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2010年01月 アーカイブ

2010年01月04日

もうITは終わり、という意味



http://www.asahi.com/politics/update/0104/TKY201001040180.html


 もちろんITはこれからもますます発展し続けるだろう。


 終わりというのは、ITの独自性の終わりということだ。つまりメディア自体が変質を余儀なくされるのではないかという期待の終わりである。


 ITは決定的に既存のメディアとは異質なものになるのではないかという期待が昔は確かにあったように思う。例えば、だれもが正確で信頼性の高い(健康)情報に常時アクセス可能になる、といった。だが、それが徐々に失われてきている、というかもうほぼ失われてしまったのではないだろうか。


 グーテンベルクが活版印刷を発明したときにも、以来新聞やラジオやテレビが発明されたときにもあっただろうと思うのだが、基本的に期待は上を向いているが、実際の変化は下向きだったという(あくまでも全体として見た場合だが)現象がITでも繰り返されていることがほぼ確定したということだ。


 下向きが確定したということは、TVのようになんとかそこから引き離さないといけないということである。


 グーテンベルクの印刷術はTVとは違うと思うかもしれないが、書物自体は古代から存在していたし、大学で使う教科書も修道僧の手写本として供給されていた。むしろ、一部の富裕階級しか所有できなかった物語や詩歌の爆発的な普及のほうが結果的には大きな影響を持ったと考えるべきだろう。エラスムスや教会の一部の人々が、印刷術によってより信仰が広まると期待したにも関わらず(ジャック・アタリ『1492』ちくま学芸文庫、p.71)、そうはならなかったように。


 もっとも、ITにはまだ救いがある。


 TVでまともな情報は探せないが、ITではその気になればいくらでも探せるのである。専門の研究者でさえ、探すときは、まずITありき、なのだから(これは簡単にいうなら、日曜ゴールデンの民放視聴者に、教育TVにチャンネルを変えろと迫るようなものであるが、ITにはもっともっと信頼性の高い情報が眠っている)。


 独自性はなくなったとしても、既存のメディアの上をいくなら、それはそれで独自的なものなのではないかというのも一理あるが、米国医学図書館や、主要な学術雑誌サイトが有料・無料の違いはあっても、ほぼすべてIT化された2010年の今、ITの独自性よりも、普遍性、つまり従来の方法論がそのまま生きていることに重要性が集中している(だから終わりなのである)。


 今現在の状況を見ながら、それでもインターネットは信頼できないから論文に引用してはいけないというようなことを、本気で言う人がいるとは思えない。まったく馬鹿げていると思う。今や、もっとも重要な知見はインターネットで最初に発表されることも多いのに、印刷物でなければ信用できない、などというのは(信頼できないサイトもそれこそ山のようにあるがそれを見分けるのが専門家である、出来ない人には教える義務があるはず)。


 まだまだやることはたくさんある。


2010年01月10日

昔話の時間



 そういえば、行き詰ったらいままでのことを文章にしたらいいと、いわれたのだった。


 いいかどうかは、やってみてその結果を見なければわからないが。


2010年01月27日

女子は数学が苦手という思い込みが実際に数学が苦手な女教師から女子に伝染するらしい

運動は高齢者を健康にする

カロリー表示があるとファーストフードチェーンで両親は子供のカロリー摂取量を下げる効果があるらしい

低炭水化物ダイエットは抗肥満薬と同じように体重を減らすが同時に血圧も下げるのでより健康的かもしれない

肥満管理のためのツール

2010年01月29日

過去問



 有名な教授の名前を文献データベースで検索したときに、件数のあまりの少なさに愕然とするという経験がある大学院生は少なくないかもしれないと思う。大学院生は、ひたすら論文を書くように要請されるのでそんなふうに考えてしまいがちなのだとは思うが、件数が多いか少ないかが現実に問題になるのは、教授の能力が試されているところではなく、教授の能力を客観的な評価指標で測る必要がある場合だけである。


 その場合でも、論文数はあくまでも暫定的な指標に過ぎないことが一応議論の前提になっているとは思う。


 でも、世の中の多様性というのは想像を絶するものがある。今は日本で最初の帝国大学だった大学で教授になった甘木先生は、公的誌上(某研究所のニュースレター)で、有名だが論文の件数は少ない(らしい)栄養学のオーソリティをからかってみせた。


 たしかに甘木先生の論文数が多いことは有名で、誌上でも甘木先生は自分の名前で検索してみることを薦めている。あとは、ワトソン、クリックの二重らせんに相当する論文さえあれば完璧なのだろうが、そもそもこの議論からは論文数の少ない先生がどうして権威と呼ばれるのかは永久にわからない。


 甘木先生も権威と呼ばれるのだろうか? すでにそう呼ばれているのだろうか?


 筆者が昔勤めていた大学の教授は、ひとりで(文字通りひとりで)300編近い論文を書いた。名前が入っているだけではなく本当に自分で書いており(近くにいたので間違いない)、その勤勉さには敬服したが、隣の教授は500編近い論文を書いていたので世評はあまりよくなかった。


 隣の教授の500編の大半は本人が書いていないし(おそらくまともに)見てもいない。でも500編の論文の著者として高い評価を得るには充分すぎる数だ(実際得た)。


 考え方としては、共著者として名前が入るだけの寄与があったのだから、多いほうがえらいということになる。ひとりで書ける論文数などたかがしれているのだから(実際それで勝負あったわけだ)。


 けれど、もっと本質的な評価がもし可能であったとしたら、実際に優れていたといえるのはどちらの先生なのだろうか。論文の本数でもなく、誰が書いたかでもなく、もっともっと本質的なところで評価が可能であるとしたら?


 現実に権威といわれる先生が実際にどうなのかは、もちろんわたしにわかるわけもないが、少なくとも甘木先生のように(わかっていてわざと)一面的な見方で物事を切り捨てる手法は、面白い見ものではあるかもしれないが、あまり科学の進歩に寄与することはなさそうな気がする。


運動した後は低炭水化物食で

糖尿病患者がうつ病になると高度な合併症のリスクが上昇する

高齢者はやっぱり少し太めのほうが寿命が長いという

ロタウイルスワクチンの臨床試験がアフリカで行われた件

例えば左利きの私は、お茶碗が左側にあるのはお茶碗が偉いからだと思っていたのだが、右利きのヒトはおみおつけの方が偉いとずっと思っていたのだろうか? お箸を持つ手がお茶碗より左側にあるのが合理的だと思うのは左利きだけなのだろうか? どうやらそうらしい。

カルシウムとビタミンDのサプリメントが骨折防止に役立つ

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