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2007年01月 アーカイブ

2007年01月06日

あけまして



おめでたいかどうかはともかく。


Googleも、Asahi.com(朝日新聞)も、開く(アクセスする)たびに課金される。課金といっても、こちらが払うのではなく、広告業者が、GoogleなりAsahiなりに払うのだが。


数年前までは、こんなに露骨ではなかったと思うのだが、最近は人目を気にしてなどいられない、ということなのだろうか、記事(検索結果)よりも広告のリンクが目立つようになってきている。


正確にはアクセスごとに課金される場合とそうでない場合があるだろうが、要するにこちらのアクセス数に頼って広告収入を得るという構図は変わらない。


テレビのように無料で配信できる基盤が確立したのであれば、それは喜ばしいことなのかもしれないが、正直なところ、Googleが健康食品の検索で以前からなんとなく不自然な検索結果を与えていたという印象もあって、あまり喜ばしいとは思えないのである。


健康情報を疑似科学にしてしまっている主原因は(日本では)明らかにテレビなので、ネットがそれに似てくるのはあまり歓迎できることではない。面白い情報は、個人的には純粋に娯楽として楽しめるのも事実だが、それはその情報が「面白い」からであって、それとその情報が科学的に正確であるかどうかは関係がない。というより、関係なければないほど面白かったりする。


経済的に成り立つことと科学的に正確ということが両立しないとしたら、ここもじきに撤退するしかない。最初からわかっていた、と参入することもできなかった輩が言うのは目に見えているが、もちろん最初からわかっていたことなどなにもない。


2007年01月07日

全面撤退



 ここと、こみゅーんは、そのまま維持(ドメイン名が違うので)。


 いままでのドメインは、全面的に撤退します。ただし、HFNETだけは別。


2007年01月09日

倫理的な責任は同じかもしれない



 というか、サイトのURLがなんであっても、それは全く同じであって、もしアクセス者が不利益を被ったなら、そのサイトが公式のURLをもつページでも、知らない外部サーバに置かれていても(たとえば、ココでも)、違いはないだろう。少なくとも個人としてはなにも違わない。


 でも、外部サーバに置かれていることの利点は、まず(1)外部サーバは専門の管理者に管理されているし、それになにより、(2)わざわざd.hatena.ne.jpのkhirota1958のディレクトリを狙って攻撃するようなクラッカーは存在しないということだ(いるかもしれないが、そのようなことをする意味は考えにくく、個人的なうらみくらいだろう)。一方、公式サーバをクラッキングすることは、(多分)クラッカーの大きな名誉になり、日本政府に関係あるサーバとなれば、バックにテロリスト集団がいるならば、金銭的な意味でも重要である可能性がある。


 ほとんど攻撃の可能性がなくなるとなれば、実質的な恩恵はきわめて大きい。


 逆に、外部サーバの欠点は、信頼性の低下ということにつきるだろうが、ここしばらく、いろいろ考えているうちに、そのような信頼性の考え方も次第に変化してきていることに気付いた。もちろん、公的なサイトのURLの持つ信頼性が高いのは当然だが、実際のところ、公的なサイトだから無条件に信頼されるわけではない。それは、私自身、知らない研究所のサイトを発見したときに、それがうちと同じ公的ドメインであることをURLで確認しても、実は別フレームで誤魔化しているのではないかとか、違法にとったドメインではないかなどと考えしまうので、個人的には明らかであるのだが。実際に聞いたこともない独立行政法人の研究所がたくさんある。うちの研究所もその仲間であるのは間違いない。


 いずれにしても、いままでのサーバをそのまま継続して運用することはできなくなったので、責任の軽重とは無関係に、新サイトへ移動することになった。


 しばらくは、新旧サイトの間に混乱が生じるかもしれない。二月の中旬までにはすっきりさせたいと思う。


2007年01月16日

古代ユダヤ教(承前)



 栄養士が主体となって実践するEBMというものについて書いてきたが、Mというのは単純に言えば医療行為のことだから、栄養士主体というのは意味的におかしくなる。もちろん、ここでは、栄養士の活動全体をEBM的に行おうという意味であって、Mは漠然と実践活動を意味しているに過ぎない。


 ならばEB栄養活動と言い換えればいいのだろうかというと、そこにも問題なしとしないので、これから先、栄養士のEBMのことを、「実践栄養情報学」と呼ぶことにしようと思う。ごたぶんにもれず、この名称もわたしが勝手につけたもので実体がない。実践というのは、調べた情報を実践することに力点を置くという意味である。実用的な文献検索の方法を教えるという意味ではない。


