, これは筆者の造語。系統的総説、系統的レビュー、システマティック・レビューなど決まった言い方がないので、字面から素人でも内容を推測できるような言葉にしてみた。原語はSystematic Review。
Stanford scientists’ discovery of hormone offers hope for obesity drug
『サイエンス』というと、日本の日経新聞社が出している『サイエンス』を思い浮かべるのが一般的だとは思うのだけど(わたしも大学院に行くまではそう思っていた)、実際には、サイエンスといったら、アメリカの権威ある雑誌で、日本のカタカナの『サイエンス』という雑誌とは何の関係もない。
日経『サイエンス』は、アメリカの『サイエンティフィック・アメリカン』の日本語版である。日本の『ニュートン』のような雑誌で、著名な研究者が書いているとしても、いわゆる原著論文を掲載する学術誌ではない。翻って、英語の『Science』といったらNature(イギリスの超有名学術誌)に比肩するアメリカの学術誌。
という前振りのあとで、あえて云うのだけれど、レプチンやグレリンの系列に属するあたらしい肥満ペプチドが発見されたという。まさ『Science』にふさわしいという極め付きの発見のひとつには違いない。
ダイエット薬として、いままではどれも役不足だった。さて、今回はというのが、興味の焦点だろう。
こういう場所では、自分にはあまり責任がなくて、なんでも言える反面、よほど面白いことを書かないと、注目もないというのが自明なので、とりあえず気楽だな、と。
自分が仕事で作った原稿の要らなかった部分を、実名でこのHatenaで発表しているヒトもいるらしい。厚生労働省の研究所のヒトだという話だが、本当かどうかは知らない。
どっちでもいいけど、その情報を個人ページで流すのではなくて、国立医薬品食品衛生研究所の当該ページで流すほうがいいはずだと思うkedo...
とりあえず、アップデートな話題。つーか、たぶん個人的に、だな。
AHCC?って、アミノアップ化学って会社が販売しているがんに効くらしい健康食品。
AHCCインターネット相談室というのもあるけど、ここでは、販売元の会社とは無関係だと一応ことわってたりして。
実際どーなのよ、って下世話な詮索はどうでもいいけど、実はオレもAHCCというものは初耳だった。でも、これがAHCCというキーワードで検索すると、PubMedというアメリカの国立医学図書館の文献データベースで、まちがいなくAHCCそのものの文献がヒット(見つかる)する、とりあえずはエビデンスが皆無ではない健康食品なんだ。
それ見ると、AHCCは実はActive hexose correlated compound?の略なのだとわかったり。
単にオレの無知をなじってもらっても、それはそれでアリってことで。
中には、ヒトを対象にした試験結果もあって、関西医科大学?のグループが出しててさ。これ、すごくない?
アミノアップ化学のホームページ見てると、英国の(多分世界で最も権威のある)『Nature』誌の取材を受けたとか書かれてて、ひょっとして、まじスゴイ会社なのかも。
ただ、これじゃ、まだかなり弱い証明でしかないって、言っとく必要はあるよね?
第一に、AHCCをActive hexose correlated compoundと言い換えても、それだけじゃ、化学的にはまだなんも言いえたことにならないって現実がある。ひょっとしたらどこかの論文に構造式がでてんのかもしんない(だったら謝る)けど、hexoseなんていくらでもあるわけで。
そのcorrelatedじゃ、おおざっばな構造は想像できても、曖昧だよね。リコペン?とかビタミンCというものがあるわけなんだから、こういう書き方しかできない化合物は、現実には実態にかなりのバリエーションがあるって可能性もあるんじゃないっていう。製品にしても、同じでしょ?
例えばの話、hydrocarbon correlatedだったとしたら? ごはんでもパンでも、おまけに食物繊維だって仲間なんで、こんな曖昧なものはないということになっちゃう。いや、そういうふうに言ったら本当にそうなんだけど。
念のためにいっとくと、こんな議論は、研究者の世界では毎日の話の中でいくらでも出てくるわけ。だから、AHCCとか、本当にそれが意味あると思う研究者は、なんとかそれを明確にしたいと思って格闘してるわけで。
オレとしては、現実にAHCCというものを作ったり研究したりしている人々が無自覚だったりそこに安住しているとも思ってないんだけど。
まさか、ね。
そりゃあ、臨床研究がなければ無意味かもしんないけど、有効成分がわかんなけりゃ、そりゃただの健康食品でしょ? あ、それでいいわけか。いや、単なる冗談だけど。
還元論的な議論が嫌なヒトって確かにいるよね。でもさ、それなしには終われないでしょ。少なくとも、信頼を全ての面で得たいと思うのであれば。
これ以上還元しちゃうと作用が消失しちゃうというのであれば(ヒトを、その腕や脚だけを切り取って見せても、ヒトの一部ではあっても、ヒトとは言えないもんね)、それを証明する必要があるってことかな。デカルトみたく。リコペンを分解すんのも、化学的には簡単なことだけど、それじゃ意味ないわけでしょ? その線引きを、有効性を主張する研究者には証明する義務があるってこと。
同じ問題が、アガリクスの有効性にもあるかも。動物実験の論文は多いのに、ヒトに対する有効性はあいかわらずほとんど出てこないよね。
期待値で商品を判断するのがいちがいに悪いとは言えないともいえない。人間ならだれだって期待するでしょ。そこには例外は多分ないよね。
みんなに研究者の視点を持てというのは無謀かね。でも、あなたに救いたい愛する人がいて、そのためなら人生も全財産も投げ出して良いと思うんだったら、いまのところいちばん信頼がおけるEBM的な判断も念頭に残しておくことは、別に悪いことじゃないでしょ? 確かに、やりたくもない勉強を強いられるかもしれない…かもしれないけどね。
AHCC?の話題を書いたけど、最初のほうだけ読むと、まるでAHCC?を賛美しているようで、ちょっとヤバイかも、と思った。
全然そういうことはなくて、こんなわけのわからない正体不明の物質では、そもそも根拠以前の問題だといいたかったのだ。
祈り?の効果をEMB?的に証明しようとする一派がいて、結構一流の学術雑誌にも論文を発表しているけれど、祈りというのは宗教的な行為だし、たとえそこに物理的な裏づけが存在するとしても、そもそも「祈り」という行為が(理学的には)定義できないのだから、その効果も、それだけで価値が低くなる。
そういう論文の中には、宗派の違いを超えて「祈り」を研究したなんていうのもあって、それは、イスラム教の祈りとキリスト教の祈り?がEBM的に等価なものということになっている。
EBM的なようにも思えるけれど、実際には祈りが定義できない時点で、これは根拠でもなんでもないと思う。
AHCC?にしても、それと似たり寄ったりだと言いたかったんだけど。
心理学にも似たようなところがあるように思う。
でも、わたしは宗教的な意味では祈りの効果を信じてもいるし、心理学にも人間の行動を明らかにする一定の有効性はあると思う。成分が曖昧だからといって、それが効果がないことを必ずしも意味はしない。
#米食より洋食のほうが脚気?になりにくいんだという高木兼寛?の論文(または主張)と比較してみると面白いかもしれません。
マテ茶?というのは、マテ?という植物の葉の浸出液だが、一部の健康食品サイトでは、マテに含まれるのはマテインというカフェインとは似て非なる物質で、これがマテ茶の特徴なのだそうだ。
ケミカルアブストラクト?という古く由緒ある化学文献の膨大なデータベースにもmateine?という化学物質?の登録があるそうだ(有料なので、直接確認はしていない)。そのことが書かれたErowid氏の記事(ただしマテインの存在に否定的)によると、カフェインには構造的に立体異性体?が存在し得ないのだというし、マテには入っていないはずのカフェインの定量をした論文も存在する。
まてよ。
これもAHCC?の仲間なのだろうか? 身体の中の活性酸素を除去してくれるという、活性水素水?の仲間なのだろうか?
