私の勤めている研究所の開所式に招かれた来賓の役人が、「このような研究所は無用」と発言したという風説がまことしやかに語り継がれているが、この伝統(?)は、今も続いており、たった4か月ほど前にも、時の大臣が「(この)研究所は廃止」と断定的に発表した。
翌日、隣の研究所の事務官が「可哀そうだねえ、どうなっちゃんだろうねえ。いや、大変だ、まったく、大変だ」と、わざわざ言いにきた。顔を見ると心の底から笑いだしたいのを必死でこらえているのがわかる。実際あまりにも露骨だったのでかえって別の理由を疑ってしまったほどだった。
どこの世界にも弱い者いじめが好きな輩というのは存在するので、私の周辺が特別というわけではないだろう。こういう場合、本当にいじめようと思っているのは表に出ない「影」の人物で、その発言を深く考えないで実行するのは「善意の」というか何も考えてないその他大勢であるというのが相場である。どうしてそれが相場なのかといえば、弱い者というなにか絶対的な弱者が存在することはほとんどありえないからである。だれか(「影」の人物)が、いじめたい誰かの弱点を探すというのが出発点になる。弱い者が自ら弱点をさらすことももちろん多くあることだろうが、この場合「善意」のその他大勢はむしろそれを庇うだろう。そこに「影」の人物がツッコミを入れるのがイジメのきっかけになるわけで、もちろん「影」の人物は狙ってやっているのである。
とりあえず、廃止というのは誤報(「廃止もしくは他の研究所と統合」発言の後半を新聞記者は平気で落としたわけだ。聞こえなかったと言い訳するのだろう)だったが、相変わらず私の勤めている研究所はイジメにあっている。これをまともに受けていじめられているなどと言っても、親も教師も真に受けてくれないし、当のイジメの加害者のエンドルフィン分泌を促進するばかりである。
かといって、まともに議論しても無視されるだけ(8年前に実際、された。わたしではないけど)。こちらを無視していると思うだけでまたエンドルフィン出まくりだったのかも。
なので、いまさら無駄とはおもうが、一応従来の見解を書いておくことにする。なんのことかわからないように、だが。
教会があるとしよう。たとえば、東久留米に「聖ガンダム教会」が、そして隣の清瀬には「聖ガンダム教会清瀬分室」があると。
さて、東久留米の「聖ガンダム教会」には、東久留米で細々と暮らす「パリサイガンダムびと」がいて、その人々も礼拝には聖ガンダム教会以外に行くところはなかった、という状況である。
問題は、親教会である「聖日本アニメ教会」が、教会は個別に上納金を納めろと言ってきたことから始まる(ここまで書いてある政治団体を思い出したが、この話は共産党にはなんの関係もない)。
さて、個別の教会とは、何を意味するのか。
別にむずかしい話ではない。教会という特定の土地に建設された建物が、教会数把握の目安になる。他の指標は難しいけれど、実際に立てられている教会堂の数なら間違いも少ないはずだ。目に見えるのだから。
簡単に言えばこれですべて。
東久留米の「聖ガンダム教会」にいた「パリサイガンダムびと」はどうなったのかって? どうにもならない。彼らは東久留米の「聖ガンダム教会」に実際上所属しているとみなされたわけである。したがって彼らも信者の数に入ることになる。
他方、清瀬の「聖ガンダム教会」の信者は、そちらで別にカウントされるというわけだ。
確かに、このような数え方には明らかに問題がある。清瀬だろうとどこだろうと、「聖ガンダム教会」の信徒には変わらないし、東久留米にいても、そこしか事実上居場所がなくても、どうして「パリサイガンダムびと」が「聖ガンダム教会」の信徒なのだろうか? 教会が二つの看板(祭壇)を掲げるなら事情は違ったかもしれないが、だれがどこから見ても教会はひとつしかない。正確にいえばパリサイガンダムびとは信徒というよりは、単に存在してないといったほうがわかりやすいかもしれない。
この数え方は地理上の物理的な(つまり目で見て数えられる)存在を基準にしているというだけのことだけれども、どうやら善意の「聖ガンダム教会」信徒にとって、清瀬の信徒が別扱いで「パリサイガンダムびと」が一緒(単に存在していないだけなのだが)というのは、死ぬほどの屈辱だったということなのかもしれない。他人の気持ちはよく分からないのでただ推測するだけだが。
もっとも、実際にはこれほどすっきりした話ではなくて、「聖新日本動画教会」は、清瀬も含めて「聖ガンダム教会」ひとつと考えたりするから難しい。じゃあその場合、「パリサイガンダムびと」はどうなるのかというと、やはり「聖ガンダム教会」のうちなのだ(というか、この場合も存在していない座敷童子である)。
*文中の固有名詞はもちろんすべて架空のものです。念のため。