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2007年03月 アーカイブ

2007年03月01日

リンクDEダイエットは移動しました



 リンクDEダイエット(メイン)新・サラダの日々ニューヨーク通信えいようきっずなどは、新しいサイトに移動しました。


 こみゅーんは、今までどおりです。ここもそのまま継続です。


 http://www.nutritio.net/ と、http://www.linkdediet.org/ が、リンクDEダイエットの今後の主要な舞台になるでしょう。なにが主要なのかは見る人次第ですが。


 もちろん、新しい栄研の公式サイト( http://www.nihn.go.jp/ )がこれから正式に公開されるでしょうし、既存の公式サイト( http://www.nih.go.jp/eiken/ )もまだしばらくは継続するでしょう。


バツイチだ(^^;


2007年03月02日

政治的人間



 あまり深く考えたことはないのだが、とりあえず「べき」という言葉を使う人間を信用しない。「自分自身がするべき」という自己省察のような場合は除く。


 もっとも、私自身、いちども「べき」と書かなかったかどうか覚えていない(たぶん何度も書いているだろう)ので、そんなに厳密に言っているわけではないけれど。


 研究者として、個人的なレベルではもちろんああしたら良いとか良くないとかは言う(つまり「べき」の世界にいる)が、それを公に発言すれば、その発言は研究者としてではなくなる。正確には研究者でなくなるわけではないが、研究者は価値判断とは隔絶したレベル(隔絶しないための方法論はウェーバーを参照のこと)で発言するものだけが研究的(科学的といってもこの場合は良いと思う)だと思うので、価値判断をそのまま述べるなら、その発言は研究者の政治的な発言だと思う(政治というのは別に国政を意味しているわけではない)。


 私個人は、このページにしても、もっと業務に近いところでやっている『リンクDEダイエット』にしても、他人を導くという気持ちはあまりないし、もちろん強制する気持ちはさらにない。


 誰かを導くというような気持ち自体が実はない(そもそも導けるのか?)。


 今後どうなるかはさておき、今までの方針としては、リンクDEダイエットもここも、なんらかの価値判断を強制するものではなかった。価値判断(実践的あるいは倫理的)ではなくて、科学の進め方というレベルでの議論だった。


 別にだまされるほど巧妙とも思えない(作っているのは私自身で、だますとかそういうつもりはない)が、リンクDEダイエットの記事は、それを実践したら良いとか悪いとか、確かにそういう文章は多々ある。でも、そういうことを推奨するものではない。基本的には懐疑論的であり、皮肉がわかる(つまり専門家を自認する集団ということか。かならずしも栄養学の専門家ではないが)という前提での文章である。


 だから、「かも」しれないとは言うが、「べき」はまず言わない。必然的に、「べき」を強制するような場所での発言はしないことにしてきた。そのような場所はとても居心地が悪いことが多く、気分が落ち着かない。周りの人間にも、明らかに私の存在が場違いであることがわかるらしく、不愉快な気分にさせられがちだ。


 長い間に自然に距離ができていて、再び近づくことはないと思っていたのに、ちょっとした間違いからそのような場所に連れてこられてしまったようで困っている。というのは本当に心からそう思っているのだが、そうは思わないヒトが多いことも経験的にわかっている。そんなにおかしなことなのだろうか?


 私ももちろん色々なことを現実には主張しているし、実現したいと思っているが、それをうまく言葉にすることができずにいる。言葉よりも、リンクDEダイエット情報探索頁、それにこみゅーんEBISと作ってきたサイトが全てなので、それでよいとも思う。そこは、一般的に期待される主張などはないし、そんなものを求めること自体が間違っているという主張に満ちている。


 一般論ではあるが、安全性という重要なテーマを扱うヒトには、なにか強烈な主張があるように思う。まぶしすぎて直視できなかったりするわけである(もちろんこれはやっかみ半分の自虐的な言い方ではあることは、一応言い添えておこう。否定ではないが、全肯定でもない、というのは、最近の私の考え方からすれば、勝手に主張だけすればよいわけではないからだ。主張のための自覚的なメソッド、あるいは形式、が必要だと思う。暗黙の了解が前提されている科学とは異なる)。