話題がそれるが、活性水素水サイトのひとつを見ると、活性水素という用語は理化学辞典?にも採録されているらしい。それが本当だとしても(まだ確認していない)、活性水素状態は含まれるミネラルとの相互作用の結果生ずると、記事中に登場する九州大学の教授自身が言明していたはずだ。そういう状態の水が「ルルドの泉?」や「トラコテの水?」の奇跡の正体であってもぜんぜんかまわない、というのは、それらは奇跡を起こすのであるのだから。
奇跡についてなにかを語ろうとする人ならだれでも知っていると思うのだけれど、奇跡は科学とは無縁である。奇跡は神様がなされるのだとしたら、どうして神様は、それを御自分がなされた物理法則に合わせる必要があるのかということだ。
「祈り」の効果もそういう風に見れば、明らかにおかしな現象だということがわかる。研究論文の書き手の目論見としては、祈りという人間に(恐らく)不変的な現象に医療効果が認められれば、これを使うべき理由になり、多くの人の祈りを正当化し、とかなんとか色々考えた結果なのかもしれないが、祈りを聞き届けるのは神様だというのが一般的な考え方だし、現実に祈る人間は、なにに対して祈るのか、といえば、日本人なら、かみさまほとけさま! 欧州なら、Oh! ジーザス。トルコなら、「アッラーは偉大なり」というのが普通である(と思う)。
神を試してはいけない、というのはキリスト教の教義ではなかっただろうか? 最初から効果がなかったりあったりして一定の結論を導けないようにしかならないのが明白なのだ。
活性水素に戻って考えると、化学的にいえば、その効果が、消化管の内側以外にも影響を持つと考えるためには、それを証明して見せる必要があるだろう。
上記の活性水素水サイトは、九州大学の先生がキチンと説明していたこともふまえていないので、問題外。
医療情報学連合大会で、サイトの更新頻度は信頼性に影響を与えるという意味のことを言ったら、座長が「日付は関係ないでしょ、古文書なんか古いほうが良いわけだし」とわけのわからないことを言い出したので困ってしまった。
たとえば、20年前にFAXの解像度でスキャンされた白黒の『鳥獣戯画』(でもなんでも)のコピーと、今2,600dpiとかそれ以上の解像度でフルカラースキャンされたものの、どちらが良いかという問題であって、サイトが更新されなければ、いつまでもFAXのままなのだから、ちょっと考えれば更新頻度と信頼性には関係がでてくるのは明白だと思う。
古文書の製作年月日は、新しいほうが良いとはいえない典型的な例だが、ウェブサイトでは、その古文書の別の写本が見つかったかどうかについて、今日現在までの情報を与えてくれなければ、それだけ信頼性が低下する、とわかりやすく言えばそういうことになる。
ていうか、僕が勝手に言っているわけじゃなくて、もともと米国のタフツ大学やスタンフォード大学のウェブの信頼性に関する研究で言われていることを踏襲しているに過ぎないのだが。
実際に発表をした共同演者の女性は、卒なく切りぬけて、その見事さにもちょっと感心した。そういうのはやはり女性にかなわないというのが偽らざる最近の心境だ。
でも、自分では常識に類することだと思っていたので、座長の先生だけでなく、フロアからも同じような質問をされたのはちょっと(どころかかなり)ショックだった。
「小学生に最新の知識は必要ないでしょう?」とにやにや笑いながら言われると、まったく同じことを三年前に二十歳の女子大生に言われたことを思い出す。
もちろん、ほとんどの場合必要ない。でも、いつのまにかバターよりマーガリンが良かった時代は去り、今はマーガリンよりバターが良いと新聞などでは言われ、現実は考え方によって微妙にどちらかに傾く(つうか、どちらでもなくオリーブ油というのが良い子の答かな)という現実の中で、「古文書は…」とか思わず言い出すヒトがいたりして。
僕は、マーガリンが良いと単純に信じて育ったけど、いまそんなことを無邪気に書いてあるサイトは明らかに間違っているし、そんなものを子供に見せて信じられたらたらまったものじゃあない。
報復はまさかないと思うけど、この世界、なにがあるか予測がつかないので、ここで止めておきます。ピーターパン縊死っていうのかな、ティンカーベルジョイっていうのかな、よくわからん。
僕も共同演者も、これでかえって医療情報学連合大会というものを見なおしたのは皮肉かもしれない。他の学会だったら、コンピュータが分らないということで、この手の質問はないのが普通なので、こんな議論のし甲斐のある学会ならもっと積極的に出してもいいねと互いに確認しあってしまった。
座長の先生は(義務で居たので)ともかくとして、日本で最初の帝国大学になったある国立大学法人の先生は、…いや。…まだオレ失脚とかしたくねえし。
国内では、今現在売れ筋の商品らしくて、うかつなことは言えない状況にある。暗闇で刺されるかもしれない。
国立健康・栄養研究所では、動物実験の結果として、あまり大量の摂取は良くない結果をもたらすと解釈できる論文を発表しているようだが、別の北欧の研究者らは、ヒトに実際に投与して悪い結果を得てしまったという論文を発表している(もちろん、悪いと思われた時点で実験は中止された)。
動物とヒトにおいて悪い作用が観察された健康食品が、そのような事実を隠蔽されながら売られ続けているように見える実態というのは、日本に特有というわけでもないようだ。
飲みすぎなければ良いということなのかもしれない。
でも、計算してみると、ヒトで悪い作用が現れる(具体的にはグルコース不耐症?という糖尿病の一歩手前と考えられる状態になる)という用量は、常用量の二倍程度なのだから、薬理学的に考えれば、常用量ですでに飲みすぎの状態になっているヒトがいる可能性も、飲み過ぎ状態とはいえなくても、なんらかの副作用が起きている可能性もある。そうではないという可能性もないわけではないということは、普通は研究者は自明のこととして言わない。
用量作用曲線というものは、薬物でも食品でも、なにか明らかな影響を示すものであれば作れるというか、概念的に考えられるし、実際に測定して作ることができる。
そこで曲線に現れる薬理作用というか、生物学的に影響が出るということの実態は、その物質が細胞の受容体に結合した(または結合を邪魔した)結果現れるか、細胞の中に取りこまれて現れる場合がほとんどだと思われる。
ということは、作用の現れ方の根本には、用量、つまり物質の数と受容体や細胞の数の割合が関係しているということになる。
たとえば、まったく欠損症のヒトでない限り、お酒は、ビールをコップに一杯でも酔う。そこから一気飲みボトル1本まで、大半のヒトがこの間を上下しつついい気分になっている。決して10リットルから1,000リットルの間になったりはしない。
別のたとえでいえば、普通のヒトがフル・マラソンをするなんてとんでもないと思うかもしれないけど、考えてみれば、四十キロちょっとなのであって、決して400キロでも4,000キロでもない。
そういう一般的な事実から鑑みて、二倍量で病気になるものが、一倍量(つまり常用量)で影響が皆無であるためには、どういう状況が想定されなければならないか、ということである。
実際に痩せるなら、そのリスクは検討しても良いかもしれない。でもね…。あっ? いや、あんたたち誰? えっ? エーッ…?
