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2008年04月 アーカイブ

2008年04月02日

スパイ物語(こみゅーんから転載)



 事実と意見という区別があります。ウィキペディアの表現(「信頼できる情報源」の項)ですが、簡単にいうと第三者に認められたものが事実であり、そうでないものが意見ということです。英語だとfactとopinionです。ウィキペディアは、名前のとおり百科事典なので、意見を表明する場ではありません。広く認められたこと、事実、を解説する場ですから、意見を排除するのは当然です。たとえノーベル賞を受賞したヒトの言うことであっても、意見は排除する、ということは、それが間違いであるとか価値がないということを意味しないと明記しています。


 ここで書いておこうと思っているのは、事実と意見という区別は一般に認められているが、実際には事実は意見の一部でしかないのではないか、ということです。これは最初からわかっていたはずのことではあります。権威や同僚の意見よりも論文を優先するという態度。態度決定というのは価値判断を含みます。これを価値判断だと思わずに、正統な科学的判断だと思うこと自体が価値判断(正統ってなに?)なのですから。


 理由は知らず、なぜかその価値判断は隠蔽されているように見えます。単なる価値判断であるのは明白なのですが。


 ちなみに、ウィキペディアの文章は、英語版からの翻訳でしたが、その原文は2006年8月のもので、現在はまったく異なるものになっています。見出し構造が全く変化しているので、どこかに事実と意見の対比は書かれているのかもしれませんが、見つけられませんでした。それが事実と意見がかならずしも対立する概念ではないという認識に由来するのかどうかはわかりません。


2008年04月13日

科学的根拠とは何か



 というわけで、4月になって研究室の場所も少しだけ変わり(サーバ室をはさんで反対側の部屋に移った。サーバ室のお守が私の主要な仕事なのでどうせそう遠くへは行けない)、時代は明らかに変わりつつあるところなのかもしれない、というのが気分だけでなく現実感を伴ってきた。二年ぶりに健康栄養情報プロジェクト(旧・健康栄養情報研究室、昔のわたしの研究室名)も兼務することになったから、というわけではないが、新しいことを始めるにはちょうど良い機会だと思う。


 今年はリンクDEダイエット(旧・健康栄養学知識基盤倉庫時代から数えて)開設10周年にあたる。残念なことに開設時に総説を提供していただいた分担研究者(リンクDEダイエットはある研究プロジェクトのウェブ版が出発点になっている)が、わたし(廣田)と梅垣先生(現・情報センター長)を除いてみんな辞めてしまわれた。


 こういうものは、ひとりだけではとても作れるものではない。それは栄養研の他のサイトも同様だと思うが、そのコンテンツには、さまざまな人の個性が知らず識らずのうちに表出していて、それがサイトの多様性を形作るのである。もうあのようなものは作れない。編集者的な楽しみとでもいえばいいだろうか。この場合、新人の発掘がサイト興隆のカギになるわけだが、わたし自身はもうずっと編集者の立場というより墓守りに近かったような気がするし、実際にも新人を発掘する立場にはなかった。


 ならば、再び編集者になるだろうか? 情報センターの健康栄養情報プロジェクトのリーダーというのは、確かにあの時代を彷彿させるものではある。昨年の12月から始めた健康・栄養フォーラムは、旧来のQ&Aのコーナーを継承したもので、そこでのわたしの役回りは確かに編集者的である。


 でも、歴史は一回限りの出来事であって繰り返されることはない。類似の事象が発生することは、それはもういくらでもあるだろうけれど。


 さしあたって、なにがわたしにできるのだろうか、といえば、わたしにできることはわたしにできることだけだということを認識することかもしれない。もっとも、わたしは自覚的に他人の血をできるかぎり移植しようとしてきたつもりではあるが。


 多様性こそが命なのだということは、もっともっと認識されていいように思う。だが、これは自分の主張だけが正しいと心底信じるヒトが多数集まることで多様性が生まれるという意味である。どんな場面においてもジーンズでなければ「いけない」と心底考えるような精神と、そうでないと考える精神の対立に意味があるのである。どちらも別の観点から観れば同じというような精神(わたしはこれ)も、前二者とは異なる立場として同様に意味がある。


 なんだか焦げ臭い方向に(またしても)展開してきているような気がするが、もちろんわたしにはそんなつもりは全然ない。単に、「科学的根拠」という、正確な定義を与えられていないように思える言葉について、論じてみようと思っただけである。現に科学的根拠という言葉が、ただ根拠という場合の前提としても使用されている状況について、「そのエビデンス(科学的根拠)はありますか?」という質問を、ほかならぬその質問者に向けてみようと思っただけのことである。


 ちょっと込み入ってるかもしれないが。


「そのエビデンスはありますか?」


「あなたが『そのエビデンスはありますか?』と問うエビデンスは何ですか?」


ということだ。その直接的な回答は簡単にできそうだけれど、本当にそうだろうか?


