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2008年05月 アーカイブ

2008年05月07日

相手はだれなのか



 エビデンスに基づく医療を行うのが医師以外のものであることは考えにくいが、エビデンスに基づく栄養学を行う主体は明示的に定義されていないのであれば栄養学関係者すべてということになる。実際にするしないではなくて、行うことを想定されている主体という意味で、である。


 現実に、EBNの提唱者らが、主体を栄養学関係者すべてと考えているらしいことは、想定された反論に答える形式で書かれた小論から明らかだと思う。同時にこの小論は、関係者を職種別に問答を分けて書いているため、著者が栄養学と個々の職種の関係をどのように考えているのかも示唆してくれる内容となっている点で興味深い。


 (反論に対する反論の)著者は、(元)反論の引用をしていない(短いから?)ので、その内容がどのていど現実の反論に基づいているのかは確かめようがない。引用がなければ、著者が仮に医師で栄養疫学者だった場合、医師の反論というものと、基礎動物実験栄養学者や栄養士の反論というものが、全く同じレベルであることはありえないので、小論全体の信頼性は著しく低下する。


 例えば(医師でも栄養士でもない)私が、女性の管理栄養士の意見として「彼は男性原理に従って栄養士を医師(通常男性)の下に位置づけて論を組み立てている」という反論があると、ここで紹介するなら、文献を引用しないかぎり、それは私の意見(ということはただちにねつ造を意味する)ということになり、エビデンスは存在しないことになる。「彼は男性原理に従って栄養士を医師の下に位置づけて論じる野郎だ」という男性薬剤師の意見もある、と紹介すれば、私が男性薬剤師であるという事実によって、エビデンスになりうる(でも厳密には出版されなければだめだ)。


 もちろん、それは反論の内容そのものとはなんの関係もない。それどころか実際にはひとりの著者によるそれらの(作られたと思しき)反論が、的確に現実を反映している可能性も低くはない。そういうレベルの議論はある。でも、ここではエビデンスに基づくXXXの議論の場であるから、そんな全く実証的でない妄想は問題外なのである。


 ちなみに、この著者は、食育といえば英語ではdietary educationであると簡単に断言して、それ以後dietary educationだけを問題にしたりするので、あまり日本語のニュアンスにこだわっても無意味な気がする。おそらく日本語ネイティブではないか、ニュアンスがわかるほどには日本語を理解できないのだろう(というくらい割り切りが良すぎるのだ)。


 というわけで、ほんとうの相手はだれなのだろうか? ってマジになってどうする。


2008年05月09日

相手はだれなのか(承前)



 EBNの提唱者は、栄養士はアートの部分を、EBNはサイエンスの部分を、とはっきり言い切っているので、EBNを実施する主体が栄養士でないことは明らかである。主体となるのはもちろん医師である。


 その結果として、栄養士が担当する部分は、EBNが科学的根拠に基づく栄養学という日本語訳を与えられているために、科学ではないことになる。これは単なる言葉の綾ではないと思う。アート(Art)というのは芸術、せいぜい技芸と日本語でいうレベルの活動を指しており、サイエンスの対義語として使われているので、Art of Scienceという意味でもない。


 また、この明言によって、EBNがサイエンスであると規定されていることがわかる。これは明らかにEBMとは異なるものだと私は思う。実際それがEBMとはかなり異なるものであることは、EBNを実践栄養学の基礎理念と位置付けていることからも明らかである。私の理解するところでは、EBMというのは基礎理念というよりは医療実践そのもののひとつの在り方であって、少なくとも「基礎」概念の範疇には収まらない。


 要するに、医師が医療実践のひとつの形としてEBMを提唱したことを真似て、EBNと言ってみたけれど、栄養実践をしたこともなければ、今後する予定もつもりもないので、方法論もなにもあったものではない。とりあえず、EBMの重要な一部として疫学研究の実践的評価というものがある。EBMの提唱者らは、その具体的な実戦応用における多様性を医師の経験や個性にまかせることで、EBMを個々の医師が自分のものとして実践できるような形式を作り出したので、その前提になる疫学研究の実践的評価を医師が積極的に取り入れる素地ができた。


 ところが、EBNの提唱者が書いたものを読む限り、栄養実践の主体を担うと想定される(管理)栄養士は、サイエンスの部分に関与しないのである。


 確かに理想的な形態としてEBMを実践する現場の医師も、エビデンスのサイエンスとしての評価にあまり煩わされないことが実用的であるように考えられていることも事実であるが、それでも現場の医師はEBMに基づいて作られた医療ガイドラインのような一種の規範についても、かなり本質的な判断を要求される(と教科書に書いてある)。


 EBNにおける栄養士は、まったくそうではない。というより、そもそもEBNは、そのような議論をする概念ではないのである。EBNの提唱者がEBMとは異なるというのは、全く正統なことなのだ。それは名称だけ似せたまったくのべつのものである。まるで相対性理論のあとにでてきた相対(あいたい)会みたいなものなのだ(というのはもちろん極端に過ぎるとしても)。


 栄養士が知りたいのは、たぶん次のようなことではないか(私は栄養士ではないので推測するだけだ)。


 あなたは、自分の責任逃れのためにわざと曖昧にしか発言しないのではないか? 科学的であろうとしているのだ、というのはただの言い訳なのではないか? 問題は、目の前の対象者に具体的になにかをしなければならない、ということなのだけれど。


 もっとも、こんな質問に真面目に答えることが、いかに非科学的であるとか、EBNと異なるとか、私でもいくらでもその理由を出して正当化できそうに思えるので、あまり意味はない。世の中は論理でも倫理でもなく、言い負かすことがすべてなのだから。これは政治であるけれど、政治でない人間社会の営みなどあるのだろうか?