 とりあえず、EBMの教科書に載っているような考え方を元に、むずかしくならない範囲で情報と実践の橋渡しをしてみようということである。充足率と充足確率という言葉の違いがどうしてもわからない人間のことなので、あてになるわけないということだけは請合える。


 ただ、ここに全部書くかどうかは微妙であるけれど。


 


2007年01月17日

実証的根拠に基く実践(EBP)



という言い方があったのを忘れていたけど、まあいいか。その実践もつまるところは、医療実践活動を意味しているわけだから。


2007年01月18日

古代ユダヤ教(承前)



 1.5%の新生児が不幸なことに神経管欠損と呼ばれる障害をもって生まれてくるとして、それが毎日ビタミンAのサプリメントを飲んでいたら3%になるとしたら、当の妊婦でなくても、ビタミンAのサプリメントを飲むのは出産まで止めようと思っても不思議なことはない。


 けれども、たとえサプリメントを全く飲んだ経験がなくても、その1.5%には障害がでてしまうわけである。


 サプリメントを飲まなくても、食事からのビタミンAの摂取が多めである場合には、同様にリスクが上昇するとしても、その上昇というものの根拠が、188人中5人ということになると、これが正確な数字だということは疑わないとしても、調査につきものの誤差とかバイアスというものの存在を考えると、もし4人だったらとか、さらに3人だったらと考え始めると、何も差はないということにさえなってしまう。


 この結果を全て受け入れるとしても、100人のお母さんのうち、1.5人というのはありえないから、2人か3人が、不幸な帰結を受け入れざるを得ないということになるが、ふつうに人生のことを考えれば明らかなように、これだけが新生児(とその家族)が不幸になる理由の全てではないのは明らかだ。


 でも、いったいどうしたらよいのだろう。


 この結果(と他の類似の結果)から、妊婦や妊娠するかもしれない女性には、ビタミンAのサプリメントは控えるように言うのは良い(たいてい飲む必要はないから)としても、たまにブタレバを何十グラムか食べることまで禁止した方がよいのだろうか?


 ここでちょっと話が飛ぶけれども、量子力学というものをご存知だろうか? 電子のある時間tにおける存在位置は確率関数でしか表現できないというもので、それは現在では一般に受け入れられている考え方だ。あるいは、別の例をいうと、かべに二つ穴があいているとして、手前に二つの光子が存在し、それらがかべの向こう側に移動するときに、どちらの光子がどちらの穴を通ったかはわからないというものだ。たとえ、光子が一個しかなくても、わからなかったはずだ(手元に参考書がないので、大嘘書いていたらごめんなさい)。


 どちらの例も、電子や光子が波としての性質をもつところからくる(と書きながら、実は書いている本人もよくわかっていないことは告白しておく。海にある波なら、個々の水の分子を明らかに識別できるだろう)らしい。


 で、どういうことかというと、ビタミンAと神経管欠損の関係は、波としての性質を記述したものであり、個々の粒子を単独で考えた場合には、どの粒子がその不幸な(あるいは不幸でない)帰結に至るかは決められないということである。そのように粒子の属性を剥ぎ取ってしまったところに成り立つ結果だからだ。


 もちろん、量子力学とは異なり(そもそも電子や光子にも穴の性質にも違いがないというのが前提の思考実験)、奇形の場合には具体的に不幸を持つか持たないかは、一人ずつ明確にわかるし、その原因を個別に追究することも可能だ。もっとも現在の遺伝子や生化学的な知識から、それを完全に明らかにするのは不可能だろうけれど。


 類推としてはかなり無理があるけれども、統計力学に多くを負っている量子力学のある種のあいまいさは、ビタミンと奇形の例をけっこううまく説明できるのではないだろうか? 量子力学の例では、これ以上分解できないもの、均質なものを考えていたわけだが、ビタミンの場合も、取り扱い方としては同じようにやっている。


 では何が問題なのかといえば、当然、妊婦も子供も単なる粒子ではないということだろう。


 それを粒子として仮定できる抽象的な思考が必要だとする主張も無意味ではないが、それは当事者ではない誰かにとってということになる。いや、当事者たる妊婦と子供にも無意味ではない。それは確かなのだが、当事者にとっては、それってなにかの慰めになるのだろうか?