2007年03月04日

疑似科学的人間




 ところで、健康情報には別の落とし穴も存在する。実は、PubMedであれ学術論文サイトであれ、どんなに読みこなしたところで、科学の世界では、「ゆえに何をすべし」という結論は出てこない。それは価値判断であって、科学の領域から外れてしまうからである。医師も栄養士も、論文などの健康情報を知っているから自動的にするべきことが決まるのではなくて、知ることはもちろん前提条件であるが、医師あるいは栄養士として行為を成すためには、価値判断をしなければ先に進めない。


 価値判断は、職業的行為におけるもっとも高度な技能であるから、素人がこれを自ら容易に行う方法などあるはずがない。ベストセラーになるような健康本では、著者がこの価値判断をしてくれることが多い。牛乳は良いとかコーヒー浣腸は悪いとか、具体的に価値を教えてくれる。それも含めての健康情報だと、一般には思われているかもしれないが、専門研究者はそういう風には考えていない。それは、例えばHFNETの中核をなす健康食品素材情報データベースの記述を見れば明らかである。そこにあるのは、可能な限り客観的に判断しようとした場合に依拠できる文献(根拠)と、それらからの、やはり客観的な判断、いわば科学的な価値判断、だけである。


 明らかに、一般にいう「価値判断」とは、そのような限定されたものではなく、長寿とか健康寿命とか、さらにはそれらも含むところの文化的な意義においての「価値」の判断である。しかし、これはいわゆる科学の範囲を超えるものと専門研究者は考えているのだ。


(新・サラダの日々:栄養社会学宣言のようなものより引用)



 一般向けの健康本は、価値判断を豊富に含んでいて、栄養社会学としてそれはそれで面白いが、問題なのは、たいていの場合、その根拠におかしなものが多いことである。それはきちんと訂正されなければならないが、さりとて、赤ワインを飲むべきかどうかは結局わかりませんでは、しかたないというのも確かではないだろうか。


2007年03月07日

科学情報の取り扱い



 メディアを通じて流れるいわゆる「科学的」な情報には、すでにいくつかのお決まりのパターンともいうべき形式が存在している。そういう形式そのものが有害に作用しているのではないか、この形式を根本から見直さないといけないのではないか、という問題提起があり得る。


 例えば、柄本三代子が『健康の語られ方』のなかで分析しているように、一般向けの科学(健康)情報娯楽番組では、専門家は多くの場合、研究結果とそこから直接導出される可能性を限定的に語るだけで、当然これでは一般視聴者にはなんのことか理解できない。しかし、その説明をするにしても、専門家は結果から間接的に導出されるばら色の可能性のようなものはなかなか発言したがらない。また得られた結果だけを誰にでも分るように説明する場合にしても、研究結果に忠実であればあるほど限定事項がやまのようについてしまって、逆に分りにくくなってしまう。


 そこで、研究をわかりやすくするのが、司会者やコメンテーターの芸能人の役割ということになる。極端な話、研究者のコメントはお墨付きを与えるだけのもので、全く無いと困るが、ほんの少しあれば良いという山椒のような存在になってしまっている。しかも、司会者や芸能人は一般視聴者以上の専門知識は持たないから、視聴者が聞きたい(たいていはまとはずれな)ことばかり発言するし、それがまたTVを観ている側からは面白くて楽しい要因になる。


 バラエティ番組というのは、この掛け合い漫才のような番組内容の全体を売り物にしており、その一部だけをとりだしてあれこれ批判するのは意味がないが、わたしがここで言っている形式の問題というのは、実はバラエティ番組だけでなく、あるいは一部のメディアだけでもなく、広く普及していて、それが間違い情報の伝播に一役買ってしまっているのではないか、ということだ。


