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2011年03月 アーカイブ

2011年03月03日

壊血病とバスコ・ダ・ガマ



たとえば、初めて世界一周を成し遂げたマジェラン一行の230名中208名が死亡したというのを、すべて壊血病、つまりビタミンC欠乏症に帰すのはかなり無理があるし、そんなことは誰も言ってないのだが、


思い込み


というか、あるいは、


先入観


というか、あるいは、


狭量とか視野が狭いとか


いろいろ言い方はある(というかそれぞれ意味が異なるが全部当てはまる)のだが、例えば1497-1499年にポルトガルのリスボンから南アフリカの喜望峰を回ってインドまで航海した、バスコ・ダ・ガマの場合についてはどうなのだろうか。


ガマの航海の場合、1497年7月8日にリスボンを出発しているが、その後ヴェルデ岬(アフリカの最西端に位置する岬)を出帆してから11月7日に喜望峰近くに寄港するまでずっと大西洋を航海していたことになっているが、16週間も陸地に寄港していないのに、壊血病が出現していないので、記述の日付に間違いがあるのではないかという疑問が『ランセット』誌に投稿されている(Martini, E.(2003)How did Vasco da Gama sail for 16 weeks without developing scurvy?Lancet, 361, 1480)。


つまりほとんど死者は出ていないと考えて良い。少なくとも航海日誌に特記するようなことはなかった。


ところが、1498年の1月になると、壊血病に特徴的な症状で多くの船員が死んだという記述が現われる。このときの正確な人数は不明である。同様の症状に多くの船員が苦しんだようだが、4月2日にモンバサに寄港して新鮮なオレンジを入手し、その後4月11日の記述には全員が健康を取り戻したと書かれている(Ravenstein, E.G.(1898) A Journal Of The First Voyage Of Vasco Da Gama, 1497-1499. Bedford Press, London)。


その後は陸地伝いで壊血病は発生しなかったようだが、インドからの帰路についたガマの一行を再び悲劇が襲った。1498年10月5日から翌99年の1月2日(13週間!)まで寄港なしの航海が続く間に、壊血病の明白な兆候が現われ、次々に船員が死んでいった。この期間に30人が死亡。日誌にはそれまでにも30名が死亡していたので、一隻あたり7、8人で操船しなければならなくなったが、彼らも皆およそ以前のような体調は保っていなかった、と書かれている(前掲書)。


もちろん全員が壊血病で死んだわけでないだろう。記述からもそれまでに死んだ30人が全員壊血病で死んだとは書かれていない。


とはいえ、乗組員は全部で170人中なのだから、30人でも充分過ぎるほどの人数である。


1月7日にやっとマリンデに寄港したガマの一行はさっそく特効薬のオレンジを買いに走ったと日誌には書かれている。モンバサでの1年前の経験からだろうか(前掲書)。


ガマがリスボンに戻ってきたときには全部で54名しか生存していなかった(Bierman J.B.A.(1996) The incidence of scurvy at sea and its treatment. Revue d'histoire de la parmacie, 44(312suppl.); 339-346.)。


興味深いと思うのは、そうやって壊血病でたくさん死んだと言っても、ビタミンCの欠乏がそれほどの意味を持つということを頭から否定する管理栄養士(医学博士)が存在するということである。


「はいはい、それって、野蛮人に襲われたり感染症になった人も含まれてますよね」


栄養の大切さを自分で否定して、どうする。


あとがき



実際にはわかっているはずだと、ひそかにわたしは考えている。理解しているのに、なぜだか、それを認めたら負けだと思っているというわけのわからない衝動が存在するようだ。


わけがわからないことはない。これははっきりとした職業病の一種である。つまり、実験科学者病であるが、ひょっとしたら疫学研究者病でもあるかもしれない。わたしは疫学研究者であったことは一度もないしこれからもないので、はっきりとは言えないが、彼らの著作物を見ていてそう思うのだ。


