« 古代ユダヤ教(承前) | メイン | 古代ユダヤ教(承前) »

古代ユダヤ教(承前)



■健康栄養情報の経験科学的な部分と実践社会学的な部分の区別


 既に書いたように、情報には、価値判断が含まれる。科学と切り離せない認識論的な判断はともかく、日常生活の中で生起する価値判断であるところの実践的社会的判断は、倫理学的判断であり経験(実験的、実証的)科学(いわゆる自然科学を含む厳密科学)からは厳密に区別される必要がある、というのがウェーバーの社会科学の考え方だった。


 EBMは、その境界線上にあると思う。しかし、EBMの専門家でないわたしには厳密にEBMというものの帰属を決定することはできない。ただ、一応の考え方を示すことはできるだろう。


 科学という視点から見た場合、EBMはヒトの治療(等、厳密な議論をしているわけではないので、以下省く)を目標とするので必然的に実践的な価値判断が含まれる。もちろん、病人の治療というものが、論文から演繹される(例えば)費用対効果にしたがって自動的に処理されるものではないと仮定しての話であるけれども。


 そもそもそのような実践的な価値判断を前提にしているからこそ、ヒトを対象にした論文だけを取り上げるわけである。科学的な厳密性とか、法則の定立というような目的からすると、動物であるから価値が低いということはなく、かえって厳密な法則性を見出せる場合も多い。


 これらのことから、EBMは境界線上にはあるが、主として実践社会学に含まれ、エビデンス(実証的根拠)をのみ経験科学に求めていると思う。


 このエビデンスの上下関係をさらに敷衍して、動物実験や細胞実験は「ふつうにダメー!」な言い方を表明する場合もあるようだが、かえってそこまで言ってもらえば誰にでも分かりやすくなるというものだ。経験科学というものもいろいろ問題は含んでいるが、わたしの理解している範囲では、そういっている当の本人の議論は、「ふつうにダメー」なことが多いように思うから。


 ヒトに対する効果が微妙なのだから、さらに精妙な科学的取り扱いを要求するというのもひとつの考え方だとは思うが、ずいぶん前から、研究者は微妙な効果を明らかにするために「動物実験」や「細胞実験」というものを考案してきたというのも嘘ではないだろう。弱い毒性しか持たないものに注意を向けてくれるのはこの種の実験である。それが行き過ぎるという場合もあるだろうけれど。


 お祭り騒ぎを洞窟の壁に映った影絵として見るようなものだと誰かが言ったような気がするが、だれだったか思い出せない。


トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://ebis.nutritio.net/mt/mt-tb.cgi/450

コメントを投稿

(いままで、ここでコメントしたことがないときは、コメントを表示する前にこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまではコメントは表示されません。そのときはしばらく待ってください。)

About

2007年01月29日 00:00に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「古代ユダヤ教(承前)」です。

次の投稿は「古代ユダヤ教(承前)」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.36