2008年04月14日

エビデンスはヒトに限定される



 そういえば、眉村卓の司政官シリーズの短編が創元文庫にまとめられた。長編も一緒に出してくれないだろうか。そしたら全部買うと思うのだけれど。


 それはともかく、まずは根拠(エビデンス)である。


 もともと言いたいことなんかたいしてないのだから、いつでも繰り返しになることは避けられない。今回もそうだと思うが、まず、エビデンスというのは、根拠とか証拠と訳されるが、科学という含みはないはずである。それはただの希望に過ぎない。研究者に限らず、誰だって根拠には客観性を求めるものであり、客観性をつきつめていくと、現代においては科学的であることにつきあたることになるからだ。


 つまるところ、エビデンスというときに、それが科学的エビデンスを意味しているというのは、大方の了解が得られていると考えていい、とはいえる。


 だが、問題はその先にある。


 科学的というのは何を意味しているのか、ということだ。端的にいえば、統計疫学だけが科学なのだろうか、ということである。もちろん、当の統計疫学者だって、それは違うというだろう。それ以外にも科学と呼ばれるものはたくさんあるのだから。


 では、どうしてそれがヒトに関する研究だけに限定されてしまうのだろうか? まさしくそれが問題の中心であるわけだ。


それは作者がそう言ったからだ



 でも実の処、答えはとても簡単だ。科学的根拠に基づく栄養学というものの提唱者の一人が、そう定義しているからである。エビデンスを表す日本語は、根拠でも科学的根拠でもかまわないらしく、混在して使用している。


 ヒトを対象にした実証的研究だけをエビデンスと定義しているのに、それを科学的根拠と呼ぶのはおかしいのではないか、という疑問は当然出てくるが、おかしくはない。なぜならば、これは提唱者の単なる意見であるからだ。何を言おうと、論理的に矛盾があろうと、意見ならなんでもありなのである。おかしいと感じたのは、それが科学研究の一部であると錯覚したからに他ならない。


 実際には、「科学的根拠に基づくXXX」という言い方は、それが科学ではないことをしっかり主張している。「的」というのがそうだし、「基づく」のもそうで、どちらも科学との距離を意味する表現だからである。その結果でてきた「XXX」が科学ではないことは明白なのだ。


 これは、いままでずっと栄養学という科学をやってきたのに、どうしてまた新しく「科学的根拠に基づく」栄養学という科学をやらなければならないのか、という疑問の答えでもある。同じ言葉を使ってはいるが、ただの栄養学と「科学的根拠に基づく栄養学」は異なるものである。そして後者は科学ではない。


 そうなると、いままで科学の一分野としての栄養学を学んできたヒトにとって、「科学的根拠に基づく栄養学」がどのような意味を持つのかということが問題になる。というのも、これは、単に栄養学の視点を変えるというものではないからだ。むしろ、ある偏向を持つグループの意見に基づいて従来の栄養学をないがしろにする戦略ととらえるほうがわかりやすい。


 他方、医学においては、EBMにそのような主張はないように見える。EBMの主張は医学研究が基礎から応用まで幅広い分野にまたがることを妨げない。なぜかといえば、EBMのMは、患者相手の具体的な医療行為(実践)を指しており、研究はまったく含まれないからである。


 つまり、「科学的根拠に基づく栄養学」というのは、EBMとは異なると提唱者の一人も主張している以上に明らかにEBMとは異なるもののようだ。EBMが、科学に基づいて実践をしようというムーブメントであるのに対し、「科学的根拠に基づく栄養学」というのは、科学の一分野である栄養学をやめて科学ではない栄養学をやろうと主張しているのだから。


 でも、まさか提唱者が本気でそんなことを考えていたとは思われない。どうしてこんな不思議なことになってしまうのだろうか?


2008年04月15日

人間栄養学



 どうしてそういうことになってしまったかを考える前に、もうひとつ類似の例として、以前にもふれた「人間栄養学」というものがある。これは"Human Nutrition"をただ訳したものだから特に問題はないようにもみえるが、はたしてそうだろうか? 自然科学分野では人間という単語は学術領域を指すのにはほとんど使われない。使われる場合には、生物学的存在としてのヒトではなくもっと人文主義的というのだろうか、いい言葉がすぐには浮かばないが、まさしく人間的な存在としてのヒトを意味する場合が多い。といっても人間工学と、あとはせいぜい人間科学くらいしか用例を思いつかないのだが。


 人間医学、人間生物学、人間生化学などという用例は、もしあったとしてもよほど特殊な場合だと思う。特に、医学に人間をつけることはほとんどない。人間を頭につけると純粋にヒトを対象にした自然科学の領域とは思われなくなってしまうからだ。人間工学も人間科学も自然科学の領域に人文的ななにかを付け加えることを目指したものだと思う。


 生物科学的医学に対する言葉として人間科学的医学という用例は実際にみたことがある。これも明らかに人文的ななにかを付け加えることを意図している。


 そうなると、「人間栄養学」もそうなのだろうか? 前項の同じ提唱者が、「人間栄養学」は「科学的根拠に基づく栄養学」と同義であるように高らかに宣言しているのを読むと、なるほど、両者がともに自然科学からは距離を置いているということなのだと、うっかり納得しそうになる。


 だが、そうではないのだ。どちらも、そんな人文的なニュアンスのようなものとはまるで無縁である。「科学的根拠に基づく栄養学」では栄養学が科学ではないことになってしまい、「人間栄養学」も自然科学から微妙にずれてしまうのではないかと思うのだが、そのような言葉が実際に意味するはずの内容は、そんなものはカケラも存在しない緻密な学問世界であるといっていい。


 これもまた混乱を招く元ではないだろうか。


2008年04月16日

なにが事実でなにが意見か



 事実と意見という言葉も細かくみるといろいろ注釈がつくが、それはさておき。


 要するに、「人間栄養学」や「科学的根拠に基づく栄養学」という言い方は意見であって事実ではない。提唱された時点では、それは明らかである。そのようなものが重要であるということの観察によって得られた実証的なものがなにもないのだから(というのはその提唱の時点より前にはそれ自体の実証はあり得ないという意味でだが、類似の例証はありうる)。


