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2006年12月 アーカイブ

2006年12月04日

海外健康・栄養ニュース復活しました



 なんとか、http://humpty.nih.go.jp/ (リンクDEダイエット)と http://humpty.nih.go.jp/linkdediet/news/ (むく鳥通信)は、データベースと連動させる形でほぼ復活した。まだ検索ができないし、裏の方の仕組みも手作業だが、最新のニュースが見られるようになったので一安心。


 なんとなくやり方がわかってきたので、探索頁のほうはたぶんもう少し短時間で復旧できると思う。


2006年12月07日

ジャーナル、ニュースサイトのリストも復活



旧探索頁は、やたらに面倒なソートをしていた官公庁リスト以外は一応表示できるようになったので、あとは官公庁リストだが、以前のものが簡単に使えればよし、大幅な手直しが必要なら単に言語別にならべてしまうことにする。


ニュースソースリスト:なぜか英語サイトが全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。



ジャーナルリスト:こちらも英文雑誌が全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。


2006年12月10日

いっそ外部に



外のプロバイダで、うちと同じデータベースを使っているところは数ヶ所ある。以前一度検討したことがあったが、そのときはまさか何も起こらないうちに使用を禁止されるとは思わなかったので、現状維持とした。


今はそのまさかが起こってしまって現状維持どころではないので、外のプロバイダをもう一度検討するべきかもしれない。でも、問題は、主としてドメイン名から来るもの(このブログも、えいよう・こみゅーんも改ざんされようが踏み台に使われようが誰も問題視しないだろう)なので、公的なドメイン名を使わないではすまされないモノについては解決されないのが明らかだ。データベースのソフトを変更する以外には方法はない。


2006年12月15日

韓国語翻訳はどこ?



 機械翻訳のサーバーを借りていて、それは英日、中日、韓日の3つで、各々独立した契約である。


 年間で契約しているから、当然毎月その経費を払っている(一括で払ったかもしれない)のだが、経費を実際に払い込む部署では、その肝心の翻訳機能がどこにあるのか、ちょっとした問題になっていると聞いた。


 もちろん、「その部署からの要請で使うことができなくなった」サーバにあったので、現在は中日と韓日の翻訳機能にはまったくアクセスができないのだと正直に言うほかはなかった。そのサーバを使用するなというのは、上司からの業務命令なので、従わないわけにはいかない。翻訳機能はサーバと直接の関係はないので、速やかに復旧したいが、かなり根本的な変更を余儀なくされているので、英語だけでも2週間以上かかった。努力はしているが、現在はまだその段階である。


 機能が使えないのだから、契約を打ち切ってもらってもしかたないとその部署には伝えたが、どうするというはっきりした返答はまだもらっていない。


古代ユダヤ教



 これもその同じ部署から指摘されたので、ここでどのような意味があるのか書いておこうと思う。どうしてウェーバーの『古代ユダヤ教』を買う必要があるのか、ということだ。岩波文庫で、三分冊、全部買っても3千円するかどうかだが、もちろん研究上の意味を説明できなければ目的外使用との謗りを受けよう。



  • 栄養社会学とはなにか?



  1. 栄養クレオール主義の見地から、なるべく既存の体系からはずれたところにあるものを取り込んでいく方法論がよいのではないかというkhirotaの個人的な見解が元になっている。

  2. 元来、ITというもの自体が栄養学とはなんの関係も直接にはない。IT支援というのが、ITで支援する(方法)なのかITを支援する(目的)なのかもはっきりしない。現実には、ウェブサーバの維持管理し、またクライアントコンピュータやユーザの管理もする部署をIT支援と呼んでいるわけなので、ITによる情報発信や情報収集を支援する(目的)意味合いが強いと思うが、計画の中には外部からの意見を取り入れるためにITを活用する(方法)というものもある。

  3. khirotaの勤めている研究所のサイトでの外部からの質問メールや掲示板への書き込みは、平均すると一日に2、3個しかなく、これではとても外部の意見を積極的に聞いているとは言い難い。しかし、現在ではミクシィなどもあり、NRの人達でさえそこで交流しているという現状であるから、書き込みを増やすためには、ある種の戦略が必要だと思われる。