2008年05月12日

書評:柄本三代子著『健康の語られ方』(青弓社)



 本書は、栄養知識が社会にどのように受け入れられていくのかということを主としてテレビの健康番組を中心に考察しているが、科学的根拠という言葉を曖昧に使っているせいで、議論がわかりにくくなっている。


 特に、第5章(p.192)の、EB言説とそれ以外のものは、権威の間の論争に過ぎないと言い切っている部分は著者の完全な誤解だと思う。私の理解では、EB言説は決してそれ以前の権威に対立するものではなく、「最近は動物実験でわかったいろいろなことをヒトで証明する方法論とその結果の論文が増えてきたから、そろそろそういうヒト論文を中心に栄養学を見直す時期でしょう?」と提案しているだけなのだ。


 明らかに、ヒト論文だけを取り上げてそれ以外を存在しないかのように扱うのであれば、そんなものは科学とは無縁だと言い切れるが、EBNの提唱者であるS博士は、そんなことを提唱しているわけではない(はずである)。


 ところが、例えば東北大のT博士のように、細胞実験や動物実験であれば、それだけで「人間に当てはまるとは限らないので保留して聞いておく(終わり)」と言い切るEBNの関係者もいるという事実が事態を複雑にする。


 どうして最後にわざわざ「(終わり)」をつける必要があるのか(すべての判断について否定の場合にはこの「(終わり)」がついている)と思うが、これはあえて言葉にするなら、「中断しろという強い意志」を表している。例えばトムヤンクンががんに効くかもしれないという新聞記事が、ラットを用いた実験結果にもとづくことがわかったなら、それ以上の思考をその場でただちに中断しろという意味だ。


 この、「人間に当てはまるとは限らないので保留して聞いておく」と「(終わり)」の連結には、とても居心地の悪い嫌な感じを、当時受けた記憶がある(今でも嫌な感じがする)。


 確かに、T博士が言うように研究者は多くの判断を重ねて論文としての質を判断するし、さらに内容について吟味を重ねる。それは本当なのだが、現実には動物実験ばかりしている基礎栄養学者の場合、「人間に当てはまるとは限らないので保留して聞」きながら、それがどうして人間にあてはまらないのか、追試実験ではどうすればもっと人間にはまるのかを考え続ける可能性が高く、終わるわけではない。疫学者(私には経験がないので間違っているかもしれない)は、それをどうやったら人間で証明できるかを考え続けるので、やはり終わらないだろう(人間という単語は引用元の使用法を踏襲した。生物学的な存在としてのヒトをここでは意味している)。


 現実にはさらに多くの条件分岐がでてくるわけだ。


 明らかに、EBN的には、このように多くの条件分岐を想定する方向で判断を行うことが、「正しい」方向性だと思う。なぜなら、EBNは栄養学であって科学なのだから、判断停止に陥るようなフローチャートでは意味がない。


 ならば単なる素人向けの意見なのだろうか? まあ、意見であることは明らかだが、素人向けの判別法としてもどの程度の有用性があるのか疑問である。


 その理由を説明すると長くなるので、いまはやめておくが、端的な例として、祈りの遠隔作用に関する無作為化偽薬対照試験(RCT)、というナンセンス(その説明も長くなりそうだから、ここではしない)を嬉々として紹介する姿勢だけを見ても明らかだと、これは個人的な意見だが、思える。


 祈りの遠隔作用というのは、要するに病気のヒトを救いたいと祈る気持ちには、実証的な効果が存在するのか、ということである。驚くべきことに、RCTのシステマティック・レビューまで存在して、肯定的な結論を示唆しているという事実があるが、遠隔作用といっても、重力のようなものとはまったく違う。テレパシーの同類と言い切っても差し支えない。テレパシーとの違いは、ただ神が介在するかどうかが異なるだけ、というか、そもそもテレパシーも祈りも、厳密な科学的定義など存在しないのではないか。


 こういう研究を紹介するということは、なにかのウケを狙っていることが明らかであって、そういうことなら話半分に聞いておく必要があるのも明らかなのだが、T博士の人徳なのか、これ以外には情報の判断法が存在しないと大真面目に言われたこと(しかも複数回。いずれも健康情報を発信する要職についている人物の発言と聞いた)もあり、ちょっとショックだった。


 もっとも、原理的に、RCTは作用機序を問わない(問えない)し、ヒトで実証されたか否かだけを判別するものだから、ほかにも多くの疑似科学的研究が存在する。正直なところ、私の主張はあまり説得力がないかもしれない。というのは、ヒトでの実証研究でポジティブな成果が複数得られれば、それはEBMとして有意義だけでなく、科学的な価値がでてくることになる。


 ……などと、まさか本気で主張しているわけではないとは思うのだが。


2008年05月18日

エンパワメントにはほど遠い



 最近、批判的なことばかり書いているが、そういうものが、エンパワメントということからもっとも遠いところに位置するものだというのは、たぶん正統な批判である。少なくとも、最近の記事でエンパワメントされるヒトがいるとはとても思えない。


 別にエンパワメントの実践をここでしているわけではないから、それでもかまわないのだけれど。


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