まあ、冗談はさておき、動物実験の結果によれば、確かに痩せるらしい。ヒトがどんな価値観を持とうと自由なので、痩せることが糖尿病になるリスクを高めてもかまわないのなら、それはそれで問題がないというわけ。…かな?
こういう研究は、なぜか国の公的なサイトには掲載されない。というのは、常用量でダイエットを遂行し、かつ何の病気にもならないヒトもたくさんあり得るという状況の場合、こういう無害なヒトたちに訴えられるかもしれないから。
アスベストと違うのは、将来なにかあっても、決して救済されません。というのは、CLAを飲むのは極めて私的な行為だから。証明できないだろうし、証明できても勝手にやっただけのことだと突っ撥ねられるのがオチ。
もう、ぜんぜんオチてないじゃない!
コエンザイムQ10とか、α(アルファ)リポ酸?とか、カルニチン?とか、今年の健康食品のトレンドは明らかに、ヒトの体内にあって、別にビタミンのように補給する必要はないけれども、老化?に伴って減少していく物質にあったという気がする。
老化に伴って減少していくというところがミソ。
老化に伴って髪の毛が減少していくのは男性に顕著な現象だが、じゃあ発毛促進剤によって毛がたくさん生えてくれば老化が抑制されるのかといえば、そんなわけ、ないに決まってる。原因と結果の関係を因果関係と言い、そういう関係の場合に、結果のほうだけを抑制しても原因は抑制されないからだ。
頭皮に付ける薬では、老化の本質に迫れないというのは、分りやすい考え方(だって頭に何かを塗ったとして、それが心臓や肝臓、もっと近くの脳に入って効くと考えるヒトは日本では少数派でしょう? 目薬をさしてもそれが脳に達すると考えないわけだから)。
CoQ10?やアルファリポ酸などは、補酵素として、酵素の働きを補う役目を、細胞の中で果たしている。原因は未だにわからないけれども、老化というのは細胞が若い頃のようには働かない現象である。ということで、三段論法的に、これらを補ってやれば老化が防止できるかもしれないという期待は、上の発毛剤の場合と同じ理屈なのだが、ひょっとしたらもっと原因にかかわっているかもしれないという期待があるところがちょっと違う。
実際、これらの補酵素は生存に取るに足らない補酵素とは言えないし、老化のメカニズムに無関係とも断言できないからだ。
だれも老化のメカニズムを断言できないのだから、これは当然のことである。
そうはいうものの、僕は個人的には、これらの商品と、AHCCの間にどれほどの違いがあるのかがよくわからない。祈りの効果も、そのひとつだ。
還元論者と非還元論者の対立のような図式があるのだろうか?
僕は、効果のない(仮定です。実際にはこれからの研究で決まるわけですから)健康食品のうちで、構造式やヒトの体内に存在することを理由に、これはまともだという考え方は、還元論的である。そういうヒトが祈りの効果?を認めることは、まずあり得ない。同時に、AHCC?のように、お金のためかもしれないけど、その臨床試験をやっている関西医大?の研究を無視して、構造式がわからないことを糾弾したりする。
三共が製品化したオリザニン?は、当然の事ながら商品名だったのではないか?
話の流れを見ると、まるで僕はAHCCも祈りの効果も認めているような印象を持たれるかもしれないが、それが一番間違っている。
全否定するほどの自信が僕にはないというだけだ。
世の中には、まるでこれだけが世界だというように物事を分けてしまうヒトが存在する。ヒトというのは、既に分れているものを新たに分けなおすのはかなり苦手である。だから、コペルニクスが地球が動いていると考えるほうが合理的ではないかと考えても、なかなかそれを正当化できないで時間が過ぎてしまい、そのためにはガリレオ・ガリレイを待つ必要があったという事実から、分けるのが上手なヒトは、きっとガリレオのような何百年にひとりという科学の天才であるのかもしれない。
AHCCみたいな訳のわからない名前の物質をもっと正確に記述できないのかといういらだちがある一方で、こんな子供の戯言みたいな言い訳を許容できない偏狭さにはもっといらいらする。政治? だとしたらそれはフォロウできないな。
最後に。
僕は宗教的な祈りの効果を信じたいという気持ちは人一倍強い人間だが、それをRCT?(無作為抽出対照試験?、つまり誰が検証したいクスリを投与されるのか、診察している医師にも決定できないという、現時点ではもっとも信頼できる結果が得られる臨床試験)でやることは、神への冒涜以外の何物でもないと思う。
当たり前の話だが、このような宗教に関する問題を科学に持ちこむのはあきらかに間違いだ。それはカントが既に指摘していたのではなかったのだろうか? 純粋理性?と実践理性?という形で。
思いつきで言うと、これは実は実存主義なのだな。なんて、いつまでも偏狭なコロニーに留まっていないでさあ、つう話かもね。
だから、コロニーの支配者に無視されるわけです。若いヒトは真似しないほうがゼッタイ良いゾ。
これはある意味では極めて単純な教育論?である。フレイレという教育学の分野では有名らしい先生(すみません、知りませんでした)が、インディオに識字教育?をするときに用いた手法というか、基礎理念というか、それがエンパワメントということだったのだ。
その後、黒人貧困家庭?の救済といった問題から、糖尿病教育?へとその精神が受け継がれていき(つうか、お手本にしていろいろやってみたというわけだろう)、それが病気ではないヒトに対する栄養教育?まで展開した(しつつある)ということだ。ただし、まだ行きついたというわけではないかもしれないけれど。
もともとこの手法は、字が読めなくて相当困っているはずのヒトを対象にしたものであって、字が読めないという人間は、通常収入も低く社会的に差別されていることが考えられる集団である。
そのような集団においてさえ、彼らのプライドというものがあるということが重要な課題になるというのに、なんの問題もない、単に太っているとか血圧が高いというだけの人間であれば、エンパワメントされていると感じた瞬間に激怒してちゃぶ台(いや、診察台か…)をひっくり返して立ちあがってその場を去る、というような事態に立ち入りかねないことは容易に想像できる。プライドの高い、特に男性にはそのようなこともあり得るだろう。
ただし、それは失敗例である。
エンパワメントの真骨頂は、プライドを傷つけられたとは感じないところにあるのだから。
親身になって話を聞く。やりたいことを実現してあげたいと思い積極的に荷担する。いつでも中心にいるのは当の患者である。本当にうまくいったエンパワメント教育においては、患者は自分が患者であることさえ気が付かないのではないかと思う。
ただし、ここのタイトルにもなっているダイエットエンパワメントは、少し違うものだ。
まず、これはエンパワメントされた食事というような意味合いでもあって、かならずしも主体が人間ではない。それ以外の点については、追々見ていくことにしよう。
28日の日記には、フレイレの方法論がプライドを傷つける、みたいな記述があるが、糖尿病患者への栄養教育として確立されたエンパワメントとごっちゃになっているところがあって誤解を受けるかもしれないので、もう少し書いておく。
傾聴されたり、患者の意思が常に尊重されるという言い方をエンパワメントではするが、フレイレの本では、前者はあくまで「対話」だし、後者も「生成テーマ」(に対応すると思うが、間違っていたら教えて下さい)ということであって、どちらも一言で言い表せない微妙な概念だ(単純化されることが悪いとまではここでは言わない)。