 その言葉の選択が、「人類(ヒト)栄養学」や「人類(ヒト)を対象とした実証的科学としての栄養学」であれば、そうでもなかったかもしれないとは思う。人類やヒトという言葉ならば、自然科学内部における対象の厳密化ととらえて、従来の栄養学の範疇での細分化に過ぎないと考えただろう。現実にもそれらは確かにそのようなものであると考えられるからである。


 だが、そのような選択はなされず、いまあるような選択が行われた。これは歴史であって、そうである限りIF(もしも)を言い立てるのは一種の違反を犯すことになる。つまり、命名の問題を現時点で論ずることは可能だが、歴史として確定してしまった事実を、現時点で問題にするのに適切かどうかということである。確かに科学という営みにおいては、時間(t)は変数に含まれない。2500年前の主張(たとえばアリストテレスの)であっても、時間とは無関係に論じられるからこそ、科学の強みがあるというのも事実であろう。


 それもまた無意味ではないはずだ。というより、実際このページで主張していることの一部は、そのような異議申し立てによる変更が可能だという前提に立っている。


 しかして、また、ここで主張していることの他の部分では、歴史的に確かに存在したそのような主張がその後の混乱のもとになっているのではないか、ということなのだから、時間軸を消去してしまったら話が成り立たなくなってしまう。ここでは、こちら側、つまり歴史ということで話を進めることにする。


 繰り返す。「人間栄養学」や「科学的根拠に基づく栄養学」という言い方は意見であって事実ではない。そう思う理由を以下に述べていこうと思う。


人間栄養学はヒト栄養学と同義ではない



 厳密な論証をここでするつもりはない。結論だけ述べる。人間というのは、わたしの理解するところでは、生物学的な存在としてのヒトと同義ではない。極端な話、ワンダースリーの3人も人間だろうということだ。もっとも、これは飛躍しすぎだろう(ワンダースリーは手塚治虫のSF漫画。主人公の3人はヒトとして生まれ変わることになるが元は宇宙人である)。現実には人間はすべて生物学的にヒトであるといって間違いないわけだから。


 もっと現実的な視点にしぼろう。


 人間栄養学は人間科学的栄養学と同義だとわたしには思える。人間を対象にした科学という観点からみた栄養学ということだ。これの対義語は生物科学的栄養学であり、こちらは生物学的存在としてのヒトを対象にした栄養学ということになる。これは栄養学を医学に置き換えれば、実際にそのような主張が存在する。そこでは、人間科学的という言葉には微妙なニュアンスが加わる。生物科学の範疇に収まらない存在としての人間であり、人間とヒトの差異ということになる。人間とヒトの差異はなんなのかというのは、簡単には定義できない問題だとしても、なにか差異が厳然として存在するのではないか、ということであり、それはわたしだけが感じているのではないということである。


 つまり、ヒトの栄養学を単純に人間栄養学と呼ぶのはおかしいというわたしの主張は、まったく見当違いというわけでもないだろうということである。人間という言葉をヒトと同義として扱うことにしているのであれば論理的に矛盾はないので、どこかで定義されているのかもしれないが、定義の有無に関わらず、以上のことから一般的な認識として人間という言葉を冠するときは特殊な意味合いがあるので、そういう意味合いでない使用法は、特殊な個人(またはグループ)の主張(意見)に過ぎないとと考えるべきである。


科学的根拠に基づく栄養学は矛盾である



 元になったと思われるEBMではMは医療を意味するが、栄養学と日本語で書かれては、それは栄養実践であるというわけにはいかない。栄養学は栄養学である。栄養学は科学の一分野である。医療はそうではない。そもそも、医療行為は科学という概念よりもはるかに古い時代からあり、EBMにおけるMもその流れに沿っていると考えることができる。栄養学はそんなに古い概念ではない。医療とは異なり、科学の一分野である。


 明らかに、栄養学自体が科学であるならば、「科学的根拠に基づく」という限定はなにを意味するのか、ということになる(科学という言葉を削除してもやはり意味が曖昧である)。これは、おそらくこの名称における「栄養学」の定義が一般的な認識からずれているのが原因ではないかと思われる。そういう特殊な定義が、(人間栄養学同様)やはりどこかでなされているのかもしれないが、人間の場合と同じように一般的とは言えず、それゆえに特殊な個人(またはグループ)の主張(意見)に過ぎないというニュアンスを生み出す原因になっている思われる。


 ちなみに、どちらの定義も、わたしはまだ探し当てていない。


2008年04月17日

なかやすみ



 栄養カウンセリングという、これも英語のNutirition Counselingとは少し意味合いが異なる学術領域がある。研究室の書架を整理しているとき、その教科書が目にとまったので、行動変容モデルの説明を探してページをめくっているうちに、エビデンスの有無が気になりだして、それから、突然に「栄養カウンセリング」と「科学的根拠に基づく栄養学」は実は同じもののふたつの顔なのだということに思い至った。


 おなじものというのは、もちろん栄養ということ。二つの顔というのは、実践と科学のペルソナである。どちらにも違和感があるのは、たぶんかなりの人々に認識されていたことだと思うが、なぜなのかはよくわからなかった。それが急に、「わかった気に」なってしまったというわけだ。