  4. 栄養社会学は、そのために栄養に関する言説を、もっと社会状況の中で見たほうがいろいろなことがわかるのではないか、ということで検討をはじめた。

  5. 社会学といえばウェーバーの『社会科学の方法』がある(他にも社会学ということで立場の違うものもあるが、そのうちのどれを最初に選ぶかは恣意的な問題であって、ウェーバーが最初に来ることを合理的に説明することはできないが、もちろん筆者はそれが問題を解決する最短距離だと判断したからそうした、という意識はある)。

  6. ウェーバー社会学の方法論はきわめて示唆的であり、疑似科学と科学を峻別する場合に、実践的価値判断を含むか否かを規準に用いることを教えてもらった。つまり、実践的価値判断を含んだら疑似科学という、単純に言うとそうなる。

  7. ところが、ここで問題になったのは、科学の世界、とくにEBMにおいては、エビデンスのヒエラルキーというものがあって、エビデンスには質の高いものと低いものがある。質の高い低いというのは明らかに価値判断であるから、これが実践的価値判断、つまりよりよく生きるためにどうするという場合の価値判断にどのように影響するか、ということであった。

  8. ウェーバーの上述の著書に、医療における判断も科学から直接でてくるわけではなくて仮象に過ぎないと書かれてはいるが、エビデンスの判断については、経験的科学の範疇なのか実践なのかが上述の著書では判然としなかった。

  9. ウェーバーは、この科学と実践の問題については、宗教社会学その他、実際の著作において実践的に例示しており、最終的にはそれらを参照する必要があるのは明らかである(方法論の著作というのは全てではないがそうならざるを得ないことが多い。抽象化するとどうしても実際のものとの齟齬が生じるからである)。

  10. 筆者はもちろん社会学にも宗教にも素人なので、簡単な参考書を探したが見つけることができなかった。

  11. また、岩波新書の参考書のようなものを読んだが、ほとんど参考にならなかった。

  12. 現在までに栄養社会学の理論的基盤を構築するのに役立ったのは、ウェーバー自身の著作の翻訳が大半である。

  13. 『古代ユダヤ教』もウェーバーの著作である。

  14. さらに、ウェーバーは科学の合理性の源泉を古代ユダヤ教に見出していたらしいという記述をなにかで読んだ記憶が筆者にある。

  15. もともと、ウェーバーは、自身の社会学において、資本主義がプロテスタンティズムという宗教的なものの必然的な帰結であるというきわめて学際的、かつ示唆に富む論説を展開しており、それが古代ユダヤ教の合理性と栄養学的には豚肉を食べないこととの関連として示唆されている可能性を否定できないと考えたわけである。

  16. そもそも、内容を知っている書物を買うことは、研究ということの本来的な意味から言えば、まったく無意味な行為である。知っていることをわざわざ読む必要などない。引用文献の記述をしっかりさせるためには必要であり、それも重要ではあるが。

  17. 以上まとめると、栄養社会学というものが可能かどうか、それがEBMという医療行為の新しい形態や、健康食品の摂取についての新しい知見を提供するかどうかを見極める状況において、医療においてもそれ以外の局面においても、価値観ということになると宗教の問題を避けられないことに気付く。創造科学のような典型的なものもあるが、栄養のような効果の微弱な領域においては、それを宗教的な問題との相互作用として冷静にみていく必要がある。マクロビオティックのような動物性たんぱくを忌避する食生活には直接的ではないとしても、仏教や神道の宗教問題が当然考えられるし、栄養学を科学と位置づけたときに、科学の合理性の背後に『古代ユダヤ教』が存在するらしいことと、そうであればなおのこと、どのように疑似科学から峻別していけるのかが極めて重要な問題になる。このような問題については、宗教はそれ自体としては合理性を追求すること、しかし科学的な合理性とははるか昔に断然していること、それでも両者の相互作用が存在しそれが人間の社会になっていることなどについて鋭い考察を行ったウェーバーの著作が極めて示唆に富むだろう。


