Evidenceを科学的根拠と訳すのであれば、的ではあっても、科学であることを標榜するからには、それは科学の一部だと考えていいだろう。
だが、そうなると、たとえば、祈りの効果をランダム化対照試験で検討したという論文が、根拠に基づく医療の一部であるということと矛盾が生じてくる。ランダム化対照試験は、極めて客観的な科学的な信頼性の高い方法だという部分は科学的根拠と矛盾しないのだが、問題は祈りの効果ということである。
なぜならば、祈りは科学的には否定されて久しい遠隔効果のひとつだからである。否定されて、というのは正確ではないとしても、そのような効果が存在するというわずかな科学的証明も従来存在しなかったとほとんどの科学者が考えている(と思われる)という点で、否定されているというのは間違いとは思えない。
どうしてこんなことになるのか、といえば、Evidenceを単に根拠とせずに「科学的根拠」と訳してしまったからだろう。なにか基本的な部分でのすり替えが起こっていると感じる。この場合、単に「根拠」もっと正確にいうなら「証拠」でしかなかったものに「科学的」という単語を付加することがそれである。
確かにその方法は、前記のように科学的といえるものなのだが、方法さえ科学的ならそれでいいのかといえば、もちろんそんなはずはない。そのような科学的な方法を適用しようがしまいが、それ以前にそれ(基本となる前提)が科学では否定されているのならば、それは科学ではない、ということなのだ。
欧米でしばしば話題に上るのは、ホメオパシーの問題である。水分子に記憶が残るとか、様々な理屈があるようだが、それらは一般に認められている科学理論との整合性を持たない。これは実は微妙な問題でもあって、もしランダム化対照試験において、顕著な成績が認められるなら、従来の科学理論のほうを見直す必要があるのだが、ホメオパシーも祈りも、そんな顕著な効果は認められないのだ。少なくとも、研究者のレベルにおいて従来の理論を見直す必要性を感じるほどには。
ホメオパシーも祈りにも、顕著な効果は認められない。それは、ビタミン・サプリメントと同じではないか、とホメオパシーや祈りの推進者(効果を信じる研究者)はいうかもしれない。
だが、それは全く違う。従来の科学理論で荒唐無稽なものと論理的にありうるものという違いである。サプリメントには、一応それなりの科学理論があり、それは荒唐無稽ではない。対して、ホメオパシーと祈りのそれは、荒唐無稽なのである。
あるいは、超能力によるスプーン曲げのことを考えてみても良いだろう。極めて特殊な超能力者(たとえばユリ・ゲラーのような?)がおり、彼はやすやすと超能力でスプーンを曲げるというのは、全くあり得ないことではないとしても、従来の科学理論では説明がつかない。それをランダム化対照試験で確認しようとするのは研究者の自由である。
問題は、その結果が、わずかに有意だとか、有意ではないが傾向がみられる、というものである場合の解釈である。サプリメントの場合は、その有意というものに科学理論が付随する。ホメオパシーとスプーン曲げにはそれはない。これは、私がビタミンは信じ、ホメオパシーと祈りは信じないという問題ではない。信じる信じないの問題ではまったくない。問題は科学理論である。
正直にいえば、私は、祈りが神に通じることは、あってほしいと思っている。スプーンを曲げる能力というものが存在したら楽しいだろうと想像する。ホメオバシーはプラセボ以上のものではないだろう。そして、ビタミン剤の効果については疑わしいと思っている。信じる信じないの問題ならば、明らかにビタミン剤がもっとも分が悪いことになる(ここでいうビタミン剤の効果とは、がんや心臓病のリスクを下げる効果のことであって、欠乏症に対する効果のことではない。念のため)。
だが、これは科学理論ではなく、単なる私の信条に過ぎない。だれでも、そんな信条をもっているし、それには科学は全く関係がない。科学の立場で考えるならば、信条とは関係なく、祈りにはなんら根拠がないし、スプーン曲げも根拠がない、ホメオパシーにはそれなりの理屈があるが、やはり荒唐無稽の誹りを免れない。ビタミン剤だけが、一応その根拠をもっているといえるだろう。ただし、その根拠は否定的な結果を集積しつつあるのだが。
Evidenceが単なる「根拠」または「証拠」であって、科学的とかは何の関係もないのであるなら、それはそれで興味深い研究ではあるのだが、最初に書いたように、これが科学的根拠となると、こういう問題が生じてくるということである。基本原理が科学とは相容れないのに、科学的根拠が見つかったというのなら、それはとてもスリリングな知見であろうが、現実にはそのようなことはない。単に科学的な方法によって、わずかに有意になった研究結果が現れたがその因果関係には皆目科学的な理由付けができない、という現象が存在しているだけである。
これが、Evidenceを科学的根拠と訳すことになんの躊躇いも感じない人々と、そのような曖昧さを逆手にとってビタミンとスプーン曲げを同列に扱うことが科学だとする人々の、単なる全くの偶然的な出会いの結果だというのであれば、今後修正していくことも可能であろう。ビタミンと祈りは同列に論じられる話題ではないと、彼らが考えているのであれば。