体系的に記述するのは、それがまだ形をなしていないときには難しい。健康にまつわる様々な言説を自らの健康に役立て、さらに家族や他人、コミュニティへと適用していくときの方法論的なものを、ひとことで健康情報学といったからといって、それが知らず知らずに体系化されてひとつの学になるわけではないのは当然のことである。
ひとつひとつ記述していくしかない。
■情報の入力計算出力=健康栄養情報学
さて、ここで情報というものには、受け手と送り手が存在するということを考える。普通は送り手と受け手が存在するその間にあってやりとりされるものが情報だということだが、それを少しずらして考えてみようというのである。つまり、情報は、もちろん最初は誰かが発信するものであるが、最初の発信者は極めて限られる。情報を作り出す行為は、それが精度の高いものであるほど、高度な知的行為となるからだ。特に学術論文の作り手は限定されている。そして、情報の最終的な受けては、大衆と呼ばれる人々である。ある意味で極めて観念的な存在ではあるが、ここではすべてのヒトの集合体と考えて差し支えないだろう。
情報はこの最初の送り手と最終の受け手の間でやりとりされるものであるが、現実には、それは媒介者を通じてであることが多い。つまり情報は、その伝達の間に、いくつかの受け手でありかつ送り手である媒介者の手を経ることになる。
大衆概念をもう少し詳しく考えてみれば、大衆には、実際には(キルケゴールが『現代の批判』で明確に述べているように)学術論文の作り手自身も含まれるので、全てのヒトにとって、情報というものは、自身が受け手でありかつ送り手であることになる。もちろんそれぞれの相手との相対的な重要性は個々にまったく異なるが。
というわけで、『健康情報学』という学は、ヒトを中心として、情報の入力、計算、出力を研究する学と定義するのが理に適っているとわたしは考える。
通常そのような処理をするのはコンピュータであると考えられているし、ヒトというのは情報を作り出す高度な知的生命体であるか、CRT端末の向こうで受身に終始する無知な存在と思われているが、この考え方によれば、実は情報処理の主体であるのはコンピュータではなくてヒトなのだ。
そうはいっても、では『健康情報学』はヒトの情報処理の本質的な部分(計算)を研究するのかというと、そういうわけではない。基本的には送り手と受け手の間をどのように情報が流れるのかまた流したら良いのかという部分が主たる対象となる。ただ、その流れを考えるときに、従来は、例えば学術論文から栄養士、そして患者という流れがあっても、独立したふたつの流れ(論文→栄養士と栄養士→患者)があるだけだった。でも、各々は完全に独立しているわけではない。極端な場合、その情報の流れを左右するのは栄養士の情報処理能力そのものである。どんなに論文をわかりやすくしようと意図しても、あるいは患者への栄養指導のやりかたを規定しても、情報がどのように流れるかは、間に立つ栄養士しだいである。栄養士は例えば原作付きの映画のようなものであり、もちろん原作を完全に伝えるのは困難だし、場合によってはまったく異なるものにもしてしまう。
情報の新しい形は、必然的に新しい計算を求める。さらにその結果の新しい伝達方法も求めるだろう。最大の困難は、論文の書き手が、自らが作り出す新しい形を馴染み(所与の)ものとしてしまっているために起こる。情報が斬新であればあるほど、その伝達が旧来の方法のままでは齟齬を生みやすいわけである。理解されないことを前提にして情報伝達の方法を考案しなければならない。そうでなくても、もともと教育的な情報伝達においては送り手と受け手には差があるのだ。それをさらにもう一度送り手と受け手を変えて情報を伝えるのが明らかな場合には、それを前提として考える必要がある。
それは、繰り返すが、計算の部分(栄養士の個人的な内面に関係する部分)ではない。というか、その部分の関与を最小にするための方法を考えることが、情報学というものだろう、ということである。
別に健康情報学だけの問題ではない。もちろん。