 ビタミンAのサプリメントを大量に摂取していた母親は、もし子供に不幸があれば、そのことで自分を責めるだろうが、いままで書いてきたことからの単純な帰結として、サプリメントが原因である可能性はそうでない可能性と同じ程度である。でも、サプリメントを飲んでいたらそうは思えないだろうというのが、実は本当に不幸な帰結だと思う。


 ビタミンAのサプリメントを摂取している妊婦さんと話をした場合を考える。


 あなたは、それを中止させるが、不幸にも子供に奇形がでた。


 あなたは当然ビタミンAを疑うだろう。でも、あなたにはそれだけのことにすぎない。


 それを一生の負い目にするかもしれない当事者たる母親や父親、その他の家族にとってはどうなのか。すでに、サプリメントがどうとかいう話ではない。もはや、栄養とも関係がないかもしれないが、奇形の全体像を示し、サプリメントに起因する割合、起因しない割合などなど、諸々の根拠をおさえておく必要がでてくる。


 どうして参考書が見つからないんだろう。


2007年01月21日

古代ユダヤ教(承前)



 危険率が二倍になるということは、文字通り二倍になることだ。ある生活習慣を持つヒトの集団では持たないヒトの集団の二倍の割合である病気を発症したり検査値が異常になったりするということである。


 ということは、持つヒトの集団である病気を発症したり検査値が異常になったヒトの半分は、持たないヒトと同じ理由で病気を発症したり検査値が異常になったということになる。原理的に、ある生活習慣を持つヒトが、もしそれを持たなければ、現実に持たないヒトの集団と同じ発症率でなければおかしなことになるからだ。


 間違っているだろうか?


 二倍ならば、その数は半分であるから、残りの半分のヒトが、ある生活習慣を原因として不幸な帰結をもたらしてしまったという、まあこれは良い。良くはないが、充分考慮に値する出来事ではあるだろう。


 でも、それが、1.3倍だったらどうだろう。さらに、ある生活習慣を持たないヒトでの発症率が1%だったら?


 それでも何十万とか場合によっては一億数千万の集団のなかで、このパーセンテージは大きな意味を持ってくる。それは明らかだ。


 あなた個人の場合はどうなのだろう? あるいはあなたがアドバイスする相手にとっては?


 これは個人的には、ずっとひっかかっている問題である。集団を相手にするときに、危険率の高い個人を相手にするよりも集団全体の統計学的な振る舞いを指標にするのは、理に適っていると思う。


 でも、相手ははたして集団なのだろうか、ということである。多数の対象者を相手にするとしても、それは集団なのだろうか? 単なるばらばらなヒトの集まりなのではないだろうか?


 もっとも、相手を集団とみなしてなにか(栄養指導とか)をする以上の時間を取れない状況ということもある。なにもしないよりはした方がよく、だったらできるだけ効率的にというのもしかたないかもしれない。


 問題だと思うのは、こういう割り切り方をしかたないと思わないで、これこそが「科学的」だと思ってしまうことだろう。科学的ではあるかもしれないが、科学と実践の間には、そんなに単純な関係はないという視点が抜けてしまうことだ。


 科学と実践を短絡的に説明するヒトのいうことは少し注意した方がいいかもしれないと思う。個人的な意見ではあるけれど。


2007年01月23日

古代ユダヤ教(承前)



 体系的に記述するのは、それがまだ形をなしていないときには難しい。健康にまつわる様々な言説を自らの健康に役立て、さらに家族や他人、コミュニティへと適用していくときの方法論的なものを、ひとことで健康情報学といったからといって、それが知らず知らずに体系化されてひとつの学になるわけではないのは当然のことである。


 ひとつひとつ記述していくしかない。


■情報の入力計算出力=健康栄養情報学


 さて、ここで情報というものには、受け手と送り手が存在するということを考える。普通は送り手と受け手が存在するその間にあってやりとりされるものが情報だということだが、それを少しずらして考えてみようというのである。つまり、情報は、もちろん最初は誰かが発信するものであるが、最初の発信者は極めて限られる。情報を作り出す行為は、それが精度の高いものであるほど、高度な知的行為となるからだ。特に学術論文の作り手は限定されている。そして、情報の最終的な受けては、大衆と呼ばれる人々である。ある意味で極めて観念的な存在ではあるが、ここではすべてのヒトの集合体と考えて差し支えないだろう。


