キラービー(B)(承前)
ガイドラインは二つの部分からなり、ひとつはエビデンス、もうひとつは具体的指示ということで、これをウェーバーの理解社会学における科学と実践に当てはめてみることができる。
エビデンスは基本的に研究論文のことであり誰にとっても大きな違いはないものだが、具体的な指示は地域的なものであって、地域ごとにかなり大きな違いがでる可能性がある。
中国でも妥当しなければいけないと(多少偏見入ってますね)ウェーバーのいう、普遍的客観的な真理を扱うのが科学であり、ここではエビデンスに当たる。それに対応するのが、行政のような実践行為であって、ここでは具体的な指示ということになる(こちらは日本と中国では異なって当然だろう)。
異論は多々あるだろうが、わたしはそのように考えている。そのように考えると、具体的指示をどうするかという自由度が広がる。これはガイドラインではなくて、具体的な患者への適用を考える場合も同様である。具体的指示が科学の一部だということになれば、確かに適用をする人間(医師、栄養士)の気は楽になるかもしれない。一定の手順によって具体的指示が出てくるが、それは科学的な推論の結果なのだから、個人の責任(時には英断)には帰せられないということだ。
実は、この二つの異なる部分を繋ぐ考え方について、EBMはあまり踏み込んだ議論をしていないように私には思える。というのは、勝手な先入観で申し訳ないが、この部分をウェーバーのように踏み込んで議論してしまうと、EBM自体が成り立たなくなってしまうように思うからだ。
というのは、ウェーバーは、その区別を科学の厳密性を実践行為のアバウトさと混同しないために、そしてそうすることで社会科学を科学として存立させるために議論したのに対して、EBMは実はウェーバーが例にあげた国民経済学のように、医療的実践行為はすべて科学から適用できるということを前提にしているように見えるからである。
だから例えばウェーバーは、賛成と反対の数をいくら数えても実践は導かれない、とか、実践が自動的に導かれるような幻想を読者に抱かせてはいけない、と、はっきり断言している。社会学の学徒には、科学の限界をわきまえるための教訓になるだろうが、こんな風にいわれたらEBMの困難性は無限大になるわけで、医師ならともかく、それ以外の人間は一挙にやる気が失せてしまうだろう。
現実的な問題として、ここで話題の中心にいる人間は管理栄養士さんなのであって、決して患者の生死を分かつような臨床判断をすることはないのだから、そのあたりは曖昧にしておけばよいということもあり、そうなるとなんのためのEBMということになるのは目に見えている。
「きみ、歩調をあわせてくれないと困るなあ」
「なんのことですか?」
「とぼけるなよ、きみ、ヘビースモーカーの患者に、ベータカロテンのサプリを薦めただろう?」
「それがなにか?」
「なにか、じゃないんだよ。肺がんのリスクがあがるんだよ、肺がんの! 昨日のJAMA見てないの?!!!」
って、見ているわけありません、って。