海外健康・栄養ニュース復活しました
なんとか、http://humpty.nih.go.jp/ (リンクDEダイエット)と http://humpty.nih.go.jp/linkdediet/news/ (むく鳥通信)は、データベースと連動させる形でほぼ復活した。まだ検索ができないし、裏の方の仕組みも手作業だが、最新のニュースが見られるようになったので一安心。
なんとなくやり方がわかってきたので、探索頁のほうはたぶんもう少し短時間で復旧できると思う。
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なんとか、http://humpty.nih.go.jp/ (リンクDEダイエット)と http://humpty.nih.go.jp/linkdediet/news/ (むく鳥通信)は、データベースと連動させる形でほぼ復活した。まだ検索ができないし、裏の方の仕組みも手作業だが、最新のニュースが見られるようになったので一安心。
なんとなくやり方がわかってきたので、探索頁のほうはたぶんもう少し短時間で復旧できると思う。
旧探索頁は、やたらに面倒なソートをしていた官公庁リスト以外は一応表示できるようになったので、あとは官公庁リストだが、以前のものが簡単に使えればよし、大幅な手直しが必要なら単に言語別にならべてしまうことにする。
ニュースソースリスト:なぜか英語サイトが全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。
ジャーナルリスト:こちらも英文雑誌が全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。
外のプロバイダで、うちと同じデータベースを使っているところは数ヶ所ある。以前一度検討したことがあったが、そのときはまさか何も起こらないうちに使用を禁止されるとは思わなかったので、現状維持とした。
今はそのまさかが起こってしまって現状維持どころではないので、外のプロバイダをもう一度検討するべきかもしれない。でも、問題は、主としてドメイン名から来るもの(このブログも、えいよう・こみゅーんも改ざんされようが踏み台に使われようが誰も問題視しないだろう)なので、公的なドメイン名を使わないではすまされないモノについては解決されないのが明らかだ。データベースのソフトを変更する以外には方法はない。
機械翻訳のサーバーを借りていて、それは英日、中日、韓日の3つで、各々独立した契約である。
年間で契約しているから、当然毎月その経費を払っている(一括で払ったかもしれない)のだが、経費を実際に払い込む部署では、その肝心の翻訳機能がどこにあるのか、ちょっとした問題になっていると聞いた。
もちろん、「その部署からの要請で使うことができなくなった」サーバにあったので、現在は中日と韓日の翻訳機能にはまったくアクセスができないのだと正直に言うほかはなかった。そのサーバを使用するなというのは、上司からの業務命令なので、従わないわけにはいかない。翻訳機能はサーバと直接の関係はないので、速やかに復旧したいが、かなり根本的な変更を余儀なくされているので、英語だけでも2週間以上かかった。努力はしているが、現在はまだその段階である。
機能が使えないのだから、契約を打ち切ってもらってもしかたないとその部署には伝えたが、どうするというはっきりした返答はまだもらっていない。
これもその同じ部署から指摘されたので、ここでどのような意味があるのか書いておこうと思う。どうしてウェーバーの『古代ユダヤ教』を買う必要があるのか、ということだ。岩波文庫で、三分冊、全部買っても3千円するかどうかだが、もちろん研究上の意味を説明できなければ目的外使用との謗りを受けよう。
そのようなわけなのだが、もっと必要だろうか。
「ワインを飲むべきなのか」とか、「シーザーサラダを食べるべきか」、という疑問は、一般的な疑問であり、これは根拠に基づく医療(EBM)の最初のステップである「解答可能な疑問を立てる」の条件を満たしていない。解答可能かどうかが不明だというようなことではない。
そもそも、この「解答可能な疑問」が、患者の治療についてだという前提のもとにあるということである。それは、医療行為なのだから当然の前提であり、明文化されているかどうかの問題ではない。つまり、医療行為を行う医師自身が疑問を立てる当の主体であるのは疑いを得ないとしても、彼が漠然と「ワインを飲むべきなのか」と言ってみたり、あるいはもっと具体的に「今夜私はワインを飲むべきなのか」と言ってもそれはEBMとは切り離して考えるべきだということである。
医療行為は人間(患者)を対象になされるものであり、したがって「私」という主体がまた「患者」でもあるなら「今夜私はワインを飲むべきなのか」という問いもEBMの一部になりうる*。