 「科学的根拠に基づく栄養学」は、もとになったEBMが実践のための方法論だったのに、なぜか科学の領域での新しい方法論にとどまっているということは、これまでになんども書いてきた。「栄養カウンセリング」のほうは実践活動そのものであるから、科学の領域にとどまることはありえない。それどころか、こちらでは逆に、根拠にまったく触れないのである。たまたま教科書の著者の研究領域がずれているからという理由なのかもしれないが、ほんとうに見事なまでのエビデンス(根拠)の素通りではないか。


 これでは「基礎から実践へ」など単なるスローガンで終わるのも無理はない。お互いに相手を牽制しているのか、拒否しているのかよくわからないが、お友達になりましょうと言っていないことだけはよくわかった(ような気がした)。


 なかやすみなのに、結論を書いてしまったような気がする。とりあえず、言い訳しておくが、研究者はだれでも自分の研究が注目され、研究費が転がり込み、さらに偉くなれるように作文する訓練を積んでいる。作文のうまいものだけが生き残るというのは、さすがにやっかみ半分の戯言に過ぎないにしても。


 ところで、人間社会では、特に政治の場で顕著かもしれないが、公開の場で相手を言い負かした方が勝ちである。面白いと思うのは、そういうことは本質に関係ないはずの科学でも変わらないということだ。もちろん、科学上の議論の真偽の決着は誌上でつけるのだとしても、ここで言っているのは、他の研究者に注目されて良い大学の教授になるという意味の勝ち負けである。当然そのような議論に強いことが極めて有利であり、あとで重箱の隅をつつくような議論で逆転しても意味はないということになる。


 むかし、ボクサーというのは、起きている時はいつでも、どうやって殴れば相手がダメージを受けるのか真剣に考え続ける職業なのだと気付いて、ちょっと恐ろしくなったが、世の中には、どうやって足をひっぱれば効果的に相手が失脚するか、とか大学教授の受けが良くなるかといったことをポクサーのように常に考えている人もいるわけである。ボクサーにある程度の素質が必要なように、ただ考え続けても才能がなければ実現はできないことは当然だとしても。


 それもアリなのが人生というものだろう。なんでもアリなのだ。XXXだって(好きな名前を入れて下さい)そうだったではないか。


2008年04月18日

ダブルA面



 前回、この二つはひとつのもの(栄養)の二つの顔だと書いたし、実際にもお互いに全く関係ないようにふるまっているようにも思えるが、今回書いたことから明らかなように、どちらもそれ自身の根拠ということにほとんど興味がないようにみえるところはよく似ている。これはたぶん偶然ではなく、まさにひとつのものだからだと思う。まるで、それ自身が根拠を必要とするような意見に過ぎないという自覚にも欠けているようにさえ思えるが、もちろんそんなことはないはずである。たぶんそこまでする時間的余裕がないのだろう。


 その真偽はともかく、わたしの「意見」というのは、こうである。


「みんなもっと根拠に耳をかたむけようよ」


 つまり、「どうしてそんなふうに二言目にはエビデンス、エビデンスいうの?」とか、「そのチャフラフスカ(古)のトランスなんたらてなんやの? あんたその眼でみたわけ?」と質問してみるべきだと思うのである。が、わたしも面と向かって質問することは恐ろしくでできなかった。


 というわけで、この小論ができたわけである。


エビデンスを問う根拠はなんですか?



 「科学的根拠に基づく栄養学」が意見の域をでない、ということは個人(グループ)の特殊な主張(意見)に過ぎないという意味である。もちろん、これはこの意見がノーベル賞に値するかしないかとは全く関係がないことは言うまでもない。


 問題なのは、ここで主張されている意見の内容が、「ヒトを対象にした人間栄養学と(著者らには)呼ばれる科学的な栄養学研究の成果(根拠)に基づいて栄養学をやろうよ」だということだ。ここでは、栄養学がどのようなものに基づくべきなのかを主張しているのだが、それは「ヒトを対象にした科学研究」に立脚すべきなのである。


 考えるまでもなく、「科学的根拠に基づく栄養学」が必要だという「意見」は、それ自体も栄養学であるからには含むと考えるのが妥当であるが、「ヒトを対象にした科学研究」に立脚してはいない。「そのエビデンスはありますか?」という言葉がたちどころに飛んできそうなものなのである(ここでいうエビデンスとは当然ヒトを対象とした実証的研究による根拠をさす)。


 別に揚げ足を取っているわけではない。もし「ヒトにおける実証的根拠に基づく栄養実践」と命名されていたとしても、そのエビデンスは当然問われなければおかしいことになる。EBMの教科書には、とりあえずEBMを支持するエビデンスは増加していると書かれている。その真偽はともかく、立場の一貫性はあるようにみえる。


 「科学的根拠に基づく栄養学」の提唱者が主張するように、EBMとは似て非なるものだと考えることが理にかなっているように思えるほど、このふたつの主張は齟齬が多いようにみえるが、なんども書くように、おそらくそこにはもっと深い意図が隠されているに違いなく、筆者のようなウッカリ者にはまったく片鱗さえうかがえないものなのだろうと思う。


 意図を説明してもらえるとみんな助かります(たぶん)。


行動変容理論



 もうひとつのペルソナである栄養カウンセリングの方はというと。


 たとえば栄養カウンセリングの基礎理論のひとつとして一般にひろくつかわれているトランスセオリティカルモデル(行動変容モデル)であるが、これも意見であって、プロチャスカが真理を見出したかのように考えるのは(たぶん)おかしい。手段としてはきわめて有益だと思うが、反論はたくさんあるし、栄養教育という人間科学的な存在を対象にした分野では、社会学における法則の位置付けにならって(といってもこれもヴェーバー社会学固有かもしれない)、目的ではなく手段ととらえるのが妥当だと思う。


 だけど、真理じゃなくても手段に過ぎないとしても、魅力的なものはいくらでもある。ヴェーバーの理解社会学もそのひとつ。というわけで、なんとなくやっと先が見えてきたような気がする。


2008年04月19日

それが意見だという意見(私の主張)のエビデンスはなにか?