だから、両者を混同するのは、本当は間違いなのかもしれない。エンパワメントの教科書にも、フレイレが始祖だと書いてあるものはあまりないように思う。その辺りのことは、わたしは素人同然なので、自重しないといけないと感じる。告白すると、ある看護師が書いた、糖尿病教育にエンパワメントを取り入れた本の注釈で見ただけなのである(しかも、その本はエンパワメント以外のものも取り入れた、大変実用的な本であって、理論の本ではない)。
もっとも、フレイレを読むことで、エンパワメントに感じていた少しばかり偽善的な感じが払拭されたのだから、その誤解は正解だったのだけれど。
教育者とソーシャルワーカーと、医師と栄養士と看護師。教育のことをもっとも理解しているのは、やはり教育者だろう。理解という言い方が良くなければ、その分野においてもっとも遺漏や錯誤が少ないヒトと言ってもよい。
エンパワメントという用語自体、フレイレとは関係がないのだから、フレイレにしたらいい迷惑かもしれない。ひたすら、実用書(失礼)に真理を求めたわたしが悪い、ということになる。
医薬品の相互作用にはそれなりの歴史があるが、健康食品には、相互作用はおろか、有効性や安全性の歴史さえ、あまりないというのが現時点での真実である。
もちろん、死亡事故が起こったりしている商品の中には、違法な医薬品が添加されている場合がいくつもある(最近では天々素など)というのは事実だが、それがすべてというわけでもない。
相互作用で有名なのは、セントジョーンズワート(セイヨウオトギリソウ)による薬物代謝酵素の活性化だろう。薬物代謝酵素は、薬物の作用を強めたり弱めたりいろいろなので、問題を起こしやすいのである。
クランベリーもわりと欧米ではニュースになりやすい健康食品だ。それほど人気の高い商品というか、日本人にとってのウーロン茶のような感覚なのかもしれない。それにしても、クランベリージュースしか飲まないというのが、日本人の感覚からするとまず驚きだと思うのだが、案の定それでもともとからだの悪かったヒトが死亡する事故も起きている。
だが、クルクミンの場合は、複数の例があるし、そもそもクランベリージュースのようにクルクミンを服用する(ウコンだけしか食べないって?)とは考えにくいので、どうして事故が起こるのかが見えにくい。
基本的には(というなら、クランベリージュースだってそうだが)、クルクミンはカレー粉に含まれているわけだし、良い効果がいくつも報告されている。それに二日酔いに効くと聞いても危険なほどに飲むヒトがいるとは考えにくい。
とすると、ひょっとして、この二日酔いの防止ということが鍵なのではないか、と思えてくる。
つまり、二日酔いを防ぐために飲むヒトは、その前か後にかならず飲酒しているはずなのだ。肝臓の機能に負荷がかかっている状況では、ひょっとすると、クルクミンは悪い影響を及ぼすのではないかという推測がむくむくと頭をもたげてくるが、このあたりは単なる想像なので、あとは読者諸兄の判断を仰ぎたい。
そいういう論文が出たりする。
論文だから信頼性は低くはない。
とはいえ。
ちょっとだけ、というのがキーワードになる化学物質はそんなには知られていない。少なければ少ないほうがより良いように見えるとしたら、まるでホメオパシーじゃないか?
だれもが知りたいだろうと思うのは、一週間24x7時間のうちに、何gのアルコールが閾値になるのかということだろう。
アルコールの摂取量との因果関係があるのならば、これは算出可能な量である。
出せないならば、真実の関係はアルコール以外のところにあるということだと思う。
表題は、栄養学では有名な話だが、これも昨日の太らないというのと同じで、ちょっとの範囲が不明確だし、用量作用曲線の一般的な考え方に反する。
と、思っていたら、Lancetに載ったコメントが、まさにその通りのことを言っていた。
アルコールは血管をきれいにもするし、心臓病のリスクを下げもする。だからアル中で死んだ人の血管は意外に詰まってないのだというようなことが書かれている。
しかも、そういうアルコールの効果は、やっぱり小量ではわずかなのだそうだ。
当該記事はコメントなのだが、その前提には最近明らかになったいくつかの研究結果がある(詳細はリンク先の論文の引用文献を参照のこと)。だから単なる夢想という訳ではないのはもちろんだ。
でも、だからといって積極的に飲酒を勧めるのはお調子者の誹りを免れまい。コーヒーだってそう安易には勧められない御時世なのだから。
結局一、二杯ならという結論に落ち着くことになるわけだが、そこにはあの不可思議な2次曲線の底は存在しない。一、二杯で健康に良いというなら、四、五杯だって同様に健康に良いのではないかと、酒飲みの常としていつも心にひっかかっていた疑問が解けて、これで安心して今夜からまたいくらでも飲める(飲んで良い)と言いたいところだが、もちろん健康という人生そのものと同義なくらい多様な概念の一部にとっては良いというだけの事で、酔っ払って泥酔したり二日酔いになったりして、健康に良いといえるはずもない。
くれぐれも飲みすぎにはご注意を。
ナッツや種子に血清コレステロール値を下げる働きがあることは知られていたけれど、このたび農芸・食品化学雑誌に掲載された論文によると、なかでもとりわけ効果的なのは、ひまわりの種とピスタチオだということである。
でも、日本人はひまわりの種はあまり食べないよなあ。ピスタチオも高いし……ぶつぶつ
もちろん、幸不幸というものは、個人々々の考え方に左右されるから、幸福にしないと断言はできない。
しかし、臨床内分泌学代謝学雑誌の90巻9号に掲載された。コレラ(Corella)らによる「ペリリピン・ローカスに11482G>Aポリモルフィズムを有する肥満者は食事エネルギー制限による体重減少に抵抗性がある」(Corella D, Qi L, Sorli JV, Godoy D, Portolés O, Coltell O, Greenberg AS, Ordovas JM. The Journal of Clinical Endocrinology & Metabolism. 2005; 90(9): 5121-5126. "Obese Subjects Carrying the 11482G>A Polymorphism at the Perilipin Locus Are Resistant to Weight Loss after Dietary Energy Restriction." )という論文は、一部の太るのが嫌いな女性にとって(日本では多くの女性がそうだと思う)の死刑宣告のようなものだ。
まあ、考え方しだいなのだけれど。
論文は、遺伝子の変異を持つヒトが、エネルギーを制限した食事を続けても、まったくと言っていいほど体重が減少しなかったという結果を示している。このG>Aの変異がないヒト、つまりGのままのヒトでは七キロほども体重が減少するほどのエネルギー制限だというのに、である。
ただし、この遺伝子は、食事による体重変化に抵抗するものなので、太っていないヒトならば、逆に安心できるという要素もある。つまり、食事だけではなかなか太れないのだ。
といっても、論文に出てくる患者さんたちは、そのような遺伝子を持っていても、100キロ超の体重になることができたわけだから(それでも明らかにG型のヒトの平均よりはかなり軽かった)、安心できるわけではない。
論文を全部読んだわけではないので、ひょっとしたらどこかに書かれているかもしれないが、単に食事だけではなかなか太らないヒトが、100キロになる原因こそが欧米の肥満社会の病巣なのではないのだろうか? 臨床試験はスペインで行われているので、具体的にはスペインの、ということになるけれども。
著者らは、これはスペインの特定のエスニック集団における結果なので、他の国やエスニックのことはわからないと語っている。
さて、日本では?
