節分といえば
青鬼は、あとで他所の村にいって絶対自慢しているという西尾維新の小説(偽物語だったか)を思い出した。あの赤鬼を村人に受け入れさせるために、あえてヒールの役を買って出た青鬼、彼は赤鬼と実は仲が良いことを村人に悟られぬようにこっそり旅立っていったのだった…。って、説明してどうする。
これもひろすけ童話のひとつだったんだとググっていて思い出した。むく鳥といい、母親の戦略はかなり成功したというべきなのか。今日、別のサイトで「いやいやえん」の作者にインタビューしたとき、禁じ手のサインをねだってしまったというエピソードを読んだが、まさしく「三つ子の魂、百まで、わしゃ九十九まで」なのだろうか。ちなみに、九十九まででもまだ何十年もある。
という時候の挨拶的な前置きは、本当に単なる挨拶なのでどうでもよいのだが。
みにくいアヒルの子は、本当は白鳥の子だったので、成長したら美しい白鳥になったというのは、アンデルセンの創作童話であるが、そのたとえでいくなら、こんな感じだろうか。
そのとき、近くの木の枝に、一羽のカラスが止まりました。カラスは、下を行くアヒルの親子の末尾にみにくいアヒルの子が、よたよたと遅れながらついて行くのに気付いて、ちょっとからかってやろうと思いました。
「おおい、お嬢さん」とカラスはみにくいアヒルの子のそばの地面に降りてささやきました。
みにくいアヒルの子は、「?」という表情でカラスの方を見ました。
「あんたなかなか個性的だね。きっとおおきくなったら別嬪さんになるね」とカラスは言って飛んで行きました。
みにくいアヒルの子は、一瞬何を言われたのかと思いましたが、それはつまり、母親や兄弟たちが言うのとは全く逆のことなのでした。違っているという点では同じなのですが、違っている方向がまったく逆なのです。自分はみにくいのではなくて、美しい方に違っているのだと、カラスは告げたのでした。
それは少なくともみにくいアヒルの子に自信を取り戻させる効果はあったようです。自分は、みにくいアヒルの子ではなくて実はうつくしいアヒルの子なのだと考えることで、うれしい気持ちになれました。それも空を自由に飛びまわれてしかも漆黒の羽をもったカラスにいわれたのです。アヒルのような地面から飛び立つこともできない半端な鳥ではないのです。私もその仲間ではあるけれど、カラスに認められるような違いがあるのだから、もっと自信をもって生きていこう、とみにくいアヒルの子は思いました。
もちろんみにくいアヒルの子は、カラスが黒くて空を飛べるというだけで、なにかえらいもののように勘違いしていただけです。カラスがいったこともデタラメです。
みにくいアヒルの子は、永遠にアヒルとしてはみにくいというのは間違いないのです。アンデルセンは白鳥のほうがアヒルより単純に美しいと思っていたかもしれませんが、どちらが美しいかなんて主観的な問題です。そして白鳥は永遠にアヒルにはなれないのです。
白鳥(みにくいアヒルの子)は、白鳥であるという自覚を持たない限り永遠にみにくいままであり続けるのです。カラスに騙されて、調子に乗ってアヒルであり続けようとして、どうする。
とはいっても、白鳥のアイデンテティはいまだなし。だからいつまでも評価できないのに、まあたカラスなんかに騙されてと思ったけど、みんなでおとぎ話の世界にいるのはそれはそれで幸せなんだと思いました。
というかおとぎ話の世界に入れないのは不幸なのだな、たぶん。つまりわたしが。