科学も価値観にしばられる
という意味のことを、ある講演会で述べた。講演後、座長(司会)の先生がそれに触れ、思いがけない展開という意味の発言で締めくくったので、説明不足だったと後悔した。
でもその時、私の前に発表した先生が、私の講演後はなぜか視線を合わせなくなって、帰る時も一人でさっさと去っていったのは、次の予定が詰まっていたからだと思いたい。
科学が価値観にしばられるというのは、簡単な話で、たとえば典型的な例として、システマティック・レビューに対するナラティブ・レビューというものがある。ナラティブ・レビューというのは研究者の間でもふつうは使わない言葉だと思う(おそらくシステマティック・レビューの実践家らの言い方なのだろう)が、要するに従来のシステマティック・レビューではないレビュー(総説)すべてを指す言葉のようだ。私が読んだ説明にはそう書いてあった。
それをなんと呼ぶかは、ヒトによって異なるようではあるが、システマティックとそれ以外という区別自体には異論はない。そして、まさにその区別の存在することが、科学も価値観に縛られるというひとつの例証だと思うのである。
システマティック(系統的)なレビュー(総説)には、ナラティブ(ナレーション的)・レビューにはなかったいくつかの特徴があり、それらは従来のレビューを脱却して、より科学的というか客観的なレビューを構成するためのものだと私は理解している。つまり、ひとつはシステマティックな文献検索とその再現性確保(科学は重要な方法論)のためにその道程を詳細に記すこと、もうひとつはエビデンス・テーブル(証拠表)と呼ばれ、個々の文献の特徴を表の形でまとめたものである。さらに進んでメタ(形而上)・アナリシス(分析)という方法も使われるが、これは発展形として別物とするのか、あくまでもシステマティックの一部なのか、私にはよくわからないが、とにかくそういったいくつかの特徴がある。
システマティック・レビューやメタ・アナリシスが、より科学的、客観的な方法かどうかは、ここでの議論では問わない、というかどうでもいいことである。
システマティック・レビューが科学的、客観的な方法であり、ナラティブがそうではない、という一部の栄養疫学者の主張が本当なら、いまでも医学生物学研究のレビューの多くがナラティブであり、それは科学的、客観的ではないということになるが、それもここではどうでもよい。
問題なのは、システマティック・レビューが常に理想的なものにはならないようだということである。理想的かどうか、優劣がつくというのは、考えるまでもなく、価値観の反映である。システマティック・レビューという科学的、客観的なものを目指してナラティブを克服したものであっても、そうやって価値判断の対象になる。つまり価値観にしばられるわけである。
もちろん、ナラティブのほうは、そういう呼び方自体が恣意的なものという含意を持つのが明らかであり、現実には特にシステマティック・レビューと異なるわけではないと個人的には考えている。
しかし、この価値判断は論理学上のものであって、善悪のような倫理的なものとは異なるという意見もあるだろう。
これに対する反論は簡単だ。例えば、だれか著名な先生の講演会に行ったとしよう。別に著名でなくてもいいのだが、その先生が、自分の講演に含まれる科学的知、客観的知について、システマティック・レビューのような客観性を立証するための議論をすることはない(少なくとも私自身は聞いたことがない)。
個人的には、あるニュースをとりあげ、それ以外は取り上げないことで、私自身は強く価値観にしばられ続けている。科学的であるためには、ランダム化した複数のサイトから抽出したニュースを、さらにランダム化して提示しなければならない(そういえばレビューでも、年代順や著者名順にエビデンスを並べるのは、科学的ではないかもしれない)。
とはいうものの、こんなことを面と向かって肯定する研究者はまずいない。私自身も例外ではなく、言い訳するだろう。まあ、私の場合は、それ以前に、そもそも科学ではないという前提があるだけ気分は楽かもしれないけれど。