タイトルにあるプリン(PLIN)というのは著者らが、論文の中で、ペリリピン・ローカスのことをそう呼んでいるところからとった。ペリリピン・ローカスというのは調節遺伝子ではなくて、たんぱく質ペリリピンを作り出す遺伝子。つまりG>Aの変異は、機能が優れているか劣っているかあるいはまったく働かないペリリピンを作り出していると考えられる。
ペリリピンがなにをしているのかはまったくわかっていない……
メドラインプラスの記事によると、子供は1日12-15時間眠るのが良いそうだ。でも生理学的な根拠はよくわからないらしい。
実際に子供の睡眠を観察した結果、そのような結論に達したとのこと。
論文は、『睡眠』に掲載。
まるでドイツで暮らしていた時のように寒い。ここ何年か、こんなに寒く感じたことはなかった。というか、東京の寒さはもっと違う感覚だった。ただ屋外に立っているだけで、身体が芯から冷えてくるほど寒い冬は久しぶりのような気がする。
夜中に原稿を書くのも寒いので、暖かくなるまでちょっとパス。
食事: 食物繊維をたくさん摂取しても結腸直腸がんのリスクは変わらない
EurekAlert より:
13の前向きコホート研究のデータを解析しなおした論文。データは、725,628人の男女を6年から20年にわたって追跡した結果で構成される。そのうちの8,081人が結腸直腸がんと診断された。食物繊維の摂取は、たしかにがんのリスクを下げるのに役立っているように見えたのだが、他の食事因子(葉酸、赤身肉、乳製品、アルコール)などの影響を取り除いていくと、最終的に食物繊維の摂取はがんの発症に対して有意ではないが弱い正の相関性をもっていることが明らかになったという。つまりリスクを上げるということだ。記事には書かれていないが、これは食物繊維のサプリメントを飲むのは良いとはいえないが、通常の食事として食物繊維を多く摂るならば、結果的にがんのリスクを下げることが期待できるということではないだろうか?
出典は『米国医学会誌』
食事: MedlinePlus: 魚の摂取は高齢者の脳を鋭くしておく手助けをします
MEDLINEplus より:
週一回以上魚を食べる高齢者は、同年代の他の人に比べて脳神経機能が三歳も若い状態だという。日本では食べない人を見つけるほうが難しいでしょうから、みんな三歳若いってことで。
出典は『神経学アーカイブス』
メドラインプラスの記事によれば妊娠してもコーヒーの消費を減らせない女性は、アルコール中毒の家族歴とカフェイン依存症を共に持っている傾向があるという。
精神医学の雑誌だから、割り引かないといけないかもしれないけれど。
まず、44人の妊婦を対象にした研究である。わたしが小学生の頃は一クラスが45人だった。あのときはもちろん男女半々だったが、それが全部妊娠している女性だというだけのことだ。いったいどんな風にすれば一般論を引き出せるのだろうか?
コーヒーというか、カフェインには妊娠に悪い影響を及ぼす可能性があると書きながら、妊娠の経過(実際に悪かったのかどうか)については書かれていないようだが、それは当たり前の話で、たった44人の妊婦のデータでは、論文にはなりえないからだ。
でも精神医学ならなるんだよね。実際こうして出版されている。
もちろん、効果を測る時に必要な検体数というのは、効果の大きさによって異なってくる。パワーと呼ばれるものだ。カフェインと妊娠の予後については、この程度の検体数では明らかにパワー不足なのだが、コーヒーの消費量には充分だということなのだろうか?
それともこれは質的研究なので検体数は関係ないのだろうか?
どうしてもカフェインを断ち切れないのは生まれがそうさせるのだとか。やめたいのにやめられないそうだ。それで一日三杯もコーヒーを飲んでしまうという。
論文の要約に、こういう妊婦らは薬物にはまりやすい可能性があるので注意が必要と結論されている。はあ。
出典は『米国精神医学雑誌』。
プロポリス(蜂蝋)は、西洋では古い歴史をもつ民間薬のひとつである。ギリシャ時代の哲学者アリストテレスは同時に自然科学者としても著明な業績を残しているが、その著書のひとつ『動物誌』でミツバチの生態を詳しく述べるなかで、蜂蝋(ただしプロポリスという言葉は使われていないようだ)を切り傷や腫れ物の治療に軟膏として使うらしい記述が見られる。飲み薬ではないようだが、薬には違いない。
ミツバチの記述が極めて詳しいのは、この時代にすでにギリシャには養蜂家が存在したかららしい。彼らは、蜂蝋のことをコンモーシスと呼ぶ、とアリストテレスは書いている。
検索すると、多くのサイトで、アリストテレスがプロポリスの命名者(またはすでにその当時そう呼ばれていた)かのように書かれているが、実際にそうだったかどうかを示す証拠は見つけられなかった。蜂蝋は部分によって、ミティスとかピッソケーロスとも呼ばれていたようだ(これもアリストテレスの前掲書)。
英語のサイトでも、プロポリス(propolis)は、ギリシャ語で前を意味するプロ(前向き研究を意味する英語プロスペクティブのプロと同じ)と都市を意味するポリス(メトロポリスのポリス、て説明するまでもないか)の合成語で、アリストテレスが名づけ親のように書いている(日本語サイトは多分その受け売りの可能性大)。
どれも健康食品販売サイトか、養蜂業者のサイトのようだ。せめて文献を引用してくれると助かるのだが、恐らくほとんどのサイトは単に他のサイトを引用しただけだろう。
『ナチュラル・メディシン・コンプレヘンシブ・データベース』という、HFNETでも頻繁に引用されている米国の健康食品データベースでさえ、引用元が某販売サイトになっているのには笑ってしまった。
(英語なら)ペンギンだってロエブだって(後者はしかも原文対照訳だ)あるのだし(日本語でも『動物誌』は岩波文庫、それ以外の自然科学系の著作は岩波から全集が出ている)。
名前の由来はともかくとして。
プロポリスを飲用するようになったのがいつ頃からなのかは知らない。アルコール抽出液を飲むのは、もともと蜜蝋というように蝋なので軟膏にはできても飲むことはできなかったからだろう。おそらく食べることはもっと困難だったのではないだろうか(見たことがないので推測でしかないが)。梅酒のようにプロポリスをつけたのが始まりというのは、いま思いついただけの空想だが、古くから知られているものなので、あってもおかしくないと思う。
アリストテレスのことを知るまで(ということは二、三日前まで)、プロポリスというのはブラジルのインディオの民間薬に由来するのだと勝手に信じていたが、そうでないならプロポリスの採取地がブラジルであることを宣伝する理由がないので、アリストテレスも書いたけど、今の形はブラジルが原型という図式なのかもしれない。
まさか、あのアガリクスのように、ブラジルのインディオの食用キノコがいつのまにかがんの特効薬に、米国人研究者の手で祭り上げられてしまったようなことはないと思いたいけど。
プロポリスは、その由来からして当たり前ではある(花粉が多く含まれる)のだが、アレルギーの報告が極めて多い。それ以外の副作用はほとんどないというのは本当かもしれないが、アリストテレスが記述していようが、インディオの秘薬(かどうかは知らない。筆者の勝手な推測)であろうが、そもそも何かに効くという(科学的な)根拠があって使われ始めたわけでないのは、アリストテレス以前からあるのだから明らかだ(ちなみに、アリストテレスは、重いものは軽いものより速く落ちると書いているし、女性は尿道口より前に穴があってそれを覆うように鼻のようなものがあってなどとわけのわからないことも書いている。自然科学者として偉大ではあっても、それはプトレマイオスがそうである程度でしかない)。
健康食品には、違法医薬品を添加した中国製保健食品(まともなものもたくさんありますが、素人では区別できないというか、だれにもわからない)からヨーロッパの民間薬まで、様々なレベルの製品が混在している。
アガリクスは、生活習慣病が少ないインディオが常食していたからいつのまにかがんの特効薬にまでなった。プロポリスがそうならないのは、シイタケがそこまでいかないのと同様の理由なのかもしれない。
もちろんシイタケというのは、あの椎茸である。英語の論文だけ読んでいるとアガリクスより椎茸のほうが効きそうな気がするほどだが、日本人のだれが、がんの特効薬シイタケなんて信じるだろう?
