根本的というよりあまりにも初歩的なことなので、だれも書かないし話さない話題がある、と思うが、それは私の勘違いかもしれず、そんなことをここで書いて無知を晒さないほうがいいのかもしれないが、その話題というのは、科学的根拠というものに関連したものである。
つまり、誰か(例えば患者さん)を治療したり(薬剤師なら投薬したり、栄養士なら栄養指導したり)するときに、その実践行為は、ヒトとヒトの関係でなりたっていると思うのだが、その関係が、科学というもので一律に計算されてでてくるのは、やってる本人が嫌なんじゃないか、嫌じゃないとしてもとっても非人間的と呼ばれてしまうような行為なのではないか、ということである。
実践行為に頭を使うのが面倒だというのは、よくわかる。マニュアルに書いてある通りにするのはとても楽だし、そもそも相手と人間的に交わりたくないときには、そのほうが気分も良い。ハンバーガーショップやコーヒーショップの販売員ならだれしもそう思って悪いことはないだろう。
でも、今話題にしているのは、そういう場所でのことではないし、話もそんなに単純なものではない。
例えば一日三食が「良い」という科学的根拠を教えてほしいという質問を受けることがある。その答えは、朝食を食べるべきかという質問同様、そもそも科学の範疇では答えられないと思うのだが、仮にきちんとした根拠があったとしたら、その質問をした人は、その答えをどのように使うつもりなのだろうか?
現実には、そのような「科学的な」根拠が仮にあってもなくても、そのことだけでは実践行為は決定されないだろう、と私は思う。つまり根拠から計算されて一律に出てくるものなどありはしないということである。
だから、そもそも科学的な根拠に基づいて自動的に指導内容が決定されてしまうような非人間的な状況は起こりえないと思うのだが、問題はそれを望む気持ちのほうである。まさか自分がロボットのようになりたいという願望の現われなのだろうか?
確かにバーガーショップで客の注文に、笑顔で「フライドポテトはいかがですか?」と、それが決まりになっているように、一日三食規則正しく食べていない患者に対して、「一日三食は科学的にも良いことが証明されているんですよ。だからそれに従うべきですよ」と追加することがマニュアル化されるのであれば、負担は軽減されるかもしれない。
でも、それでは、相手の人生を科学で切り捨ててしまうことになりかねない。はたして科学はそこまで人生に切り込めるのか、それを現実に対話で伝える専門職は、負担が軽減されて喜んでいるのか、それとも科学と実践のギャップにかえって悩んでしまうのではないか、私には悩んでしまう確率の方が高いのではないかと思えるのだが。
おそらく、現実にそのようなギャップに悩むからこそ、ことさらに科学的根拠を求めるということになるだろう、とも私は思う。
私の個人的な見解としては、科学は、決して実践を演繹的に導けないので、そのギャップは根拠をどこまで突き詰めても埋めようがないが、一般的な見解として、科学は実践の文字通りの「根拠」であるはずなので、実践を演繹的に導けるはずなので、根拠を求める方向にいってしまうのだろう。
もっとも、これは二つの点で誤りであると思う。
まず第一には、上に書いたように科学は決して実践を演繹的に導けず、そこにはギャップが残されるということ。
そして二つ目としては、最初に書いたように、たとえギャップがなかったとしても、それは科学に依存して実践行為を行うことが正当化されるものではないということである。それは科学が無前提に正当化されることがあり得ない以上当然の帰結である。
無前提に正当化されないものをどうするかといえば、ここで、まさに科学的根拠を持ち出して実践を行う場合をこの事例に当てはめてみれば良い、というか、当然あてはめてまず最初に考えるべきだろう。
根拠に基づいて何かをしようと主張する人には、その行為を正当化するための根拠が必要ではないだろうか? だとしたら、その根拠とはどのようなものなのか?
だれにでもありがちなことだが、言ってる当の本人だけは自分の行為が、自分の発言の対象には入らないと信じていたり、入っていることは自覚していても、当然のように特別な例外(だってオレ様の発言だぜ)だとやはり信じ切っているような事例が、どこにいってもまま見られるように思う。
こういう事例は本人は気付かないことが多いので、他人から指摘される必要があるのかもしれない。(指摘してください。お願いします)