 そのようなわけなのだが、もっと必要だろうか。


2006年12月20日

古代ユダヤ教(承前)



 「ワインを飲むべきなのか」とか、「シーザーサラダを食べるべきか」、という疑問は、一般的な疑問であり、これは根拠に基づく医療(EBM)の最初のステップである「解答可能な疑問を立てる」の条件を満たしていない。解答可能かどうかが不明だというようなことではない。


 そもそも、この「解答可能な疑問」が、患者の治療についてだという前提のもとにあるということである。それは、医療行為なのだから当然の前提であり、明文化されているかどうかの問題ではない。つまり、医療行為を行う医師自身が疑問を立てる当の主体であるのは疑いを得ないとしても、彼が漠然と「ワインを飲むべきなのか」と言ってみたり、あるいはもっと具体的に「今夜私はワインを飲むべきなのか」と言ってもそれはEBMとは切り離して考えるべきだということである。


 医療行為は人間(患者)を対象になされるものであり、したがって「私」という主体がまた「患者」でもあるなら「今夜私はワインを飲むべきなのか」という問いもEBMの一部になりうる*。


 しかし、対象を特定しない漠然とした「ワインを飲むべきなのか」という問は、その対象が広すぎる。広すぎてもかまわないという意見があるかもしれないが、広すぎてはいけないのである。というのは、EBMがなぜ必要なのかという理由を考えてみれば明らかであろう。EBMというのは第一義的に患者の治療における物質的な拠りどころを提供するものである。臨床疫学の方法論によって、質の高いエビデンスから低いエビデンスが区別されたが、それ以前に印刷されていない根拠は除けられる。そして、なるべく大規模の無作為対照試験が複数あることが質の高いエビデンスの条件となる。EBMは、多くの人々から得られたデータに基づく統計学的な処理の結果を、患者個人に如何に当てはめるかという医療行為の一形態である。それは、法則の定立をもっぱらとしてきた科学(基礎医学)を従来(というのは微生物の発見からフレミングの抗生物質にいたる、主として基礎医学上の業績が、臨床医学を大きく変革したことに疑いはないと思う)以上に直接的に応用するEBMの本質的な部分であろう。従来的なあり方というのものを仮に想像してみるなら、ストレプトマイシンの効果を先輩医師や教授から聞くのである。それはすごいと思って実際に使ってみるのである。こんな劇的な発見の時代には別に従来的なあり方で良いではないかと思えるし、そのとおりでもあったのだろうが、現代は、そのような劇的な変革の時代ではない。それはともかく、そのような医療のあり方として、今でもなお、患者個人を診察し治療するというのが医療の基本的なあり方だと思う。その際参照すべき情報に異動があるというその新しい方の極がEBMなのだ。


 そのように考えれば、「ワインを飲むべきなのか」というような漠然とした問を全人類を対象に問われても、EBMの考え方からは答えようがないのは明らかであろう。


 というのは、この場合の全人類は、EBMの考え方からすれば、全てが患者なのであるから、その全ての患者を治すという視点で考えなければならないからだ。一人の患者にとって最良の方法を模索するのとは全く異なる方法論が必要なのは明らかであり、おそらくそれはEBMではない。


 これはEBMの単純な帰結だと思われるので、冒頭に上げたような一般的に過ぎる問を立て、そのエビデンスは云々というような議論をするのは、一種の欺瞞であるようにも思える。違うだろうか?


