能的「価値判断」によるが、その部分を欠いた「根拠」にはどのような意味があるのだろうか? 明らかにあまり意味は無いということになってしまうだろう。つまり、「価値判断」を含まないように厳密さを心がければ心がけるほど、かえって素人には無価値なものになってしまう。
ここでも栄養社会学的開き直りが必要だと思われる。上述した例の実際がここにあるからだ。つまり、なにをなすべきかは教えられず、なにをなしうるか、なにを意欲しているかを教えるに過ぎない、ということである。それを一般の人々に周知していく行為が必要なのである。
「健康に生きるためには最良の科学的証拠を知るべき」かどうかは結局わからないという結論は変わらないが、この場合も、語り手(専門家)の考える「するべき」との対比において、しかし厳密に科学と価値を区別しながら、その意図を伝えることができる。
筆者は、栄養学という言葉が生まれた背景(佐伯先生が大正時代に作られた造語である。日本語として本来は「営養学」というべきところを意図的に「栄」に変えられたのである)には、このような「栄養社会学」的なものがあったのではないかと考えているが、単なる推測の域をでない。実際、今となってはどうでも良いことだろう。私たちが生きるのは過去ではないからだ。
これこそがキルケゴールの「反復」だろうと、今ふと思いついたが、それもどうでも良いことではある。そういえば、アンガージュマンというのもあった。もしかしたら栄養学は、実存主義的なのかもしれない。いや、これは冗談ですが。