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2009年11月 アーカイブ

2009年11月09日

栄養エビデンス入門(0)



 少し長めの引用*1



 科学論文にはありのままの事実が書いてあると思っている人が多いけれども、実はここにあるのは事実ではなく記述である。たとえば、科学者がある実験をしたとする。ありのままの事実であるならば、実験をビデオに撮ってみんなに見せればよい。しかし、そんなものは科学者仲間から決して業績とは認められないだろう。科学論文と認められるためには、実験から有意味であると科学者仲間が認めるものを選び取って記述しなければならないのである。だから、科学における客観的記述と称するものは、事実そのものではない。


 客観というのは、ゆえに、事実から記述をなす時の、科学者仲間の約束ごとに支えられて成立しているのであり、この約束ごとは後にパラダイムという名で呼ばれるようになるのだが、そういうこととは無関係に、今でも、ほとんどの科学者は、記述は約束ごとではなく、事実であるゆえに客観的だと信じているらしいのだ。



 ほとんどの科学者という表現は誇張だと思うが、多くの高校生・大学生についてなら、かなり妥当性があるように思う。


興味がある方は、えいこみでもっと詳細な議論を展開していく予定ですので、root@linkdediet.orgまでメールをください。えいこみの招待状をお送りします。




*1:池田清彦『科学とオカルト』(講談社学術文庫、2007)


2009年11月12日

エビデンスとはなにか?



 上記の引用に沿っていうならば、エビデンスとは「3.検証可能な結論」の検証を可能にするためのしくみといえるだろう。


 これに対応して、エビデンスを考慮しないことももちろん可能であり、その典型的な例としてしばしば言われるのが、「権威への信頼」(というよりも恐怖?)などの「場合によって異なる」ことごとである。


 つまりエビデンスを考慮するのが知識であり、エビデンスを考慮しないものは信念だということになる。


 では、「エビデンスを考慮するのが知識であり、エビデンスを考慮しないものは信念だ」という断定を無批判に受け入れたところから出発したものは、知識だろうか、それとも信念だろうか、といえば、検証可能性が維持されていれば無批判でも知識といえるかもしれない。だが、無批判に受け入れることと検証可能性は、両立しないのではないだろうか?


 無批判に受け入れるというのは、どちらかといえば、「権威への信頼」(恐怖?)の結果であるだろう。その場合には、エビデンスが新たな権威となってしまっているのである。


知識と信念



 加藤周一は、「知識について」という文章の中で、知識と信念の区別について書いている*1


 それによると、知識の根拠は、「1.単純な感覚的経験、2.少数の単純な、証明できない前提と、若干の論理上の規則から成る推論の手続き、3.検証可能な結論」である。


 他方信念の根拠は、「場合によって異なる」として、「権威への信頼」や「希望と将来の現実との混同」などいくつかの例を挙げ、「時と場合により、合理的でもあり得るし、非合理的でもあり得る」と述べている。




*1:加藤周一『言葉と戦車を見すえて』(ちくま学芸文庫、2009)


2009年11月15日

紋切型辞典



 この女子大生の殺害に関するニュース引用が残っていた。引用者の意図は不明だが)のタイトルに見られるようなもののことをいう(もちろん事件や被害者には何の関係もない。殺された女子大生は本当にかわいそうだと思う。ここで言いたいのはそのことではないので誤解なきよう)。


 新聞記者が、ほかにもさまざまな言葉を聞いたに違いないのだが、最終的なアウトプットがそうなってしまうことへの皮肉をこめて、フローベールは『紋切型辞典』を書いたのではなかったのだろうか? ニュースの末尾にはダメ押しのように、もうひとつの紋切型があって、ひょっとしてこれワザトラマンですか? さすがにひどくないですか?


 それはともかく、フローベールの件の辞典は、フランス語に堪能でしかも彼の時代の文献に通暁しているひとでもないとなにが面白いのかよくわからないかもしれないとは思う。筆者は昔単行本を買ったが、実のところひとつもわからなかったと言って良い。ビアスの『悪魔の辞典』のほうがまだ少しはましだった(少しは笑えるところもあったという意味。そういえば後に筒井訳が出たが未見)が、本当に面白かったのは、筒井康隆の『欠陥大百科』や『乱調文学大辞典』だった。


 皮肉やパロディは、そうであることが分かる程度には元を知らないと成立しない。


2009年11月26日

科学はつねに新発見をしてはいるが面白いものばかりとは限らない



 『ニュースをみるとバカになる10の理由』(ジョン・サマービル著、PHP研究所、2001)という本がある。その 第7章は「科学がつねに新発見をしていると信じる」という見出しの元、ニュースがいかに科学的発見を歪曲して伝えているかを解説している。


 研究分野にいて論文を書いたことがあるヒトなら誰でも、著者の主張にうなずく部分が多いのではないだろうか?



 だが、自分たちの業績がメディアでどのように紹介されているかを知ったら、たぶん科学者はたじろぐに違いない。なぜなら、彼らは自分の研究成果が決定的なものだとは思っていないからだ。彼らは自分の業績の報告が、残念ながらごくささやかなスケールのものであり、単純な――つまり一般的な――命題を主張するには、まだたくさんの研究が必要だということを認めている。(『ニュースをみるとバカになる10の理由』 p.143)



 多くのヒトが本書を読んでいれば、あるある現象などは起きなかったのではないかと思うほどマスメディアが報道する科学ニュースのおかしさをさまざまな局面から批判しているのだが、それが災いしてか、現在は絶版になっている。


 もっとも、バカになる理由はたった10しかないのだから、神経質になどなる必要もないし、実際には災いでもなんでもなく、単に一般読者には面白くなかったというのが絶版の理由だろう。


 たとえば、科学ニュースについて書かれた第7章など研究者にとっては当たり前の常識レベルのことしか書かれていないが、一般読者は、書かれている事柄よりもまず第一に書き手の頭を疑いそうな気がする。それほどギャップが大きい。繰り返すが、内容は研究者が普段あまり意識することもない日常生活を丁寧に解説しているだけで、どこにも誇張はない。


「そんなバカなはなしがあるか」となにも知らない読者が思っても無理はないほどにマスコミに登場する研究者は例外的な存在であるし、そもそも研究者自身が研究費を獲得するためにマスコミに加担している部分も少なくない。明らかな売名行為もときにはある。そんな裏事情は一般の読者には知る由もない。


 なるほど。


 本当のことを書いても、本当のことを理解できる人にしか読まれないというのは、なんとなく肯ける話ではある。不幸なことではあるけれど。


 私はバカになる残りの9つの理由が本当かどうかを判断できる立場にはないが、科学に関する第7章があれだけ本当なのだから、あとが全部うそ八百ということはないだろうと思う。


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