注*ここで意識的に普段は使わない人間という熟語を使ったのは、医療行為の対象は生物学的なヒトには限られないからである。『グリーンレクイエム』や『ウルトラスーパーデラックスマン』などSFにはそういう例が多くある。『ガンダム』のアムロも、『エヴァ』のレイもそうだ。あるいはスピルバーグの『ET』でもよい。ウルトラマンあるいはハヤタ隊員でもよい。全て医療の対象になるだろう。獣医に行けとはいわれないはずだ。もっとも何処に行ってもなんのエビデンスもないことは保証できる。


2006年12月22日

古代ユダヤ教(承前)



GuyattとRennie編『臨床のためのEBM入門−決定版JAMAユーザーズガイド』(古川壽亮、山崎力監訳、医学書院、2003年)には(訳書14-15頁)、「エビデンスに基づく方法は健康施策の決定」などの「決定にも有用であ」り、EBMは限りある資源から最大の利益を引き出すというゴールをサポートすることができる」と書かれている。


 だが、それに続けて、「エビデンスという言葉は、理性的な討論のテーマというよりも、1つのイデオロギーとして、ヘルスケアにおける様々な課題、例えば露骨なコスト削減」などの「正当化のためにも使われている。」とも書かれている。


 さらに、「政策面で異なった価値観に対応することは、個々の患者のケアにおけるよりもはるかに大きな困難を伴う」と続き、「1人の人間にとってベストなことと、その人が一員である社会にとって最適であることの間に横たわっている対立をどのように扱うべきだろうか」と書かれている(ただし筆者は日本語訳しか参照していない)。


 ここには、健康施策のためにEBMが「ゴールをサポート」する可能性とその困難性が書かれていると筆者は思うのだが、このようなしめくくりの短い文章において、当該論文(本書)がカバーしていない分野への希望に満ちた可能性とその困難性を要約したものをあまり真面目に受け止めるのは危険である。ここには根拠(エビデンス)が何一つ示されていないからである。


 とはいえ、「1人の人間にとってベストなことと、その人が一員である社会にとって最適であることの間に横たわっている対立」と書かれているので、前回の議論にあった、患者個人への適用と社会全体への適用が異なるレベルのものになるという(筆者の個人的な)認識は、かならずしも誤りではないと思う。異ならないのなら「対立」というほどの溝は生じないと思うからだ。


2006年12月26日

ボクシングデイ



 そういえば、英国では今日12月26日はボクシングデイ。使用人などの被雇用労働者が休む国民祝日だ。もう5年も前になるが、冬休みに子供とトーマスに乗りに英国にいって、ひどいめにあったのを思い出す。トーマスに乗るのは23日だったが、英国の習慣など何もしらなかった私は、27日の朝英国を発って鉄路ベルギーに向かう計画を立てたのだった。


 思い起こせば、まず英国では12月の25,26日の前後は営業しているホテルが少ないことを疑問に思うべきだったのだ。機関車トーマスに日帰りできる距離にある英国中南部の大都市バーミンガムでなぜかどのホテルも24日以降の宿泊ができないかできても極めて高価になるのは、インターネットで検索して気が付いたが、なぜかそうではないホテルを見つけて不思議とも思わず予約してしまった(実はこれはネットアプリのバグだったようだが、チェックアウトの時まで気付かなかった)。


 朝食が付かないことはホームページに書いてあったかもしれないが、大晦日から元旦と一瞬の中断もせずに列車を運行し続ける国に住んでいる私は、あまり気にしなかった。セブンイレブンはないかもしれないがマクドナルドはかならずあるし、きっとピザハットもあるだろうと思っていたからだ。実際、そう考えて間違いのないことは、以前に何度かドイツに滞在したときに確認してあった。ドイツでは、法律の定めるところによって土曜の4時から月曜の朝までデパートも含めた商店はすべて閉まってしまうが、駅だけは毎日午後9時までの営業している。少なからぬレストランも営業しているので、それを知っていればあまり困ることはない。


 ところが、英国のボクシングデイというのは、使用人のためのお休みなのである。考えてみれば、電車の運転手さんや車掌さんは、典型的な使用人である(少なくとも被雇用される側の人間であって、まず管理者ではない)。休まない日本やドイツの方がおかしい、というか公共のものを維持するという高い職業意識の賜物なのだろうが、単純に考えて使用人のための休日には休んで当然だ(そうか日本にもドイツにもそのための休日がないのだ)。英国は貴族という階級が存在し、国会に貴族院がある国である。だからこそ、使用人の休日もあるというわけだ(日本もドイツも戦争に負けたせいか、階級がなくなった。みんな平等だったら使用人の休日なんておかしい)。