2007年03月08日

情報を提供するということ



 最新の情報を知ることは、いろいろな利点がある。特に、研究者にとっては、まったく新しい視点へのヒントを得られることがままある、というのが、リンクDEダイエットでニュースを提供するようになった動機のひとつだった。


 栄養学の研究者及び専門家(とその予備軍)と自分で思える人々が対象であって、ここではそれ以外の人のことは考慮に入れていないので、情報の価値判断(科学的でも実践的でも)は各々ですれば良い(それができるのが専門家というものだろうから)と考えて、価値判断を記述する場合にも一般の人々にどう受け止められるかは、あえて無視している。なによりも、刺激を与えることを主に考えているので、誤解されやすいとんでもないニュースがしばしば取り上げられる、というより積極的にそういうものを取り上げている。


 したがって、誰かを啓蒙したり教育したりという気持ちは皆無であると言ってよい。こんな風に作られているサイトは、日本語では私が知る限り存在しなかったので、やってみようと思ったわけである(英語圏では、学術雑誌サイト、二次文献誌サイトが研究者だけを相手に本物の刺激を与えてくれるから、特に必要ない)。


 わざわざ説明していないから誤解されているかもしれないが、そういうつもりで『リンクDEダイエット』は運営しているので、一般の人々は見ていただいても全然かまわないのだが、たぶん誤読する可能性も高い。むしろ、わざと誤読させるような書き方をしているかもしれない。その代わりニュースや論文要旨にリンクして詳細な情報を得られるようにしてある。研究者が対象であれば、妙にやさしく解説されていたりすると逆に疑ってしまうから、このほうがむしろ親切なのだと思っている(それともそんな風に思うのは私だけだろうか? 正直にいうと、自分が使いやすいようにすることだけしか考えていないのだ。というのは、仮想的な研究者を考えると統計のお化けのようなかえって見当違いの対象者を想定することになると思うからだ)。


 ある意味では、かなりふざけているようにも見えるだろう(なにがヒントになるかを証明付きで教えてもらえれば喜んでそのとおりにします、みたいな)。真面目に情報を知りたい普通の人々は、かえって混乱するかもしれない。それは、上記のようにもともと対象とは考えていないからである(ぜんぜん親切じゃないのは、実は人手が足りないだけのこと。余裕があればもっと対象集団を広げて考えられるとは思うのだが)。


 機械翻訳も、専門知識があっても英語は苦手な場合に有用だと思って(結構高い料金がかかっているが)つけている。専門知識も英語も苦手な一般の人々は多様な集団だから、有用な人もそうでない人も、誤読の度合いを増す人もそうでない人もいるだろうが、そこまでは考える余裕がない。


 どうしてこういうスタンスでやるのか、というのは当然わいてくる疑問であろうが、研究者に刺激を与えることで研究は進む、ということは国民みんなが結果的に恩恵を受けるということである。


 想定される対象者の範囲を変えれば、またいろいろ別な方法も考えられるだろう。しかし、想定される対象者を変えるというのは、ただ単に、ちょっと変えるということにはならない。


 対象者を栄養専門職以外の一般の人々に変えるためには、かなり本質的な部分を変更する必要がある、というのが最近のわたしの意見であり、そのための作業をこの一年くらい続けている。基本的な情報伝達の「形式」を変革しなければならないと思う。


 これとは別の事情で、マスメディアについて考えさせられていたら、同じように「形式」の問題に行き着いた。マスメディアの関係者は、それを良いと思っているのかもしれないし、もしかしたら科学的でさえあると思っているのかもしれないが、価値判断を多く含むので、まず科学的とはいえない。価値判断を排除したとしても、多くの場合記述に不備があり(字数制限があるためだろう)、やはり科学的にはダメダメだったりする。


 一般の人々に正確な情報を伝える、ということを第一に考える新しい「形式」が必要だと思う。せっかくマスメディアはみなウェブサイトも持っているのだから、これを活用するのが効果的だとも思う。引用文献を追加するだけでも良い。それだけで情報の信頼性は飛躍的に向上すると思う。