 情報はこの最初の送り手と最終の受け手の間でやりとりされるものであるが、現実には、それは媒介者を通じてであることが多い。つまり情報は、その伝達の間に、いくつかの受け手でありかつ送り手である媒介者の手を経ることになる。


 大衆概念をもう少し詳しく考えてみれば、大衆には、実際には(キルケゴールが『現代の批判』で明確に述べているように)学術論文の作り手自身も含まれるので、全てのヒトにとって、情報というものは、自身が受け手でありかつ送り手であることになる。もちろんそれぞれの相手との相対的な重要性は個々にまったく異なるが。


 というわけで、『健康情報学』という学は、ヒトを中心として、情報の入力、計算、出力を研究する学と定義するのが理に適っているとわたしは考える。


 通常そのような処理をするのはコンピュータであると考えられているし、ヒトというのは情報を作り出す高度な知的生命体であるか、CRT端末の向こうで受身に終始する無知な存在と思われているが、この考え方によれば、実は情報処理の主体であるのはコンピュータではなくてヒトなのだ。


 そうはいっても、では『健康情報学』はヒトの情報処理の本質的な部分(計算)を研究するのかというと、そういうわけではない。基本的には送り手と受け手の間をどのように情報が流れるのかまた流したら良いのかという部分が主たる対象となる。ただ、その流れを考えるときに、従来は、例えば学術論文から栄養士、そして患者という流れがあっても、独立したふたつの流れ(論文→栄養士と栄養士→患者)があるだけだった。でも、各々は完全に独立しているわけではない。極端な場合、その情報の流れを左右するのは栄養士の情報処理能力そのものである。どんなに論文をわかりやすくしようと意図しても、あるいは患者への栄養指導のやりかたを規定しても、情報がどのように流れるかは、間に立つ栄養士しだいである。栄養士は例えば原作付きの映画のようなものであり、もちろん原作を完全に伝えるのは困難だし、場合によってはまったく異なるものにもしてしまう。


 情報の新しい形は、必然的に新しい計算を求める。さらにその結果の新しい伝達方法も求めるだろう。最大の困難は、論文の書き手が、自らが作り出す新しい形を馴染み(所与の)ものとしてしまっているために起こる。情報が斬新であればあるほど、その伝達が旧来の方法のままでは齟齬を生みやすいわけである。理解されないことを前提にして情報伝達の方法を考案しなければならない。そうでなくても、もともと教育的な情報伝達においては送り手と受け手には差があるのだ。それをさらにもう一度送り手と受け手を変えて情報を伝えるのが明らかな場合には、それを前提として考える必要がある。


 それは、繰り返すが、計算の部分(栄養士の個人的な内面に関係する部分)ではない。というか、その部分の関与を最小にするための方法を考えることが、情報学というものだろう、ということである。


 別に健康情報学だけの問題ではない。もちろん。


2007年01月24日

古代ユダヤ教(承前)



 情報の伝達における媒介者として、現実に情報を操作できる存在。実際に、その媒介者がテレビ製作スタッフであった場合に、納豆問題のようなことも起きる。


 テレビでは、人々が興味を持つかどうか(視聴率が高くなる)が価値基準であって、それを常に念頭において視聴しなければいけないというのが基本なのに、そうはなっていない。毎日テレビを見ている人々がそのことを忘れてしまう程度にはほんとうのことをテレビは教えてくれるのだろう。つまり製作者の嘘をつく技術は、そこまで高度化されているということだ。


 もっとも、あんなに明白だと、例の『病気にならない生き方』同様、専門の研究者は、単に無視するだけなのだ。空は青いというくらいの明白さ、といえば分かってもらえるだろうか?


 現実には、あれを真剣にだまされたと考える人々が存在する(らしい)。


 このギャップは埋めないといけないだろう、と思う。いや、マジで。


2007年01月25日

古代ユダヤ教(承前)



■健康栄養情報学の成立要件



  1. 実証的(経験的)な研究(いわゆる科学文献)が含む情報

  2. 科学的(知的)価値判断を含む情報

  3. 実践的(社会的)価値判断を含む情報


 情報を上記の3種に分類したとき、最後の実践的価値判断を含む情報だけはそのままでは科学的な情報とはみなせない、ということ。基本的に科学は、倫理的な価値判断とは断絶しているからである。もし2番目の科学的価値判断も倫理的なものが含まれる場合には、科学的な情報とはみなさない。