 冷静に考えればそういうことになるのだが、とにかく私は子供と妻と三人で蒸気機関車のトーマスに乗るために来ただけで、トーマスのところに辿り着くことしか考えていない。23日にトーマスに乗りに行ったら帰りのバスがなくて、文字通り路頭に迷ってしまった。その前日、別の蒸気機関車に乗りに行った帰り、地元の路線バスで帰ろうとしたら、乗客の大半が黒人とアジア人なのに気付いて愕然としたりもした。


 が、これって前振りのつもりだったのに、全然本題に入れないじゃん。もう疲れたので止めます。以前にも書いたような気がするし。じゃなくて実際去年も書いてます


 本題は明日(あるいは休みに入ってから)以降にしよう。


読み返す人読み返さない人



 EBMというものがあって、それは医療従事者が、自分の実践を経験科学で補強するものだと思ってきた。栄養士が医療従事者かどうかには議論があるのかもしれないが、とにかくなにかをなすときに文献の助けを借りるのは悪いことではない。恣意的でないように心がけることは言っても良いかもしれないが。


 基本的な形として、それは医療従事者(もちろんそのほとんどは医師であるが)が、自らの実践に文献を適用するというものだから、医療従事者がないがしろにされる局面は存在しないはずである。料理本のような書いてある通りにすれば良いだけのものかという疑問は実際にやってみればそうでないこともすぐわかる。病院経営者の経済的な効率化への方便というにいたっては単なる杞憂に過ぎないだろう。


 栄養士は、これからは今までよりもっと文献に目を向けようね、というのがスローガンである。細かい注釈は一杯つくとしても、基本的にはそれで良いと思う。


 それが、EBMを実践しようとする栄養士の立場だろう。


 全く関係ないのだが、我が家の富山の薬屋さんの薬箱には、昔はケロリンしか入ってなかったと思うのに、あるとき、そこに「ケコリン」と「ケロソン」と「ケコソン」が共存しているのを知って愕然とした。当然かもしれないが、その文字自体は、ケロリンだとおもって見ればそう読めるようにデザインされていた。例えば「ロ」の字は、左側の縦棒のほんの隙間しか切れていなかった。あえて日本語の文字だとしたら「コ」というだけで、見ただけでは「ロ」の時の左側に亀裂が走っているだけのものだった。


 でも、名前は違っても結局同じ成分で効き目も同じではあった。


 結論ですが、やっぱり読み返さないで編集に渡すという人間はいるのだなあ、と思いました。単行本でも思いました。でも可能性としては、「読み返しても不自然だとか面白くないとか思わない」人も存在する、ということ。面白くないことを面白く感じる人や、不自然さを自然と感じる人もいるのだから、それを認めなければいけないと思いました。それがボクシングデイの教訓です。だからこそのボクシングディですね。


2006年12月28日

仕事納め



 それはどうでもいいのだが、人ごみの中にでるのが嫌いな私は、どうして新宿西口に行くのか理解できませんでした。もっとも、西口だけでなくどこにも行きたくないのですが。私の場合。


 おいしい餃子は食べたいとしても。


2006年12月31日

相変わらず長期低下傾向



 節目といっても、時間断層があるわけじゃないし、明日になっても何も変わったりはしない。年明けすぐに講演会が控えているせいで、ちっとも年末の気分になれない。ずっとそのことばかり考えている。


 なにが、物事をやさしく見せたり難しく見せたりするのだろうか、ということだが、考えている自分自身が、うまく言葉にできないようなことを、他人にやさしく説明できるわけはない。それは明らかだろう。


 やはり、そこは端折って適当にごまかしておく方がいい気がする。でも、そこが抜けるともっと話がわからなくなりそうではあるんだが。


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