 もっとも、こういう意見を拒否しているように思えるマスメディアの体質をこそまず変えないとどうにもならないのかもしれないのは、こういう意見を何度書き直しても勝手に削除してしまうくせに、今度こそと期待してさらに書き直せといってくるメディアというものを最近経験したからだ。結局、五回分書いて一回しか掲載されない(すべて複数回書き直し)という歩留まりの悪さなのに、さらにまだ書けといわれても、うけあってもいいが、その原稿は絶対に掲載されないだろう、と勝手に判断してここに載せた。この文章がそれ。掲載してもらえますか?


2007年03月09日

情報を提供するということ(承前)



 最近、媒介者(メディエーター)というものから普遍的な形式を生み出せないかと思って、あれこれくだらないことを試行錯誤しているが、もともと『リンクDEダイエット』やその前身の『知識基盤プロジェクト』(国民栄養調査のDBとは別物)のはじめから、私の勤務する研究所は、栄養専門職をサポートすることで間接的に国民の栄養状態を良くする(良くするといっても最近は過剰摂取を防ぐほうだが)ことを専らとしてきた。というのは、電話やメールをもらえば答えはするが、積極的に全国民を相手に何かをするほどのリソース(職員、予算)を持ち合わせていなかったからである。


 HFNETという健康食品の情報サイトを研究所では、やっている(最初のサイトのシステムは私が作った古いシステムを移植したものだ)が、そこでも基本的な対象者は栄養専門職の人々であって、それを一般の人も見ているというに過ぎなかった(でもそんなことは、どこにも書いてないので恐らく誰も知らないのではないだろうか。今は有名になってしまったのでトップの意向は多分最初とは変わっていると思う。わざわざ聞かないので真偽のほどは知らないが)。


 数年前から公開している研究所のQ&Aコーナーと現在製作中のえいようきっずが、専門知識を持たないすべての人々に向けた研究所のコンテンツということになるが、こういった一般向けのコンテンツの製作というものは、まず論文をかなりの数読まないといけないし、専門分野が違う場合には、当該分野で権威と思われる先生方の意見を聞く必要があって、原著論文を書くほどではないにしても、かなり面倒な作業である。しかも、それをやったところで、業績としては評価されない。誰もが嫌がるのも当然かもしれない。


 リソースには限りがある。


2007年03月10日

政治的人間(承前)



 そうはいっても、こんな場所で勝手に言いたいことをいうのであれば、少しは説明責任というものも発生するだろうというのも、確かである。


 以前は、このページについてという説明が読めるようになっていたが、最近はいろいろな事情もあって簡単には読めなくなっているので、説明を繰り返すことも必要かと思う(昔のものはこちらにある)。で、この数日のこの欄で説明した。


 初期の頃からの読者(が、もしいたらの話だけれど)にとっては、このブログもリンクDEダイエットも、一般向けでないことは了解されていると思う。実際、(もう昔のことだが)メディアで紹介されるときには、そのあたりもきちんと言及されていた。


 もう10年以上もサイトの構築をやってきてはいるので、だれが読むかはわからないという前提はよくわかっている。だから、研究者しか対象にしないとことわっていても、一般の人々に誤読をさそうようなことは極力避けてきた。そのあたりは推測するしかないが、今までメールで質問が来たのは一般向けに作っているQ&Aコーナーを介してのものがほぼ全てだったので、文章のちょっとしたニュアンスは、一般に了解可能だと思う。あるいは、みんなきちんと初期の文章まで一応は目を通しているということか。


 だれも読んでいないというのが実は一番ありそうなことではあるけれど。


 世間が低度情報化社会にむかっているその一端を担っている自覚はあるが、だれでもそうだろうが、自分だけは違うと思ってやっている。でも、違わなくても、自分が一番の低能な意見を垂れ流しているのでも、かまわない。ウェブというものは、ブログの時代になってもまだまだ対抗勢力になりうる潜在的な力を持っていると思う。低度情報化社会という言い方はなるほどと思える意見だが、それでなにが悪いのかという申し立ても可能だ。