 ということを明示できなければ、実証的な根拠に基づく栄養学とはいえないだろう。別に私の主張(意見)がそのような栄養学であってもなくてもかまわないといえばかまわないのだが、いちおう前回までのまとめをしておくことにする。


 「科学的根拠に基づく栄養学」という言い方は、それ自体矛盾していると述べた。それに対する「ヒトにおける実証的根拠」とはなんだろう? 栄養学が科学であるとする限りにおいて、科学的な根拠に基づくのはおかしい、という論理的な反論ではいけないのだろうか?


 もちろん、いけない。実証的な根拠というものが必要だ。それが矛盾しているという実証的な証明がなければ意見は論駁されたことにならない、というのが「科学的根拠に基づく栄養学」の主張だったはずだからである。


 ところで、エビデンスにはヒエラルキーがあるというのは、EBMの主張だが、これは「科学的根拠に基づく栄養学」の提唱者も認めてくれると思う。一例RCTを除けば、RCTの系統総覧(システマティックレビュー)がヒエラルキーの頂点に位置することも同意してもらえるはずだ。最下方には非系統的な観察研究、さらに基礎研究も(それ以外になければ)含めるというのもEBMの了解事項である。


 では、この観点から眺めることにしよう。するとただちに、この私の意見がそのようなエビデンスをまったくもっていないことが明らかになる。確かに私には、自分の意見の実証的な根拠をもっていない。だが、同時にここで批判の対象になっている意見も同様だということも明らかになる。エビデンスのない主張はEBM(とその類似概念)においてはまったく考慮の外である。


 だが、私の意見においては、エビデンスのない主張(意見)を根拠に基づくものと考えるべきではない、というエビデンスのヒエラルキーに基づく判断はしている。つまり、エビデンスのないものは単なる意見として除けるべきだということで、これもエビデンスの一部なのである。


 他方、「科学的根拠に基づく栄養学」においては、それ自体において矛盾があるのだから、エビデンスを主張しようがない。エビデンスというのはあくまでも論理的に考察した場合に意味をもってくるのであって、だからこそEBMは、EBM自体の無矛盾性にこだわるのだと思われる。


 すでに述べたように、これがもし「ヒトにおける実証的根拠に基づく栄養実践」であるなら、EBM同様無矛盾であると(厳密にはどちらも本当に無矛盾なのか調べたわけではないのでわからないが)考えられる。その場合には、EBM同様にそれ自体のエビデンスがあるかどうかの問題になる。こちらならエビデンスは皆無というわけではないだろう。そのような意味でなら私の主張は誤っていることになるが、これはあくまでも仮定の話である。


 現実に主張されているのは「科学的根拠に基づく栄養学」であって、仮定上の「ヒトにおける実証的根拠に基づく栄養実践」ではない。ここで必要なのは、「科学的根拠に基づく栄養学」がそうでない栄養学に比べてよりよい解であるというエビデンスである。ただし、ここで無限定にもちいた栄養学というのは、元来ヒトにおける実証的な研究も含む栄養学全体を意味することを忘れないでもらいたい)。


 冗談をいってるのかって? わかりますか。そのとおりこの節はただのジョークです。EBMでは、「神に祈りを捧げることの治癒における影響」というような研究が複数あり(系統総覧まで出ている)、神様よりもヒトにおける実証的根拠、なのである。例外は存在しないらしい。


その意見についてのエビデンス(事実)とはなにか?



 しかし、そうやってエビデンスのないことを論(あげつら)うのはあまり建設的なことではない。おかしい点が多々あると思えるにしても、すでに歴史的に確定しているこの概念を単に捨て去るというのはもったいないことである。もっとポジティブな方向で考える方が、時間(過去の、そして今この時点での)を無駄にしないためにも有益だと思う。


 次回は、それを試みる(エセー)ことにしようと思う。


2008年04月20日

その意見についてのエビデンス(事実)とはなにか?



 エッセイの語源は、フランス人のミシェル・ド・モンテーニュが、自分の著書を「エセー」と命名したことに始まる。『エセー』は現代日本のエッセイとは少なからず異なるようにも思えるが似ている面も確かに存在する。自分のことしか語らないというポリシーにもかかわらず他人のエピソードばかり語っているところはそうかもしれないかな(冗談です)。日本には枕草子もあり徒然草もすでにあったはずだが、西洋にあってはたしかに試みだったのかもしれない。


その意見についてのエビデンス(事実)とはなにか?



