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2008年11月 アーカイブ

2008年11月09日

牧村先生



『ハヤテのごとく』より引用。



局長(碇指令のポーズで)「7号、8号、9号…、10号、11号、そして12号…。どの機体も暴走、あるいはそれに類する理由で大破炎上…。これを見てどう思うかね? 牧村君。」


牧村(胸に手を当てて)「えっと…。火力が足りない?」


局長「これ以上、爆破してどうする気だー!!!」


牧村(頭を抱えて)「はうう~~!! ごご、ごめんさなさーい!!」


局長「牧村君!! 君は科学者にとって何が一番大事か…、わかっているのかね!?」


牧村「科学者にとって一番大事? えっと…開発費?」


局長「違う!!」


牧村(おそるおそる)「じゃあ、お金?」


局長「同じだ!! もっと根本的なものだよ!! 根本的な!! モノを作る上で人として大事な…、こう…!!」


牧村「人として………。大事…? あ!! わかった♡ ケーキ!! ケーキですね!! 甘いもの!! 頭に大事だから♡」


局長(爆発)「『心』だ―――!!」


牧村(頭を抱えて)「はうう――――――!!」


(『ハヤテのごとく』、第7巻、87-88頁、2006年、小学館)



シャレになってないって? ヲイ…


2008年11月14日

その話題というのは



 根本的というよりあまりにも初歩的なことなので、だれも書かないし話さない話題がある、と思うが、それは私の勘違いかもしれず、そんなことをここで書いて無知を晒さないほうがいいのかもしれないが、その話題というのは、科学的根拠というものに関連したものである。


 つまり、誰か(例えば患者さん)を治療したり(薬剤師なら投薬したり、栄養士なら栄養指導したり)するときに、その実践行為は、ヒトとヒトの関係でなりたっていると思うのだが、その関係が、科学というもので一律に計算されてでてくるのは、やってる本人が嫌なんじゃないか、嫌じゃないとしてもとっても非人間的と呼ばれてしまうような行為なのではないか、ということである。


 実践行為に頭を使うのが面倒だというのは、よくわかる。マニュアルに書いてある通りにするのはとても楽だし、そもそも相手と人間的に交わりたくないときには、そのほうが気分も良い。ハンバーガーショップやコーヒーショップの販売員ならだれしもそう思って悪いことはないだろう。


 でも、今話題にしているのは、そういう場所でのことではないし、話もそんなに単純なものではない。


 例えば一日三食が「良い」という科学的根拠を教えてほしいという質問を受けることがある。その答えは、朝食を食べるべきかという質問同様、そもそも科学の範疇では答えられないと思うのだが、仮にきちんとした根拠があったとしたら、その質問をした人は、その答えをどのように使うつもりなのだろうか?


 現実には、そのような「科学的な」根拠が仮にあってもなくても、そのことだけでは実践行為は決定されないだろう、と私は思う。つまり根拠から計算されて一律に出てくるものなどありはしないということである。


 だから、そもそも科学的な根拠に基づいて自動的に指導内容が決定されてしまうような非人間的な状況は起こりえないと思うのだが、問題はそれを望む気持ちのほうである。まさか自分がロボットのようになりたいという願望の現われなのだろうか?


 確かにバーガーショップで客の注文に、笑顔で「フライドポテトはいかがですか?」と、それが決まりになっているように、一日三食規則正しく食べていない患者に対して、「一日三食は科学的にも良いことが証明されているんですよ。だからそれに従うべきですよ」と追加することがマニュアル化されるのであれば、負担は軽減されるかもしれない。


 でも、それでは、相手の人生を科学で切り捨ててしまうことになりかねない。はたして科学はそこまで人生に切り込めるのか、それを現実に対話で伝える専門職は、負担が軽減されて喜んでいるのか、それとも科学と実践のギャップにかえって悩んでしまうのではないか、私には悩んでしまう確率の方が高いのではないかと思えるのだが。