しかし、対象を特定しない漠然とした「ワインを飲むべきなのか」という問は、その対象が広すぎる。広すぎてもかまわないという意見があるかもしれないが、広すぎてはいけないのである。というのは、EBMがなぜ必要なのかという理由を考えてみれば明らかであろう。EBMというのは第一義的に患者の治療における物質的な拠りどころを提供するものである。臨床疫学の方法論によって、質の高いエビデンスから低いエビデンスが区別されたが、それ以前に印刷されていない根拠は除けられる。そして、なるべく大規模の無作為対照試験が複数あることが質の高いエビデンスの条件となる。EBMは、多くの人々から得られたデータに基づく統計学的な処理の結果を、患者個人に如何に当てはめるかという医療行為の一形態である。それは、法則の定立をもっぱらとしてきた科学(基礎医学)を従来(というのは微生物の発見からフレミングの抗生物質にいたる、主として基礎医学上の業績が、臨床医学を大きく変革したことに疑いはないと思う)以上に直接的に応用するEBMの本質的な部分であろう。従来的なあり方というのものを仮に想像してみるなら、ストレプトマイシンの効果を先輩医師や教授から聞くのである。それはすごいと思って実際に使ってみるのである。こんな劇的な発見の時代には別に従来的なあり方で良いではないかと思えるし、そのとおりでもあったのだろうが、現代は、そのような劇的な変革の時代ではない。それはともかく、そのような医療のあり方として、今でもなお、患者個人を診察し治療するというのが医療の基本的なあり方だと思う。その際参照すべき情報に異動があるというその新しい方の極がEBMなのだ。
そのように考えれば、「ワインを飲むべきなのか」というような漠然とした問を全人類を対象に問われても、EBMの考え方からは答えようがないのは明らかであろう。
というのは、この場合の全人類は、EBMの考え方からすれば、全てが患者なのであるから、その全ての患者を治すという視点で考えなければならないからだ。一人の患者にとって最良の方法を模索するのとは全く異なる方法論が必要なのは明らかであり、おそらくそれはEBMではない。
これはEBMの単純な帰結だと思われるので、冒頭に上げたような一般的に過ぎる問を立て、そのエビデンスは云々というような議論をするのは、一種の欺瞞であるようにも思える。違うだろうか?
注*ここで意識的に普段は使わない人間という熟語を使ったのは、医療行為の対象は生物学的なヒトには限られないからである。『グリーンレクイエム』や『ウルトラスーパーデラックスマン』などSFにはそういう例が多くある。『ガンダム』のアムロも、『エヴァ』のレイもそうだ。あるいはスピルバーグの『ET』でもよい。ウルトラマンあるいはハヤタ隊員でもよい。全て医療の対象になるだろう。獣医に行けとはいわれないはずだ。もっとも何処に行ってもなんのエビデンスもないことは保証できる。
GuyattとRennie編『臨床のためのEBM入門−決定版JAMAユーザーズガイド』(古川壽亮、山崎力監訳、医学書院、2003年)には(訳書14-15頁)、「エビデンスに基づく方法は健康施策の決定」などの「決定にも有用であ」り、EBMは限りある資源から最大の利益を引き出すというゴールをサポートすることができる」と書かれている。
だが、それに続けて、「エビデンスという言葉は、理性的な討論のテーマというよりも、1つのイデオロギーとして、ヘルスケアにおける様々な課題、例えば露骨なコスト削減」などの「正当化のためにも使われている。」とも書かれている。
さらに、「政策面で異なった価値観に対応することは、個々の患者のケアにおけるよりもはるかに大きな困難を伴う」と続き、「1人の人間にとってベストなことと、その人が一員である社会にとって最適であることの間に横たわっている対立をどのように扱うべきだろうか」と書かれている(ただし筆者は日本語訳しか参照していない)。
ここには、健康施策のためにEBMが「ゴールをサポート」する可能性とその困難性が書かれていると筆者は思うのだが、このようなしめくくりの短い文章において、当該論文(本書)がカバーしていない分野への希望に満ちた可能性とその困難性を要約したものをあまり真面目に受け止めるのは危険である。ここには根拠(エビデンス)が何一つ示されていないからである。
とはいえ、「1人の人間にとってベストなことと、その人が一員である社会にとって最適であることの間に横たわっている対立」と書かれているので、前回の議論にあった、患者個人への適用と社会全体への適用が異なるレベルのものになるという(筆者の個人的な)認識は、かならずしも誤りではないと思う。異ならないのなら「対立」というほどの溝は生じないと思うからだ。
そういえば、英国では今日12月26日はボクシングデイ。使用人などの被雇用労働者が休む国民祝日だ。もう5年も前になるが、冬休みに子供とトーマスに乗りに英国にいって、ひどいめにあったのを思い出す。トーマスに乗るのは23日だったが、英国の習慣など何もしらなかった私は、27日の朝英国を発って鉄路ベルギーに向かう計画を立てたのだった。
思い起こせば、まず英国では12月の25,26日の前後は営業しているホテルが少ないことを疑問に思うべきだったのだ。機関車トーマスに日帰りできる距離にある英国中南部の大都市バーミンガムでなぜかどのホテルも24日以降の宿泊ができないかできても極めて高価になるのは、インターネットで検索して気が付いたが、なぜかそうではないホテルを見つけて不思議とも思わず予約してしまった(実はこれはネットアプリのバグだったようだが、チェックアウトの時まで気付かなかった)。