プロポリスはアリストテレスの昔から使われているのだから、(ヨーロッパの人間には)さらに幻想(妄想?)は少なくなる勘定だ。
というわけで、健康食品の効能を語りたがるヒトには、まずシイタケと大豆の奇跡の効能を話すことにしている。ワカメと蒟蒻を加えても良い。世界一長寿で、健康寿命もそうであるなら、それらは食品としてのアプローチとして充分な魅力を備えている。
でも、国内の健康食品業者には、魅力はないというに過ぎない。普通に生活しているのが、日本人には一番長生きできる秘訣だというのは、絶対に言ってはいけないタブーだったりして。
ラクトフェリンというのはその名の通り、母乳に多く含まれる強い鉄結合能を有する分子量8万の糖たんぱく質である。母乳だけでなく、涙や唾液など(もちろん血液中にも)にも含まれていて、動物の特に粘膜を細菌やウイルスから防御する役目をはたしていると考えられている。
精液にも含まれるし、膣分泌液にも含まれる。感染防御という意味では、いかにもありそうなことである。
母乳に多く含まれる理由は、乳児を感染症から守るためだという説明は、同じようにもっともらしい。でも証明するのは難しいだろう。母乳には他にも免疫グロブリンAのような免疫物質が多く含まれているからだ。
それよりは、母乳中の鉄は大部分がラクトフェリンと結合しており、乳児に鉄分を補給するというほうがより重要な役割のような気がするが、違うだろうか?
まあ、乳児はサプリメントを飲むのではなくて、母乳を飲むのだから、実際に何がどう効くのでもかまわないといえばかまわないのだけれど。
さて、ヒトの身体の中に存在し、涙、唾液、滑液、精液、さらには小腸壁などにも分泌されるらしいこのたんぱく質、老化によって低下するわけでもなさそうなこのたんぱく質を、サプリメントとして飲むおとなのために、われわれはどのような理由を提供すれば良いだろう?
最近では、骨を作るために必要という文献もある。安全性が高い上にウシ由来のラクトフェリンはいくらでも調製できるので、健康食品業界の期待の星という説もある。
ただし、ウシのラクトフェリンはヒトのラクトフェリン受容体と結合できないので、人工乳に添加しても鉄の吸収はよくならないらしい。そうなるとウシ由来のものには免疫でぜひがんばってもらいたいと思うのも人情かもしれない。…じゃなくて、あきんど根性というもの、かもしれない。
個人的にはプロポリスは絶対に飲みたくないが、ラクトフェリンならかまわない気がする。お母さんのおっぱいを飲んだことのあるヒトなら、かならず飲んだことがあるわけだし、そもそも唾液には同じものが含まれているわけなのだから。とはいえ、自分から積極的に飲むことは他の健康食品でもそうだが、この先も当分ないだろうと思う。
戦場のメリークリスマスのキメ台詞をドイツ語でいえばそうなるが、あまり意味はない。デヴィッド・ボウイは、イギリス人だし、第二次大戦中、ドイツと日本は同盟国だった。捕虜になるはずもない。
25日はもちろんクリスマスだが、ドイツではこのあとは31日の大晦日、ジルベスターまでなにもない単なる休暇(クリスマス休暇)だが、イギリスでは、26日はボクシング・デイがあって、これはすべての使用人のための休日である。よくは知らないのだが、実際に23日〜27日まで滞在した(27日までにしたのは、特に意味はなかったが正解だった。というのは26日だったらホテルを出てもどこにもいけなかったからだ)結果、12月26日の威力を思い知った、というわけだ。
ドイツでクリスマスシーズンを何度か過ごしたことがあるけれども、ドイツでは上記のように26日以後は大した催しがない(地域によって1月6日の十二夜、シェイクスピアの戯曲の題名にもなっているあれ、はあるがあとはカルナヴァルまでなにもない。大晦日と元旦は祝うが日本とはくらぶべくもない。とりあえず休日という感じだけである)。
その年も、クリスマスシーズンをドイツで過ごすべく出かけたのだが、その途中のクリスマス休暇に、機関車トーマス(といっても単にあの顔が機関車の先頭にぶら下がっているだけで、ウチの子は、ひょっとして本物のトーマスに会えると期待していたらしく、本物のトーマスがいるかと思っていた、と消沈して話していたのを思い出す。親としては申し訳ないけど、しかたないことである。でもそのときサンタさんにもらったプレゼントには喜んでいたと思う。それはサンタさんから直接貰う最初の経験だったから。でも、その滞在でその後、二人の(多分)別のサンタさんにあってプレゼントを貰った時はわからない。イギリスに、サンタさんに実際にあってプレゼントを貰う催しが各地にあることはわたしも知らなかった。子供が、トーマスのようにサンタも虚偽だと悟ったのか、それともサンタさんは複数いると思ったのか、今に至るまで直接聞いた事はない。それはともかく…)に乗るべく、バーミンガムへと出かけたのだった。
バーミンガムの印象といえば、なぜかドイツのたとえばケルンやデュッセルドルフを思わせる街並みはけっこう印象的だった。ただ、周辺の黒人とアジア人の住む地域は、実際にトーマスに乗りにでかけて、それしか帰る手段がなかったバスに乗らなかったら気が付かなかったかもしれない。日本ではまず見かけることのない低所得者層の居住地域に嫌でも気付かされて、イギリスがいまでも貴族がいる社会であることを意識せざるを得なかった。ドイツ、イタリアのホテルの清掃係は廊下ですれ違うと陽気に挨拶をするが、イギリスでは俯き加減に黙って通りすぎる(気のせいだろうか)。
それはともかく、クリスマスである。
ドイツでは、クリスマスだろうとそれ以外の祝日だろうと、ドイッチェバーン(ドイツのJR)の駅はかならず営業していた。イギリスもそうだろうと単純に考えていたが、それがとんでもない間違いだった。
おおかたの旅行ガイドには書かれていると思うので賢明な読者諸姉はご存知のことと思うが、イギリスではクリスマス・シーズンの23日から27日あたりは別料金で普段の2割増になる。中には宿泊できないホテルも多い。メイドさんたちが働かないからだ。
イギリス人としては、クリスマスとそれに続くボクシング・デイというのは、多分日本の大晦日と正月のようなところが多分にある。最近でこそ日本でも元旦から営業というのは珍しくなくなったが、二、三十年前には、三が日を終えないとお年玉の使い道もないのが一般的だった。
そんな事情を知らずに予約のできるホテルを探し、実際にバーミンガムに滞在した結果、日毎に食事さえままならない状況になり、昼食と夕食はルーム・サービスのサンドイッチを頼まなければならなくなった。というかルーム・サービスはサンドイッチとコーヒー、紅茶だけになってしまった。それでも朝食はついていたが、ルーム・サービスと同じで食堂にいってもパンとバター以外にはたいして期待できないメニューになってしまっていた。
ホテル以外の店は、レストランでさえ、みな閉まっていた。
なによりも閉口したのは、駅までもがシャッターを下ろしていたことである。これは日本ではおろか、ドイツでもあり得なかった事態だった。