 おそらく、現実にそのようなギャップに悩むからこそ、ことさらに科学的根拠を求めるということになるだろう、とも私は思う。


 私の個人的な見解としては、科学は、決して実践を演繹的に導けないので、そのギャップは根拠をどこまで突き詰めても埋めようがないが、一般的な見解として、科学は実践の文字通りの「根拠」であるはずなので、実践を演繹的に導けるはずなので、根拠を求める方向にいってしまうのだろう。


 もっとも、これは二つの点で誤りであると思う。


 まず第一には、上に書いたように科学は決して実践を演繹的に導けず、そこにはギャップが残されるということ。


 そして二つ目としては、最初に書いたように、たとえギャップがなかったとしても、それは科学に依存して実践行為を行うことが正当化されるものではないということである。それは科学が無前提に正当化されることがあり得ない以上当然の帰結である。


 無前提に正当化されないものをどうするかといえば、ここで、まさに科学的根拠を持ち出して実践を行う場合をこの事例に当てはめてみれば良い、というか、当然あてはめてまず最初に考えるべきだろう。


 根拠に基づいて何かをしようと主張する人には、その行為を正当化するための根拠が必要ではないだろうか? だとしたら、その根拠とはどのようなものなのか?


 だれにでもありがちなことだが、言ってる当の本人だけは自分の行為が、自分の発言の対象には入らないと信じていたり、入っていることは自覚していても、当然のように特別な例外(だってオレ様の発言だぜ)だとやはり信じ切っているような事例が、どこにいってもまま見られるように思う。


 こういう事例は本人は気付かないことが多いので、他人から指摘される必要があるのかもしれない。(指摘してください。お願いします)


2008年11月21日

すっきりと、はっきりと



 科学的根拠と呼ばれるものが、学術的な局面においても、かならずしもひとつのことを意味しないというのは、術語としての不完全性を吐露しているとはいえまいか。


 ヒトを対象にした疫学研究以外は科学的根拠とも単に根拠とも呼ばない先生がいる一方で、歴史的に考えて、科学的根拠には細胞実験も動物実験も入るはずだと考えている先生がいる。


 これは、科学なんていう言葉を不用意に使うからわからなくなるのであって、それ以上でも以下でもない。


 もしかしたら、根拠に科学的という単語をつけて澄ましているのは栄養学だけかもしれない。少なくとも、これほど無邪気に混同している学術領域は、わたしが知る限り他には存在しない。まるで、自分に都合のいい誤用は訂正の必要がないと考えているようでもある。だれが? と言い出すとやばいからもちろん書けない。


 もっと、すっきりとはいかないものか。はっきりと書いてしまえばよいのだ。という意見は、実のところ皆無であって、余計なことはだれも言ってほしくないらしい。


 「そうか、こうまであなどりがたい敵か」って、シャア少佐ですか?


2008年11月24日

祈りは通じるのか?



 Evidenceを科学的根拠と訳すのであれば、的ではあっても、科学であることを標榜するからには、それは科学の一部だと考えていいだろう。


 だが、そうなると、たとえば、祈りの効果をランダム化対照試験で検討したという論文が、根拠に基づく医療の一部であるということと矛盾が生じてくる。ランダム化対照試験は、極めて客観的な科学的な信頼性の高い方法だという部分は科学的根拠と矛盾しないのだが、問題は祈りの効果ということである。


 なぜならば、祈りは科学的には否定されて久しい遠隔効果のひとつだからである。否定されて、というのは正確ではないとしても、そのような効果が存在するというわずかな科学的証明も従来存在しなかったとほとんどの科学者が考えている(と思われる)という点で、否定されているというのは間違いとは思えない。


 どうしてこんなことになるのか、といえば、Evidenceを単に根拠とせずに「科学的根拠」と訳してしまったからだろう。なにか基本的な部分でのすり替えが起こっていると感じる。この場合、単に「根拠」もっと正確にいうなら「証拠」でしかなかったものに「科学的」という単語を付加することがそれである。