 したがって、科学であろうとする研究者は、倫理的な価値判断を可能な限り排除して実証的な研究を公表するだろう、というのが第一の仮定。


 疑似科学の定義は難しいが、だれも望んで疑似科学をするわけではないということを考えると、疑似科学の遂行者は、基本的には自分が行っていることを科学だと信じている。では、なぜそれが疑似科学というレッテルを貼られることになるのか。理由はいくつもあるだろうが、最大の理由は、遂行者が、実証ではなく、自らの価値観を優先しようとするところにあるのではないか、というのが第二の仮定。


 この二つの仮定から、さらに実践的価値判断を含むのに科学を標榜する情報は、疑似科学的な情報なのではないかという第三の仮定が生まれてくる。


 これらはいずれも仮定に過ぎないので、どのくらい確かなのかがわからなければ、それで正確に情報を判断するというわけにはいかない。したがって、仮定の検証が、ここでいう健康栄養情報学の成立の要件になる。


■健康栄養情報学の範囲


 それはさておき、ここでいう健康栄養情報とは何であり、またどのように扱われるものなのかを明らかにしておく必要がある。つまり、ここで扱う情報は、前節の分類から明らかなように、純粋科学的情報だけを意味してはいない。基本的に、そのような科学情報を基礎としながらも、通常の情報のように、価値判断が複雑に入り込んだ未分化な状態の情報である。テレビの健康情報から井戸端会議の体験談まで、なんでもありであり、だからこそ厳密な区別が必要だろう。


 情報が、意図的に作られた虚偽情報か否かは判然としないことが多い。テレビのダイエット情報でも、2週間で3キロの体重減少という観察記録をただちに虚偽と決め付けることはできない。


 そこで、その情報から、価値判断を取り去っていくと、それがわかりやすくなるのではないか、というのが言い方を変えた第三の仮定である。倫理的な価値判断を取り去ったときに残った情報が、実証的であろう(科学的であろう)ということに忠実なのか、価値判断がなければ意味のない情報になってしまうのか、ということだ。


 テレビのダイエットの検証実験についていうなら、それはあるダイエット法を数人の被験者で証明しようとするものだったりするが、数人でなにかを実証できることはまずないので、実証的であろうということに忠実ではないし、それがあるダイエットを価値のあるものかどうかを判断する手がかりではないとしたら、よくある体験談の聞き語りを越えない科学的には意味のない情報である。


 実証的であるということは、成立のための条件が厳密に明らかである必要がある。


 それにもし科学的な応用を考えるなら、その適用範囲は成立条件から演繹できる範囲に限られるし、絶対的な効果の割合が重要な指標になってくる。確かに、実証的であるという意味では、RCTは極めて実証的な信頼性の高い情報を与えるが、それがそれゆえに適用すべきリストの上位にランクされるということにはならないのは、そのような理由からである。テレビの情報は、ほとんどの場合、成立条件から演繹できる範囲に自分がいないということになる(でも表面的にはそういわないのが誤解のもとである)。絶対的な効果の割合についても、例数が極端に少ないので恐らく信頼区間に大きな幅があって(体重が1キロ増えるから5キロ減るまでの場合がありえるというように)意味がないことがわかる。


2007年01月26日

古代ユダヤ教(承前)



■情報を入出力する媒介者(ヒト)という理念型


 関係ないが、ATP(アデノシン三リン酸)という分子がある。三リン酸だから3つのリン酸基がつながっているが、これがエネルギーの源だということはご存知だろうか? というのは、生化学や薬理学を習ってきた人間にとっては、ヒトは寝るというくらいの常識だからである。


 実は、日ごろ一緒に仕事をしている先生(彼が文系の学士だということは知っていたが、医学博士でもある)が、「アセチルCoAから、ミトコンドリアで、でしょ? ATPが38個できる、という」ということを問わず語りに語り始め、それが常識でないヒトはいくらでもいることに気がついた。とりあえず、栄養士さんは学習しているはずであるが、彼女たちもその先生も、それを何も知らない大衆にどうやって広めるかまでは考慮して教えられていない。教科書はふつうのヒトには難しすぎるが、やさしい解説書が意外と見つからないのである。


 媒介者の暗いか明るいかわからないが、その内面はブラックボックスである。そこをどうにかするのは、大学で専門教育をする教師の役割だと思う。健康栄養情報学というのは、その部分をブラックボックスのままで入出力を最適化しようという考え方だ。