 ブログのような低度情報化社会を促進するメディアといえども、旧来のメディアとは無縁ではないし、以前にはブログの機能は極めて限定された地域のコミュニケーションだったのだから、それがネットによって変質することを期待するのは間違いではないと思えるからだ。


 実は、低度情報化社会のアンチテーゼは、高度情報化社会である。つまり、いわゆるメディアということになる。


 カイザルのものはカイザルに返すがよかろう、ということだ。


 追求すればするほど墓穴を掘るように思えるが、「形式」の悪魔はとても強力である。ガリレオの意見がどうして反発されなければならなかったのか、量子力学をどうしてアインシュタインは受け入れられなかったのか。


 こんなことを書くから没にされるのだ。


2007年03月11日

理屈が多すぎる



 この半年ばかり、ネットで私が書いているのは理屈ばかりでちっとも具体性がない、というのは極めて正当な意見だと思う。わざと理屈ばかり書くようにしているのだから、当たり前といえば当たり前だ。


 たいしてアクセス数があるわけでもないサイトをいくつか構築してきたが、言い訳するのはおしゃれじゃないと思っていたので、使い方もまともに説明してこなかった。使い方は、そんなに難しいものでもないので、今でも必要性は感じていない(土屋教授のように、文字は画面の左から右へ、また上から下へ連続しているので、その順番で読んでいけばよい、とでも書くのか)。けれども、研究者を主たる読者に想定しているということは、実は一般向けとしてはかなり多くの説明を省略していることになるということに気が付いた。


 必要ならば自分で勉強するだろうというのは、ずっと自分で勉強してきた人間には自明のことであっても、一般にはそうではない。ある意味ストイックな研究者的視点で作られたサイトは、それはそれでおしゃれだと思ってやってきたし、他にも例がないわけではないが、関係者以外は自己責任で、というのもちょっと突き放し過ぎかもしれないと思い始めたのである。


 実は、ほんの少し突き放しているだけだと、ずっと思っていた。


 心底そう信じていたのだが、自分が例えば株を売買するというようなまったく未知の領域で、いったい何を知っていて具体的に何ができるのかといえば、何もできないわけである。私は、物事を理解する能力にはそれほど個体差はないと思っているが、理解には時間が必要であり、その時間は現実に人によって全く異なっているということをすっかり忘れていたのだ。


 それは研究者とか専門家の範疇に入る人々にとっても、専門分化が進んでいる現在では、全員に共通の理解ということになると、極めて限られている可能性があるということである、というか実際そうなのである。


 ストイックな(研究者的)視点は今でも魅力的なのでそのまま継続するとしても、はたして禁欲的(ストイック)なだけで良いのかということが問題になる。欲望のない人間なんていないし、欲望が渦巻かない社会なんて存在しないわけで。講壇禁欲は、社会参加があるからこそ意味を持つのではないか? ウェーバーとサルトルがごっちゃになっているって?


2007年03月13日

健康栄養学情報探索頁、復旧



 昨年の11月以来サービスが途絶えていた旧『健康栄養学情報探索頁』の各種リンク集が、やっと復旧した。


 アクセスは、探索頁トップからどうぞ。


 まだ機器の構成が以前のようになっていないので、スピードはかなり遅めだが、世界中の健康栄養情報を日本語で、という状態は、なんとか体験できるまでに戻っている。最近は、リンク集なんて時代遅れの無用の長物のように思うかもしれないが、でもこの頁がなければ簡単にはアクセスできないサイトがたくさんある。できないのは私だけかもしれないけれど。