 確かにその方法は、前記のように科学的といえるものなのだが、方法さえ科学的ならそれでいいのかといえば、もちろんそんなはずはない。そのような科学的な方法を適用しようがしまいが、それ以前にそれ(基本となる前提)が科学では否定されているのならば、それは科学ではない、ということなのだ。


 欧米でしばしば話題に上るのは、ホメオパシーの問題である。水分子に記憶が残るとか、様々な理屈があるようだが、それらは一般に認められている科学理論との整合性を持たない。これは実は微妙な問題でもあって、もしランダム化対照試験において、顕著な成績が認められるなら、従来の科学理論のほうを見直す必要があるのだが、ホメオパシーも祈りも、そんな顕著な効果は認められないのだ。少なくとも、研究者のレベルにおいて従来の理論を見直す必要性を感じるほどには。


 ホメオパシーも祈りにも、顕著な効果は認められない。それは、ビタミン・サプリメントと同じではないか、とホメオパシーや祈りの推進者(効果を信じる研究者)はいうかもしれない。


 だが、それは全く違う。従来の科学理論で荒唐無稽なものと論理的にありうるものという違いである。サプリメントには、一応それなりの科学理論があり、それは荒唐無稽ではない。対して、ホメオパシーと祈りのそれは、荒唐無稽なのである。


 あるいは、超能力によるスプーン曲げのことを考えてみても良いだろう。極めて特殊な超能力者(たとえばユリ・ゲラーのような?)がおり、彼はやすやすと超能力でスプーンを曲げるというのは、全くあり得ないことではないとしても、従来の科学理論では説明がつかない。それをランダム化対照試験で確認しようとするのは研究者の自由である。


 問題は、その結果が、わずかに有意だとか、有意ではないが傾向がみられる、というものである場合の解釈である。サプリメントの場合は、その有意というものに科学理論が付随する。ホメオパシーとスプーン曲げにはそれはない。これは、私がビタミンは信じ、ホメオパシーと祈りは信じないという問題ではない。信じる信じないの問題ではまったくない。問題は科学理論である。


 正直にいえば、私は、祈りが神に通じることは、あってほしいと思っている。スプーンを曲げる能力というものが存在したら楽しいだろうと想像する。ホメオバシーはプラセボ以上のものではないだろう。そして、ビタミン剤の効果については疑わしいと思っている。信じる信じないの問題ならば、明らかにビタミン剤がもっとも分が悪いことになる(ここでいうビタミン剤の効果とは、がんや心臓病のリスクを下げる効果のことであって、欠乏症に対する効果のことではない。念のため)。


 だが、これは科学理論ではなく、単なる私の信条に過ぎない。だれでも、そんな信条をもっているし、それには科学は全く関係がない。科学の立場で考えるならば、信条とは関係なく、祈りにはなんら根拠がないし、スプーン曲げも根拠がない、ホメオパシーにはそれなりの理屈があるが、やはり荒唐無稽の誹りを免れない。ビタミン剤だけが、一応その根拠をもっているといえるだろう。ただし、その根拠は否定的な結果を集積しつつあるのだが。


 Evidenceが単なる「根拠」または「証拠」であって、科学的とかは何の関係もないのであるなら、それはそれで興味深い研究ではあるのだが、最初に書いたように、これが科学的根拠となると、こういう問題が生じてくるということである。基本原理が科学とは相容れないのに、科学的根拠が見つかったというのなら、それはとてもスリリングな知見であろうが、現実にはそのようなことはない。単に科学的な方法によって、わずかに有意になった研究結果が現れたがその因果関係には皆目科学的な理由付けができない、という現象が存在しているだけである。


 これが、Evidenceを科学的根拠と訳すことになんの躊躇いも感じない人々と、そのような曖昧さを逆手にとってビタミンとスプーン曲げを同列に扱うことが科学だとする人々の、単なる全くの偶然的な出会いの結果だというのであれば、今後修正していくことも可能であろう。ビタミンと祈りは同列に論じられる話題ではないと、彼らが考えているのであれば。


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