なんどもいうけど、140名以下に減っていたところに、しかも陸地の見えない海の上で、みんなが同じような症状で苦しみはじめ、その結果30人が死んだというのである。


なんどいっても、思い込みは修正されない。その理由ははっきりしている。


実験科学や統計疫学という名称で括られるような研究分野は、物理学ほどではないが、極めて高度に精緻化された学問領域である。その分野に通暁すればするほど、日常生活の曖昧さとの差異を鋭敏に受け止めるようになる。というか、曖昧なのが日常であり、精緻なのが学問なのだと、単純に思い込むようになる。


そのような頭に、ガマやマゼランの航海日誌は当然のこととして学問とは無縁の歴史的著作としかうつらない。そもそも歴史という研究分野は自然科学とは無縁であるのだ。


これは、『我と汝』の問題でもある。研究者は常日頃「われ―それ」の関係でものごとと接している。少なくとも職業的にはそういうことになる。ところが、船員の大量死という事実の前では、多少なりとも「われ―なんじ」の関係が現われざるを得ない。それが「死」の持つ重みということである。


栄養学研究者が、栄養学研究者であり続けるためには、この「われ―なんじ」の関係が何度となく現われては消えてゆくはずである。


ところが、残念なことなのか宿命なのか進化なのか、なんというべきかはよくわからないが、この関係に正面から関わることは、研究者としての経歴を脅かす。


すべての研究分野において、この現象が見られるのだが、栄養学以外のほとんど全ての分野では、「われ―なんじ」の関係が再認識されて終わる。この両者は永遠に併存するしかないのだから。


「われ―なんじ」の関係が存在しない栄養教育? 確かに「われ―なんじ」の関係には「科学的根拠」というものは不在であろうけれども…


2011年03月09日

ELIZA



イライザと読む。人工知能を装うコンピュータ・プログラムの代名詞的存在。


ミラーリングという、あるいは振り返りの傾聴(リフレクティブリスニング)というカウンセリングの技法があるが、これを模倣することで、あたかも人間が対応しているように錯覚させるコンピュータ・プログラム。


人間の会話、とりわけカウンセリングの会話が如何に無内容な発話の連続なのかを明らかにした。それでも人間は人間かコンピュータかが判断できるくらい、その無内容な発話の微妙な機微をきちんと把握している。ということは、無内容にみえてもそれは本当は無内容ではないのかもしれない。でも騙される。


2011年03月14日

災害時の栄養対策について



http://www.linkdediet.org/hn/modules/pico/index.php?content_id=548


転送します。なにもないよりはマシでしょう。参考になればよいと思いますが。


2011年03月18日

出来ることをする



もちろん、なにをすべきなのかという議論は重要です。支援物資をもっと送れと食品会社に要請することが重要であって、情報提供には何の意味もないと言い切る方もいます。


わたしはインターネットでの情報提供には意味があると思うし、他にもそう思う人はいるわけで、それでいいのだと思います。


まさか、研究所の部長(よその部の)で、それを批判する人がいるとは思わなかったので、あえて言いますが。


Googleでなんでも検索できる時代にいまさらリンク集など必要ないという意見もあります。それも間違いです。Google自身がまさにそのリンク集を提供していることからも明らかです。


エコノミー症候群を予防する運動



http://hfnet.nih.go.jp/usr/news/110318/undou%20jirei-110318.pdf


http://www.linkdediet.org/hn/modules/pico/index.php?content_id=549


とりあえず国立健康・栄養研究所で、すぐにできることといえば情報提供、ということで。


明日以降もまだ少しは増えると思います。


携帯サイトを作りました



http://www.linkdediet.org/mobile/


載せているのは同じ情報です。ケータイしか使えない人に教えてあげてください。


2011年03月22日

Re: なにが必要かといったら



どうしてすべてわかっているヒトが最低にランクされなければならないのか、についての補注。


「ロボットならともかく、わたしが理解している人間というのは、そういうときに、したり顔でうなずいたりはしないものだから」


というのが答えです。個人的なものですので、無視してもらって結構です。


もちろんすべてわかっているヒトはこの答えもわかっているので、これは文章の意味がわからなかったヒト向けのものです。


よろしくお願いします。


P.S.