考えるまでもなく、電車の運転手や車掌が労働者中重要なポジションを占めているのは最近のニューヨークの地下鉄ストの例もあって一目瞭然、少し年長者なら国鉄や私鉄のストが記憶にあるはずだ。ボクシング・デイならば休んで当然なのである。
おかげで本当の休日を過ごせた(周辺を歩く以外にすることがなかった)なんていうのは、単なる皮肉である。26日は、食糧の調達さえ困難になり、フロントの女性と黒人男性(やはりそういうところにしわ寄せがいく。白人男性はいないのだ)が、いろいろ調べてくれたが、ピッツアの配達も休みで、確かマクドナルドに出かけたような気がする。が、記憶が曖昧だ。
わたしたちのような極東の田舎者にとっては、そんなときなぜかマクドナルドが強い見方になってくれる。好き嫌いではなく、現実としてそうなのだ。その時も、26日だったかどうかは忘れたが、一回はマクドナルドのお世話になった。もう一回はピザハットだった。ピザハットには、プラハでもお世話になっている。
クリスマスの当日を欧州で過ごしたのは2回だけだから、そんなに正確な情報を把握しているとはとてもいえないが、イギリスに旅行するのだけは避けるのが無難だというのが正直なところ。その後留学や出張で何年もイギリスに滞在した複数のかたからも、同様の意見をいただいた。
蛇足だけど、それは元日に成田空港に降り立つ外人さんといっしょだと思えば、なんとなくわかる気がする。不況のためか、最近は元日から営業するデパートも多いが、昔はやはりマクドナルドかケンタッキーくらいしか営業していなかったのではないかと思う。記憶は曖昧だが…
独立行政法人になったといっても、国立健康・栄養研究所は厚生労働省からの予算で運営されている国家機関である。
でもインターネットだと、どうも読み手の側にあるインターネットへの不信感からか情報に対する信頼性がイマイチなようで、そこにつけこんで(かどうかは知らないが)、民間の医師グループが科学的根拠に基いた情報を出版したりする。本のほうがネットよりも信頼が得られやすいからだ。
そこで、さっそく取り寄せて読んではみたが、HFNETの情報を読んでいるほうが絶対に良いといえる程度のレベルのものだった。引用文献が一般読者にとってどれほどの障害になるのか、想像できないでもない(わたしも文献だらけの文科系の専門書は、信頼はできても買うことは躊躇することが多いので)が、それでは科学的根拠のほとんどを無意味なものにしてはいないだろうか? 著者が医師であるというような根拠こそEBMが真っ先に疑ってかからなければいけないはずなのに。だから、HFNETへの信頼性の疑義は、HFNETの正当性の現われなのだ、とまで言ったら冗談にしかならないが。
とりあえず、出した者勝ち? ところが、いくつかの項目は勉強不足だし、そうでなければ、スポンサーがいるのかといわれかねないくらい大盤振る舞いしているように感じる項目もある。別にいてもかまわないのだが。後書きを読むと、こんなものを飲むくらいなら野菜と果物を摂ったほうが全然ましだと断言しているので、立場を異にしているわけではない。だったらそれを本のオビに書いたら良いじゃない? とは思ったけど。
そんなことをしたら、正直ではあっても、肝心の売上が伸びないわけですね。
HFNETでは記憶する限り、そこまで露骨に健康食品を差別していない。買いたいヒトにとって、間違いをできるだけ少なくしたいという思いであふれている。野菜や果物の摂取ががんに効いたというたくさんある疫学調査などにはふれずに、オタク心を害さないように心がけてでもいるようだ。
ただ、栄養学的には難しい問題が、そこにはある。
抽出された成分のカプセル錠(ビタミンでもカロテンでも)を飲むのと野菜や果物をを摂取するのでは、前者は飲んだ量がかなり正確に把握できるが後者は推定でしかないという問題と、前者(カプセル)は医薬品のように精製された成分既知の物質の摂取であるが、後者(野菜と果物)は何が有効なのかを知るのが難しい。
後者の例として、最近食物繊維は大腸がんにも予防効果がないという論文が出た。それまでは、他のがんにはダメだが大腸がんにだけは、と一縷の望みを託された状態だったのだ。
この論文を読むと、年齢性別などの因子の影響を除いたあとでも、食物繊維は確かに効果がある。だから従来の論文では効果ありと見なされていたわけだが、問題はその後で、食物繊維は野菜や果物に多いので、野菜や果物に含まれる抗がん物質(と思われる因子)の影響を除いていったところ、食物繊維単独では効果がないという結論に至ってしまった。
結局、野菜や果物を食べるしかないという結論にしかならないのだが、「野菜」も「果物」も色々な種類があるのは明らかなので、ほんとうにそんな漠然とした答しかないのか、ということになる。
人間の集団自体が多様性を内包しているので、それも充分にありそうな解ではあるが、そうなると年齢性別別に最適解をだしてほしいということになって、でもそこまでいくと、聞き取りによる食事調査のような方法ではもうお手上げということなのだろう。だからといってすべての食事を何年にもわたって正確に記録するなんて、何万人の被験者相手には不可能だ。
でも野菜にもより効果の高い野菜があっても少しもおかしくない。効果が高いのならそれは単一の成分なのか複数の成分なのか、ホメオパシーでないなら、何らかの実体があるはずだ。ではそれを抽出精製したものはなぜ効かないのか? 極めて多くの物質の混合物(つまりまるのままの野菜)でないと効かないというのなら、その理由が説明できなければならない。できないのなら精製したものでも良いはずだ。明らかに根拠という意味では未知の領域が存在しているに違いない。
そして、健康食品というのは、その混沌とした領域に存在している。それでいろいろな考え方が並立することになる。
整理してみよう。
ということは、
ホロンのような分解したら生物ではないという立場(科学的には異端と断言してもいい)ではない、通常の還元論の立場に立つならば、そのような結論しか出てこないのではないか。
もちろん最近の否定的な論文やその他の実験において、抽出物(特に脂溶性のもの)は抽出の過程で化学変化を受ける可能性が高い(遊離酸が塩になったりといった)ので、自然の状態のものに比べて効果が低い、というか吸収が悪くなるという報告がなされているので、そういうことはクリアした上でのことではあるのだが。
実際、ナトリウム塩とカリウム塩では効果が異なるような例はいくらでもあるので、健康食品にも充分にありそうな話ではある。ではその具体的な解決法、どころか現実さえ把握していないのだから、その信頼性はかなり低くなるということは言ってもいいかもしれない。
野菜や果物に含まれている真の有効成分を、野菜や果物に含まれているそのままの状態でカプセル錠にして、効果を検証できればいいのだが、それができないことをどう考えるかで、けっこう立場が分裂しているかもしれないとも思う。だれだってそのままに抽出したいと思うわけだから。
でもさ、どうでもいいけど、どちらも少しだけ欺瞞チックになってない?