 媒介者は、ATPのことを大学の生化学で習うかもしれないが、教える方は、媒介者がそれをさらに誰かに教えることを念頭には置かない。必然的に、媒介者の能力限度一杯に詰め込もうとするだろうし、さらに次があるなら考慮すべきことも多分忘れてしまっているだろう。法則として定式化されている部分だけを記憶させるかもしれない。法則の暗記は重要かもしれないが、それだけでは、媒介者は受け売りの知識を誰かに伝えることしかできない。媒介の役割を果たすには、もっと多くの情報が必要だ。ATPの例でいえば、高エネルギーリン酸結合とはなんなのかというもう少し詳細な化学知識かもしれないし、なによりもそれらの知識の根拠(エビデンス)はなにかということである。


 自身が情報の作り手であれば、論文を書くという作業によって文献=根拠の重要性と、それがあるからこその科学知識の信頼性ということが理解できるが、消費する側にいると、ついその重要性を見誤り勝ちだ。


 あるあるの納豆問題にしたところで、あるいは他の多くの類似テレビ番組の問題にしたところで、ウェブのホームページで文献(その研究について書かれている元々の学術論文、単行本)のリストを提供することがふつうであれば、今回のような捏造はできなかったはずである。特に米国の研究者が言っていない事を言ったようにしたらすぐにばれてしまう。


 このような時に、最先端の研究なのでまだ論文になっていないという言い訳が考えられるが、テレビで発表しても優先権はないので、研究者は論文を書かないうちにそれを公表することはない。そんなことをしたら、テレビをみたほかの研究者に出し抜かれる可能性があるからである。そのような言い訳は、疑似科学であると告白しているようなものかもしれない。


 とにかく文献(論文)というのが極めて重要であるのは確かである。論文になっていない結果は、なっていない理由を追求する必要がある。


 論文で記述されている研究内容に次いで、実証的でありうるのは(自分で別の研究を進めているのでなければ)、別の論文しかない。


2007年01月29日

古代ユダヤ教(承前)



■健康栄養情報の経験科学的な部分と実践社会学的な部分の区別


 既に書いたように、情報には、価値判断が含まれる。科学と切り離せない認識論的な判断はともかく、日常生活の中で生起する価値判断であるところの実践的社会的判断は、倫理学的判断であり経験(実験的、実証的)科学(いわゆる自然科学を含む厳密科学)からは厳密に区別される必要がある、というのがウェーバーの社会科学の考え方だった。


 EBMは、その境界線上にあると思う。しかし、EBMの専門家でないわたしには厳密にEBMというものの帰属を決定することはできない。ただ、一応の考え方を示すことはできるだろう。


 科学という視点から見た場合、EBMはヒトの治療(等、厳密な議論をしているわけではないので、以下省く)を目標とするので必然的に実践的な価値判断が含まれる。もちろん、病人の治療というものが、論文から演繹される(例えば)費用対効果にしたがって自動的に処理されるものではないと仮定しての話であるけれども。


 そもそもそのような実践的な価値判断を前提にしているからこそ、ヒトを対象にした論文だけを取り上げるわけである。科学的な厳密性とか、法則の定立というような目的からすると、動物であるから価値が低いということはなく、かえって厳密な法則性を見出せる場合も多い。


 これらのことから、EBMは境界線上にはあるが、主として実践社会学に含まれ、エビデンス(実証的根拠)をのみ経験科学に求めていると思う。


 このエビデンスの上下関係をさらに敷衍して、動物実験や細胞実験は「ふつうにダメー!」な言い方を表明する場合もあるようだが、かえってそこまで言ってもらえば誰にでも分かりやすくなるというものだ。経験科学というものもいろいろ問題は含んでいるが、わたしの理解している範囲では、そういっている当の本人の議論は、「ふつうにダメー」なことが多いように思うから。


 ヒトに対する効果が微妙なのだから、さらに精妙な科学的取り扱いを要求するというのもひとつの考え方だとは思うが、ずいぶん前から、研究者は微妙な効果を明らかにするために「動物実験」や「細胞実験」というものを考案してきたというのも嘘ではないだろう。弱い毒性しか持たないものに注意を向けてくれるのはこの種の実験である。それが行き過ぎるという場合もあるだろうけれど。


 お祭り騒ぎを洞窟の壁に映った影絵として見るようなものだと誰かが言ったような気がするが、だれだったか思い出せない。


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