キリスト教徒的に、「自分がされたら嫌ことは他人にするな」のもう一つの例とお考えいただいてもかまわないと思います。私は過去も現在もクリスチャンだったことは一瞬たりともありませんが。


いま検索してみたら、イエスも同じようなことを言ってはいるものの、これ自体は論語なのですね。


とはいえ、わたしは議論をふっかけられるのは大嫌いですが、それが大好きという人もきっといるでしょう。わたしは走るのは大嫌いですが、それが大好きという人も(これは間違いなく)います。


それは(嫌なことだからやらないのは他人にとっては)いいのですが、逆の場合は他人に迷惑です。


なにが必要かといったら



個人的に考えるのがわかりやすいのではないかと思う。


自分にされたら嫌なことは他人にするな、というやつである。


でもこれは確かイエスがローマの役人だったかユダヤ教のラビだかに答えた解答だった。仏教徒もイスラム教徒も異なる解答をするだろう。


イエス自身、質問が異なれば解答も異なったことは想像に難くない。


以下は、例えばの話としていうので、あくまでもそのつもりで聞いてほしいのだけれど、ある日突然、健康で何の問題もないと思っていた一人娘が死んでしまったとする。


もちろんそういうことは現実にある(今までもあったし、今回の大震災でもあっただろうと思う)のだが、その当人の気持ちを、あなたはほんとうに推測できるだろうか、という問題が存在する。


おそらくこの文章を読んでいる大半の人が、そこに問題があることさえわからないのではないだろうか。


推測することは可能である?


そう思って考えられる問題点を列挙し始めたあなたが、いちばんわかっていない人なんですけど。


わかってないどころか、とてもひどいヒトなんですけど。


いますぐここを立ち去って二度と戻ってこないでほしいと思います。


まあ、立ち去る必要はないけれど、自分の考えているように事態が進まないことを他人の想像力のなさに押し付けないでほしいものです。あなたも同じくらい想像力がないのですから。


もっとも本当に頭が良いといわれる人々の中には、そこもかんたんにクリアして、「そうだよね、ひどいヒトだよね」と肯いているヒトもいるかもしれません。


ていうか、まあクリアしているでしょうね。


もちろん、それこそが人間としては最低レベルであることも、自覚していると思うので、多くはいいません。


阿吽の呼吸というやつですね。


人間という定義にもよるとは思いますが。


2011年03月29日

猶予週間



栄養情報学の物語についての準備を数ヶ月前から進めている。4月にセミナーで発表する予定のものである。


すでにほとんど完成している。


問題は、そのまま発表していいのかどうか、ということだ。


2011年03月31日

それ以外は存在すら否定される



確かに、最近この数年の間に増えてきたかもしれない疑似科学的サイトのひとつに、管理栄養士が騙されてしまうということはあるだろう。


そこに書かれているのは、どこかの教科書からまる写ししたような内容で、まる写しであるがゆえにツッコミどころがむずかしい。ところが、ページの一番上にあるのは、そのページのタイトルが意味する商品の販売サイトへのリンク。


まじめだと思わせて販売サイトに誘うのはもうセオリーではないか。


そう思って、作者を探すが、まったく手がかりがない。


これはまさしく疑似科学サイトである。


というのは、作者に関する情報がないほど疑似科学度が増すからだ。


これは意外に盲点かもしれない。(たとえばこのサイトの疑似科学度ときたら)


今回のように、初期に見られた古色蒼然たるウェブのデザインの場合、広告があることも作者の記述がないことも、当然のように思われる危険性がある。そこまで見越して騙そうとしている可能性すらあるわけである。


Googleの順位だけは絶対に信じないこと。これはもう鉄則。


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