 当初から、意識して堅い名称を選んでリンクDEダイエットとのバランスをとっていた(公的な報告書には、探索頁の名称を使用していた)せいか、このサイトに注目してくれたメディアは皆無だったが、実際にはこのデータベースがなければこんなに簡単に海外の情報を探すこともできなかったわけだから、要となるDBであることは間違いなかった。公開できなくなってからもずっと内部では使い続けてきた。


 確かに、現在では、英国BBC、米国科学推進協会(AAAS、『Science』を出版しているとこ)のEurekAlert、米国立医学図書館のMedlinePlusだけ見ていても、たくさんの信頼性の高い健康ニュースが拾えるので、昔ほどの重要性はない。


 こんな時代にはメディアが流すニュースだけを日本語で紹介しているだけでは独自性がないので、さらにEBIS(えびす)というようなものもやっている(すごく中途半端な未完成品のまま放置されて久しいが)。


 昔は、さらに独自性を出すためにアジア、ヨーロッパの非英語圏のニュースもさがしていた時期があったが、論文になっていることを条件に探すと、どうしても英語圏にくらべて見劣りする(論文は基本的に英語だから当然か)ので、現在はほとんど見ていない。面白いものは多いのだが、英語圏のニュースでも、どうして面白いものに限って学会発表なのかという、けっこう重要な問題が内包されている。結局現在のリンクDEダイエットは、そのサイト名のいい加減さにもかかわらず、論文になっていることが基本条件(出典を明記する)になっている。


 研究者にインスピレーションを与えるという目的を第一に考えるなら、もっともっとおかしなニュースばかりでも良いが、一般の人が見る機会も多いことを考慮した。そのためもあり、『むく鳥通信(健康栄養篇)』という栄研のHPの中にあるページを立ち上げた当初は、そちらとこちら(『リンクDEダイエット』)には区別があった(前者は一般向け、後者は研究者むけ)のでニュースも微妙に異なっていたのだが、結局人手が足りないため両者を別物として維持する余裕がなくなり、現在はほぼ同一のニュースが掲載されている。


 情報は、多ければ多いほど良いというものではないし、人間の情報処理能力は極めて優れているから、例えばグーグルで検索しても、最初の1,2ページしか見ないという処理を無意識的にすることで適正に対処することができる。そういう行動に適合したサイトは、ということを考えるとき、ランクが上位にあることがなによりも重要になるのは明らかだ。そうなると、集約的に情報を一箇所にまとめるほうが参照される数が増えるから単純に良いということになる。


 インターネットの検索エンジンの原理からすれば、同じ種類の情報はひとつ場所にあるのが(ミラーサイトは別だが)もっとも効率がよい。どうしてそうならないのかといえば、個々の情報は各々異なっているから、ということだ。健康食品販売サイトがこの事実に気が付く前に、こちらが気が付けば先手を打てるわけだが、私はそんな時代は永遠にこないだろうと思う。なにかもっと大きな力が働かない限り。もちろん販売サイトも同じであり、決してそのような変化は起こらないだろう。


2007年03月19日

疑うことが前提の発見を信じるということ



 社説(エディトリアル)のようなものもあるが、基本的に新聞の報道というのは、事実を伝えるものだと思う。事実というのは、だれそれがなにがしを殺したというようなことから、だれそれがXXXと発言した、というようなことだ。科学記事も基本的には、そのような事実を伝えるものだと考えられる。


 研究成果の発表というのは、新聞記事以上に事実を伝えることだけを基本にしているから、論文には意味や意義はほとんど書かれていないのが普通である。だから、もし論文を元に科学記事が書かれるとしたら、記事が伝えられる事実というのは、研究者が論文を発表したという事実と、せいぜい結果の記述までであることになる。でも実際は、日本の新聞に限ったことではないが、記事というのはそれが何を意味してどんな意義があるのかまで解説するのが普通だ。


 意味や意義というのは、実は研究者の単なる思い込みや感想に過ぎないかも知れないし、論文を審査されるときにも、そういうことは審査されない(もちろん論文として学術上の意味や意義は必要だが、ここで議論しているのは実践的価値判断における意味や意義)のだから、それをもし報道するのであれば、記事を書く記者にはそれを鵜呑みにしないだけの知識が要求される。