 わたしは別に「科学的根拠に基づく栄養学」を全否定するつもりは毛頭ない。もし読者が(いるならば、だけど)そういう感想を持たれたとしたら心外である。それが「ヒトを対象にした実証的根拠に基づく栄養実践」のことであるならば(実際そのつもりだと思うのだが)、それを積極的に推進すべきだと思うし、現実にもその方向で推移しているとは思っている。


 ただ、「科学的根拠に基づく栄養学」という言い方は、誤解を招くと思うだけである。健康食品で有名なある先生は、実際に科学的根拠を説明するとき、動物実験や細胞レベルの実験は、科学のなかでも根本原理を探求するという方向での正当性を認め、他方ヒトを対象にした実験や観察研究は、応用分野において(ということは実生活にも)特に重要性が高いと主張する。これは一種の折衷案だとは思うが、多くの栄養学研究者が漠然と感じている「科学的根拠」に対する違和感を説明するものだろう。


 英語では、Science-based nutritionという言い方がある。これが上記の先生の考え方、ひいては多くの栄養学研究者の抱く「科学的根拠に基づく栄養学」のイメージだと思う。


 実のところ、わたしもずっとそのように漠然と考えてきたひとりであるが、ここではもっとポジティブな議論をするつもりだと書いたので、そうしてみることにしよう。つまり、「科学的根拠に基づく栄養学」というのは、ヒトを対象にした人間栄養学を意味するということを前提にしてみよう。


 人間栄養学も用語としてはおかしいとすでに指摘したが、とりあえずここではヒトを対象に限定した栄養学でいいことにする。


 そうすることで、なにが明らかになるのだろうか?


 とりあえず、栄養学というものが、佐伯博士が提唱して以来、ヒトを対象にした栄養問題を解決するための応用科学であることは前提としてもいいだろうか。動物実験しかしない栄養学者は多いとしても、彼らの念頭にあるのは、栄養学、つまりヒトにおける栄養問題であるはずだ。確かに世の中には動物栄養学も存在するが、ラットやマウスを用いた実験の大半はヒトへの応用を念頭に置いているということである。


 単純なはなし、ヒトでの実験というのは倫理的な問題があり、限られているので、極端な事例はなにか事件でも発生した場合でなければ得られないことが多い。したがって、多くの安全性(毒性)に関する知見は、動物実験の結果(と例外的なヒトでの事件)をもとに組み立てられている。論理的に考えるなら、(それ以外の化合物に比べて安全性が高いと考えれられる)栄養素についても、そうなるはずだ。栄養素の欠乏状態や過剰状態をヒトで実験することは倫理的に許されないからである。


 たとえば、ビタミンのサプリメントの例が現実に存在する。実際にはいまでも多くのヒトがサプリメントを服用していると思うが、ヒトを対象にした実験的研究から、いくつものネガティブな結果が得られているのは周知の事実である。そんな結果が得られたらもうそのような実験はよほど慎重を期さなければできなくなる(実際そうなっている)。


 ヒトで実験ができないならば、動物や細胞を用いるほかないと栄養学者は考えるだろう。人間栄養学者もそうだろうか? それとももう実験(介入)はやめて観察だけをすることにするか、あるいは事件が起こるのを待つのだろうか。だが、常識的に考えるならば、事件が起きるまで待つなんてもってのほかだし、だまって観察している場合でもないのではないだろうか?


 それとも、それらは科学的営みの現時点での暫定的な結果に過ぎないとして、早急な判断は控えているのだろうか? あるいは(こちらのほうがありそうに思えるが)、科学と実践は別物であり、「科学的根拠に基づく栄養学」は栄養学(つまり科学)だから、その結果とそれに基づく実践とは関係がないと思っているのだろうか? 科学と実践が別物だというのはそういう意味ではないと思うのだが。


 予想はしていたが、今回もまったくポジティブになれなかった。つもりとしては、そうではなかったのだが。


 次回こそ本当にポジティブに論を展開しよう(ほとんど冗談にしかなってないって? いや大真面目なんです。ほんと)。


2008年04月21日

健康情報をどう読むか



 科学的であろうとするあまり、ターゲットそのものを科学の内部においてしまって、まったく実践領域につながっていかない構造を(たぶん)意図的に作り出している理由がなんなのかは、よくわからない。理系の大学院にはときどき科学原理主義者と呼ぶしかないような院生がいて、法則それ自体を目的として追求すること以外に意味ある行為なんて存在しないと主張していたりするのだが、「科学的根拠に基づく栄養学」の場合は、科学といってもヒトしか相手にしないというのだから、そういうわけでもなさそうだ。


 これと似た例として、健康情報の読み方に関するものがある。こちらの場合は、科学の内部で自己完結してしまっているところは同じだが、それがあたかも実践のための方法論であるかのようにみせる技術にも長けている点がすばらしい。要点は「著名な医学雑誌に掲載されたヒトを対象にした実証的研究以外は無視すれば良い」というわずか一行でまとまってしまうものだが、提唱者の手にかかると、6段階にわたる高度なアルゴリズムらしきものに変身する。


 もっとも、これはこれで、健康に蘊蓄を傾けるのが趣味の(つまりこの提唱者と同じ精神の)ヒトにとっては、福音かもしれない(実際ネットでそのような引用が目につく)。結論から先に述べてしまっては身も蓋もない。酒の肴にもならない。