朝食が付かないことはホームページに書いてあったかもしれないが、大晦日から元旦と一瞬の中断もせずに列車を運行し続ける国に住んでいる私は、あまり気にしなかった。セブンイレブンはないかもしれないがマクドナルドはかならずあるし、きっとピザハットもあるだろうと思っていたからだ。実際、そう考えて間違いのないことは、以前に何度かドイツに滞在したときに確認してあった。ドイツでは、法律の定めるところによって土曜の4時から月曜の朝までデパートも含めた商店はすべて閉まってしまうが、駅だけは毎日午後9時までの営業している。少なからぬレストランも営業しているので、それを知っていればあまり困ることはない。
ところが、英国のボクシングデイというのは、使用人のためのお休みなのである。考えてみれば、電車の運転手さんや車掌さんは、典型的な使用人である(少なくとも被雇用される側の人間であって、まず管理者ではない)。休まない日本やドイツの方がおかしい、というか公共のものを維持するという高い職業意識の賜物なのだろうが、単純に考えて使用人のための休日には休んで当然だ(そうか日本にもドイツにもそのための休日がないのだ)。英国は貴族という階級が存在し、国会に貴族院がある国である。だからこそ、使用人の休日もあるというわけだ(日本もドイツも戦争に負けたせいか、階級がなくなった。みんな平等だったら使用人の休日なんておかしい)。
冷静に考えればそういうことになるのだが、とにかく私は子供と妻と三人で蒸気機関車のトーマスに乗るために来ただけで、トーマスのところに辿り着くことしか考えていない。23日にトーマスに乗りに行ったら帰りのバスがなくて、文字通り路頭に迷ってしまった。その前日、別の蒸気機関車に乗りに行った帰り、地元の路線バスで帰ろうとしたら、乗客の大半が黒人とアジア人なのに気付いて愕然としたりもした。
が、これって前振りのつもりだったのに、全然本題に入れないじゃん。もう疲れたので止めます。以前にも書いたような気がするし。じゃなくて実際去年も書いてます。
本題は明日(あるいは休みに入ってから)以降にしよう。
EBMというものがあって、それは医療従事者が、自分の実践を経験科学で補強するものだと思ってきた。栄養士が医療従事者かどうかには議論があるのかもしれないが、とにかくなにかをなすときに文献の助けを借りるのは悪いことではない。恣意的でないように心がけることは言っても良いかもしれないが。
基本的な形として、それは医療従事者(もちろんそのほとんどは医師であるが)が、自らの実践に文献を適用するというものだから、医療従事者がないがしろにされる局面は存在しないはずである。料理本のような書いてある通りにすれば良いだけのものかという疑問は実際にやってみればそうでないこともすぐわかる。病院経営者の経済的な効率化への方便というにいたっては単なる杞憂に過ぎないだろう。
栄養士は、これからは今までよりもっと文献に目を向けようね、というのがスローガンである。細かい注釈は一杯つくとしても、基本的にはそれで良いと思う。
それが、EBMを実践しようとする栄養士の立場だろう。
全く関係ないのだが、我が家の富山の薬屋さんの薬箱には、昔はケロリンしか入ってなかったと思うのに、あるとき、そこに「ケコリン」と「ケロソン」と「ケコソン」が共存しているのを知って愕然とした。当然かもしれないが、その文字自体は、ケロリンだとおもって見ればそう読めるようにデザインされていた。例えば「ロ」の字は、左側の縦棒のほんの隙間しか切れていなかった。あえて日本語の文字だとしたら「コ」というだけで、見ただけでは「ロ」の時の左側に亀裂が走っているだけのものだった。
でも、名前は違っても結局同じ成分で効き目も同じではあった。
結論ですが、やっぱり読み返さないで編集に渡すという人間はいるのだなあ、と思いました。単行本でも思いました。でも可能性としては、「読み返しても不自然だとか面白くないとか思わない」人も存在する、ということ。面白くないことを面白く感じる人や、不自然さを自然と感じる人もいるのだから、それを認めなければいけないと思いました。それがボクシングデイの教訓です。だからこそのボクシングディですね。
それはどうでもいいのだが、人ごみの中にでるのが嫌いな私は、どうして新宿西口に行くのか理解できませんでした。もっとも、西口だけでなくどこにも行きたくないのですが。私の場合。
おいしい餃子は食べたいとしても。
節目といっても、時間断層があるわけじゃないし、明日になっても何も変わったりはしない。年明けすぐに講演会が控えているせいで、ちっとも年末の気分になれない。ずっとそのことばかり考えている。
なにが、物事をやさしく見せたり難しく見せたりするのだろうか、ということだが、考えている自分自身が、うまく言葉にできないようなことを、他人にやさしく説明できるわけはない。それは明らかだろう。
やはり、そこは端折って適当にごまかしておく方がいい気がする。でも、そこが抜けるともっと話がわからなくなりそうではあるんだが。