 学術雑誌のエディトリアルやニュースは、その分野に通暁した人間によって書かれるのが普通(編集者も研究者であることが大半)だし、論文本来の目的に沿って、新しい知見を慎重に(批判的に)検討する。当然学術上の意味や意義についても具体的に解説されるが、ただし実践的な意味や意義についてはあまり触れない。研究者も普通の人間だから、意見の対立がある場合にはおかしな風にならないとも限らないし、それ以外にも色々な場合があるが、基本的にはそう考えてよいと思う。


 これが一般向けメディアに流れる時の「変質」とでもいうべき現象をどのように考えるかというのが当面の課題である。メディアといっても、マスコミのことではなくて、保健所でする健康教室の教材というような文字通りのメディアであり、「記事を書く記者にはそれを鵜呑みにしないだけの知識が要求される」というのは、実はわれわれ作り手自身のことをここでは意味している。


2007年03月22日

疑うことが前提の発見を…(承前)



 自分が確信をもって説明できる事柄だけを説明する場合にはあまり問題にはならないが、現実にはある分野の全てを一人でカバーしなければなんのかたちにもならないということがある。


 リンクDEダイエットは、その点ではお気楽極楽なサイトである。栄養学の研究者を刺激するという目的のためには、最低限嘘を書かなければ良いわけだし、最悪の場合嘘であってもかまわないと云えるからだ(でも、実際にそんないい加減な状態でサイトを運営し続けることはできない。私自身は、確信を持つための勉強が必要だったし、それなしにできることはあまり多くないだろうと思う。いや、今でもあまり多くなかったりする。もっと勉強は必要らしい)。


 啓蒙とか教育とか言い出すと、そんなやり方は決してできない。嘘なんてとんでもないことだし、嘘ではなくても単に誤解を受けやすいだけという表現も許容できない。そんな場所には、親でありかつ研究者である場合には、どこかで妥協しない限り、とても辿り着けないような気がする。


 というわけで、実際に、えいようきっずは、たどりつけずにいるというわけだ。自分の子供のために書けと言っても、子供がいなければどうしようもない(我が家にはひとりいるけど)。小学生のときの自分に説明しろというのでもいいかもしれないが、なぜか自分だけは小学生のときにも十分な理解力があったりする(デジャブみたいなもんだろうと思うが、追求することはできない)。


 小学生に説明するときに、どうして小学校の関係者がいないのかという問題もある。漢字も学年にあわせて使ってはいない。そのあたりは教育の専門家にまかせるとしても。


2007年03月26日

疑うことが前提の発見を…(承前)



 科学的な発見をニュースにするというのは、研究者相手には何の問題もないが、それ以外の人々に対してはずいぶん問題があるように思う。


 繰り返しになるかもしれないが、科学的な発見は、他の研究者がツッコミを入れようとてぐすね引いて待っているのに、新聞などで報道されるばあいには、そういう基本的に必要な態度がどこかに消えてしまうからだ。これは全ての局面においてそうであるといって良いかもしれない。科学はほとんど仮説であって、ツッコミどころを見極められない人間が知ってもしかたないのだが、新聞記者はそうは思わないのかもしれない。


 最近気が付いたことだが、健康情報そのものは科学と言ってもいいかもしれないが、それを判断するのは少なくとも純粋科学ではないこと、したがって社会学的な手順(または他の)のような手続きが必要になることに全く無自覚な記事が多い。もっともこの60年来のありふれた現象ではあるわけで。


この続きは、えいよう・こみゅーん内のソネット18番(要登録)にあります。


2007年03月28日

えいようきっず、大公開



 というわけで、もう足掛け三年もかかってまだ完成には程遠い「えいようきっず」をついに公開することに。


 大後悔にならなければよいけれど。


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