 普通、段階的なアルゴリズムというのは、終りの方からでは意味をなさない(だからこそ段階を踏む)ものだが、このアルゴリズムは、最後だけ(つまり複数の研究で支持されているか、という)でも実際には充分なのだ。それではヒトを対象にしているかどうかの判断がないとおもわれるかもしれないが、ヒトの健康というような生物学的にみたらずいぶんと大雑把なテーマに関して複数の研究で支持されていることで、その関門はたぶんクリアしている。まあ、厳密にいえば、そうとはいえない例もあるだろうが。


 こちらも実践のことなど本当は考えていないし、したがって実践のための方法論などではない。せいぜいオタクのためのネタという位置づけだろう。研究者はいつもこんな面倒な判断をしているのだなぞと書いているが、実際には、アルゴリズムの終わりのほうから「けっ、ヒトじゃねえじゃん」といって大半の研究を無視しているだけに決まってる(単なる推測ですが)。


 実例に「離れた場所での祈りの効果」を取り上げていることの是非はもう問わないことにするが、全体を眺めてみると、この提唱者が、祈りのEBMをトムヤンクンの動物での効果よりも上位の研究と考えていることは明らかで、ちょっと憂鬱な気持ちになってしまった。なんでも書いてしまった者勝ち、言ってしまった者勝ちである。天然でなければ生き残れない業界かもしれない(もっともすべての業界がそうか)。


2008年04月24日

栄養実践など存在しない?(承前)



 眉村卓のライフワークともいうべき連作は、ずいぶん前に書いたように、「(承前)」という言葉を知った最初の(そしていまのところ最後の)実例である。にもかかわらず、実際にはひとつかふたつ短編を読んだだけで、SFマガジンに連載されていた肝心の長編は読んでいない。たぶんその掲載号すべてが生家に今でも残っているはずだ。どうして数日前にいきなり眉村卓がでてきたのかの注釈。とりあえず。


法則と規則は手段であること



 経済学と社会科学。EBMは科学の厳密性、客観性を取り入れながらも自然科学とはいえない部分を多く抱えているという意味で、経済学に近い?


トムヤンクンは無視しても良い?



 本当は、続きとしてフードファディズムに対する柄本批判を紹介しようと思っていたが、それはまた後日。


 価値判断について、ヴェーバーは、認識論的なものも倫理的なものも同列に扱っているのだが、それはつまりRCTの系統総覧を上位に置くEBMのヒエラルキーも同列だということである。簡単にいえば、トムヤンクンの実験を下位に置くという研究上の価値判断も検討課題のひとつになるということだ。昨年ある報告書で、ウェーバーの価値判断論争をEBMと類似のものとして考えてみたが、そうではなく、もっと徹底して考えなければいけなかったのだと今になって急に思えてきた。


 エビデンスのヒエラルキーも、確立した価値観とみなすべきではないということである。しかし、それではEBMはどうなってしまうのだろう? さらにEBMから分派したと思われるEBNは? それらをラベルとして価値判断してしまうこともやめなければいけないということだろう。


 しかし、さすがにそこまでいくと、もうぜんぜん栄養学ではなくなってしまうような気がする。やはりどこかで踏み止まるのが現実的ではないかとも思う。


 さて、どうしようか


2008年04月25日

装(よそお)われた客観性



 たぶん、本当の問題は、そういうことではないと思う、というのが隠れた結論だが。


 わかりやすいのは、テレビの健康情報番組である。専門研究者がみれば(みなくても)すぐにわかるようなレベルでの欺瞞に満ちている。恣意的に選んだと思しき対象者の見違えるような成果、というような類のもので、たとえ乱数表をもちいて厳密に対象者を選んだのだと仮定しても、(それまでの研究者の知識からすれば)驚くほかない結果が堂々と発表される、というような。


 実際、その手の番組(のある特定のもの)においてねつ造が繰り返されていたということが明らかになっているし、そうではない良心的な番組も現実には存在するのかもしれないが、一時間ほどの枠のテレビで伝えられる情報だけで、新しい発見をまったくの素人である視聴者に納得させるには、どうしてもなにか仕掛けが必要になる。学会でそのような新奇な発見を聴衆(つまり他の専門家)に納得させることを考えれば、その困難は明らかで、議論噴出になってだれも納得しない状況になる(可能性が大きい)のは目に見えている。


 それが科学の動力学(ダイナミクス)であるということを、現実に学会のその場にいる研究者は理解している。それでも科学は今までも進歩してきたしこれからも進歩するだろうというオプティミズムがそこにはあるからだ。毎日実験にいそしむ研究者にとって、分単位で進行する学会の時間は短すぎるというのは重々承知の上である。それゆえ、ほとんどの参加者(研究者)には、前提となる事柄が完全に理解されている、という前提のもとで発表者はプレゼンをするわけだ。細部はあとで論文になったときにチェックしてもらえば良いのである。学会発表は、そのためのひとつの準備、他の研究者にアピールすることと反論を確認する場だからである(反論のリストを作らずに発表する研究者などいるわけがないので、予想できなかった反論がひとつでもあれば貴重な収穫だ)。


 現在では、ほんとうにその分野の専門家でなければなかなかツッコムこともできないほど専門分化はすすんでいる。それは栄養学の専門家という大雑把な括りではなく、たとえば、私が多少はかかわってきた分野でいえば、卵の主要アレルゲンのひとつであるオボアルブミンの抗原性が熱変性によってどのように変化するのかを先行論文によって把握していなくてはならないというような専門性であって、そのようなことを栄養学の他の分野の研究者が完全に把握していることはまずあり得ない。


 それを一時間のテレビ番組で何も知らない視聴者にほんとうに納得させることなどできることではない。


 その結果、テレビで流されるものは、視聴者が納得できるものになってしまう。元の研究では、素人を納得させるには至らなかったとしても、テレビに現れるときは不思議とそうなっている、という構図ができあがってしまう。ねつ造事件は、それをうまく処理できなかった場合の端的な例なのである。


 だが、テレビの例は、研究者の仲間内では、とりたてて話題にすることもないほどありふれた欺瞞である。


 本当に問題なのは、専門家でもうっかり見過ごしてしまうようなよそおいなのだ。


2008年04月28日

近親憎悪ですか



 私の勤めている研究所の開所式に招かれた来賓の役人が、「このような研究所は無用」と発言したという風説がまことしやかに語り継がれているが、この伝統(?)は、今も続いており、たった4か月ほど前にも、時の大臣が「(この)研究所は廃止」と断定的に発表した。


 翌日、隣の研究所の事務官が「可哀そうだねえ、どうなっちゃんだろうねえ。いや、大変だ、まったく、大変だ」と、わざわざ言いにきた。顔を見ると心の底から笑いだしたいのを必死でこらえているのがわかる。実際あまりにも露骨だったのでかえって別の理由を疑ってしまったほどだった。


 どこの世界にも弱い者いじめが好きな輩というのは存在するので、私の周辺が特別というわけではないだろう。こういう場合、本当にいじめようと思っているのは表に出ない「影」の人物で、その発言を深く考えないで実行するのは「善意の」というか何も考えてないその他大勢であるというのが相場である。どうしてそれが相場なのかといえば、弱い者というなにか絶対的な弱者が存在することはほとんどありえないからである。だれか(「影」の人物)が、いじめたい誰かの弱点を探すというのが出発点になる。弱い者が自ら弱点をさらすことももちろん多くあることだろうが、この場合「善意」のその他大勢はむしろそれを庇うだろう。そこに「影」の人物がツッコミを入れるのがイジメのきっかけになるわけで、もちろん「影」の人物は狙ってやっているのである。


 とりあえず、廃止というのは誤報(「廃止もしくは他の研究所と統合」発言の後半を新聞記者は平気で落としたわけだ。聞こえなかったと言い訳するのだろう)だったが、相変わらず私の勤めている研究所はイジメにあっている。これをまともに受けていじめられているなどと言っても、親も教師も真に受けてくれないし、当のイジメの加害者のエンドルフィン分泌を促進するばかりである。


 かといって、まともに議論しても無視されるだけ(8年前に実際、された。わたしではないけど)。こちらを無視していると思うだけでまたエンドルフィン出まくりだったのかも。


 なので、いまさら無駄とはおもうが、一応従来の見解を書いておくことにする。なんのことかわからないように、だが。


 教会があるとしよう。たとえば、東久留米に「聖ガンダム教会」が、そして隣の清瀬には「聖ガンダム教会清瀬分室」があると。


 さて、東久留米の「聖ガンダム教会」には、東久留米で細々と暮らす「パリサイガンダムびと」がいて、その人々も礼拝には聖ガンダム教会以外に行くところはなかった、という状況である。


 問題は、親教会である「聖日本アニメ教会」が、教会は個別に上納金を納めろと言ってきたことから始まる(ここまで書いてある政治団体を思い出したが、この話は共産党にはなんの関係もない)。


 さて、個別の教会とは、何を意味するのか。


 別にむずかしい話ではない。教会という特定の土地に建設された建物が、教会数把握の目安になる。他の指標は難しいけれど、実際に立てられている教会堂の数なら間違いも少ないはずだ。目に見えるのだから。


 簡単に言えばこれですべて。


 東久留米の「聖ガンダム教会」にいた「パリサイガンダムびと」はどうなったのかって? どうにもならない。彼らは東久留米の「聖ガンダム教会」に実際上所属しているとみなされたわけである。したがって彼らも信者の数に入ることになる。


 他方、清瀬の「聖ガンダム教会」の信者は、そちらで別にカウントされるというわけだ。


 確かに、このような数え方には明らかに問題がある。清瀬だろうとどこだろうと、「聖ガンダム教会」の信徒には変わらないし、東久留米にいても、そこしか事実上居場所がなくても、どうして「パリサイガンダムびと」が「聖ガンダム教会」の信徒なのだろうか? 教会が二つの看板(祭壇)を掲げるなら事情は違ったかもしれないが、だれがどこから見ても教会はひとつしかない。正確にいえばパリサイガンダムびとは信徒というよりは、単に存在してないといったほうがわかりやすいかもしれない。


 この数え方は地理上の物理的な(つまり目で見て数えられる)存在を基準にしているというだけのことだけれども、どうやら善意の「聖ガンダム教会」信徒にとって、清瀬の信徒が別扱いで「パリサイガンダムびと」が一緒(単に存在していないだけなのだが)というのは、死ぬほどの屈辱だったということなのかもしれない。他人の気持ちはよく分からないのでただ推測するだけだが。


 もっとも、実際にはこれほどすっきりした話ではなくて、「聖新日本動画教会」は、清瀬も含めて「聖ガンダム教会」ひとつと考えたりするから難しい。じゃあその場合、「パリサイガンダムびと」はどうなるのかというと、やはり「聖ガンダム教会」のうちなのだ(というか、この場合も存在していない座敷童子である)。


*文中の固有名詞はもちろんすべて架空のものです。念のため。


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