しかし、一年366日はあっという間ではあっても、いろいろな事件とも呼べるような出来事もあり、思い出し始めると切りがないという気もする。
サイトでの事件といえば、ずっと約束していた『重ねるとカロリー』サンドイッチ篇、お昼なに食べる篇を、2004年の12月には一応完成していたにもかかわらず、その後の様々な事情によって、結局公開しなかったのが、いちばんの心残りだ。
これは2006年の3月までにはかならず公開して利用できるようにします。ひょっとしたら年明け早々にするかもしれない。現行の食事摂取基準に合っていないだけで、教育ツールとしては本質的な問題があるわけでもないし。
生活習慣改善のための自己学習システムも、完全な公開を果たせずにいる(新システムを一度は公開した。技術的にはどうということはないが、コンテンツ・マネージメント・システム(CMS)という最近のウェブの流れにそった、個人的には可能性を秘めた面白い試みだと思っている。国会図書館や情報学研究所のような情報のプロのサイトよりもうちのほうが数ヶ月早い。所詮流用に過ぎないけど)。果たし切れなかったのは、サイトの混乱の原因にもなった、開発会社の支離滅裂な申し入れのせいだ(といっても、そんな既知外のたわ言におろおろしてしまう自分もつくづく情けないと思う)。ただ、件の開発会社がパニくってしまうのもわからないでもないので、そのまま公開することはできないと思う(秘密裏にネットで実証実験をしているけど、攻撃対象にされないようにURLは非公開)。
Flashを使って自己学習システムの一部は自由に使えるようにしたが、その後開発が止まっている(これの開発はすべてわたしひとりでやっているので、ひとえにわたしの怠慢ではある)。
『きっずぺーじ』も長らくアナウンスされながら実現されていないものだが、これだけは、実は鋭意準備中ということにしておこう。というか、これだけを実現するために他のものが止まっているというのが嘘偽わらざる事実である。
ネガティブなことばかり言って申し訳ない。
実際に実現したことでいえば、EBISのページを立ち上げたし、リンクDEダイエットも日々マイナーチェンジを繰り返している。クラッキングなどの影響で、HATENAにページを作ることにもなったし(このページのこと。もっともこれは好きでやってるわけではない)、自己学習システムも独自ドメインを取得して外部のサーバで運用を再開しているのは、上に書いた通り。
この一年が、全体としてネガティブであることをわたし自身否定できないが、こういう年もアリ、で人生は過ぎて行くのかとも思う。
もっとも、インターネットでは、ということだ。それが実は一番の元凶だったりして(^^;
今日はボクの「なんでもない」日なので、三月ウサギ(まだ二月だけど)、帽子屋そしてアリスと一緒にマッド・ティー・パーティ(うそ)。
本当は、世田谷にある女子大の卒論発表会を聞きに行ってきた。
ゆあーん、ゆよーん、ゆあゆよん
渋谷から国道246号線に沿って走る鉄道の某駅で下車して改札を出ると、高校時代に同じ部の一年後輩だった川村毅の作・演出で江守徹出演の舞台が上演中であることを告げるポスターが柱や壁に数枚張られていて、驚いてしまった。
岸田國士戯曲賞も取り、商業映画監督もやっている(『ラスト・フランケンシュタイン』、柄本明、原田芳雄、余貴美子、唐十郎が出演している。わたしは東銀座まで観に行きました)けど、現代ではメジャーなタイプのテーマを扱う気がないらしいので、一般的な知名度はいまいちの感があり、最近はどうしているのかと思っていた。時々行く夏目坂のレストランに置いてある公演のちらしで見かけるくらいだった。
高校時代のカリスマぶりはすさまじくて、ボクの同輩後輩が何人か、そのまま彼の劇団に入ってしまったほどだった。ボク自身、上記の映画はロードショーで観るくらいには傾倒していた(DVDでているのだろうか?)。
でも、今日はなんでもない日だから、そのまま研究所に帰ってきた。というような冗談がまず通じない相手だったような気もする。ネットで検索すると、京都のほうで助教授もやっていたりして、活躍しているらしいし、今日見付けた公演は、余裕があれば正直観たいと思った。
彼を後輩に持ったことが稀有な体験だったことは間違いない(川村君は高校時代某部で私の次の部長をやったし、そういえば浪人時代は下宿に遊びにもいったっけ)。ただし、稀有な体験が50近くになっても、文字通り、ただのひとつもない人間は少ないような気がするというのも結構当っているかもしれないと思う。
川村君が後輩だった時代(つまり高校の時)、彼は演劇、映画、小説、詩をひとりでこなすマルチ人間で、国文の先生には、彼は間違いなく有名になると絶賛されていた。私自身は比べるのも恥ずかしい。演劇部の先輩に、萩尾望都の『三月ウサギが集団で』を貸してもらって、以後そっちの道を歩み続けているといえばいえるけれど、もともとマンガとSFとコンピュータが主な守備範囲で、自然科学系に進学したことにも何の違和感もなかった。もっとも大学を卒業するまで本物のコンピュータ(当時のマイコンが本物だとして、だが)には触ったことのないコンピュータ・オタクだった(プログラムは電卓で作っていた)。
そういえば、いま思い出したのだが、もう一年後輩に小斉平君という川村君とは全然別の意味で変わり者の男もいた。あいつも部長をやったはずだが、全く違う方向に行ってしまった(児童合唱団マネージャーから小学校教諭。問題起こしてなければ良いのだが)。私の前の部長もまた全然違うタイプだった。歴代の部長のその後の職歴リストを作ったらすごく面白い気がする(高校の現部長にメールしてやろうか)。それともあの数年間だけの特異現象だったのだろうか?
……という程度にしか思い出さないのも失礼な話だけどね。申し訳ないと思っています。
まさかよそうもつかないいんぼうが、……き、きみたちはだれだ、な、なにをする、はなせ、はなせーっ……
それはともかく、海の上から眺めたことしかなかった東京ビッグサイトに行って来たのは、東京インターナショナル・ギフトショーの見学のためだ。
もちろんマシュマロやクッキーを捜しに行ったわけではない。いわゆる「e-ラーニング」をペットに結びつけたオンラインシステムを製作している会社のデモとお話を聞きに出かけたというわけだ。
総合受付に到達するまでに、建物の外の歩道に延々とヤンキーよろしく腰を下ろしてお昼を食べている人々の列ができていて、「これは違う世界に来てしまった」と思ったが、実際に中に入ってからもその期待は裏切られなかった。仕事だったので、終わってすぐに帰ってきてしまったが、たまにああいう世界にひたるのも、いろいろアイデアを与えてくれるので有益だと思う。
余裕があれば、ついでにマシュマロも捜せたのに(ついでに記せば、朝日のマシュマロが終わってしまったのはもっと惜しいことだった)、と思いつつ会場を後にしたが、実際は、人ごみが大嫌いなので大急ぎで出てきたというのが本当だ。自分から自発的にフェアの類に参加したことは、アップルにもコミケにも一度もない。
帰りにおもわずソローの『森の生活』(岩波文庫)を買ってしまったことからも明かだ。『森の生活』は米国ニューイングランドの森の中でたったひとりで2年間暮らした著者の生活の記録である。
わたしは、休みの土日にはまったく一歩も家を出ずに過ごすことも多い。一日も家の中に閉じこもっていられない人間もいるが、わたしは食糧さえあるなら、一週間くらいは家から出ないでも全然かまわないタイプの人間だ。
二年間もひとりで暮らせるなら当然のことだが、作者が『エセー』のモンテーニュ同様、自分のことしか書けないと書いているのを読んで、もっと早くに読むべきだったかもしれないと思った。
でも、実際にはまだ数ページしか読んでいないので、思いこみが正しかったかもしれない(そういう例のほうが個人的には多い)のだけれども。
ギフトショーが森の生活に直結してしまえるヒトはわたしの隣人です。
原稿を書くために文献を調べていたのですが、ギリシャ・ローマ時代の文献に、たったひとつだけだけど、胃と肝臓の治療のためにプロポリスを内服すると書いた文献が存在するらしい。
ただし、現在知られているギリシャ・ローマ全15文献中の1であり、アリストテレスもプリニウスも外用のことしか書いていないので、内服薬としては通常は用いられなかったと判断しても間違いではないだろう。
現代と違って、アルコール抽出などしていない「蜂にかわ」そのものなので、それは要するに松脂のようなものである。プリニウスの時代には間違いなく外敵を寄せ付けない作用を持っているとは考えられていたようだが、多分飲むものではないと考えられていたのではないだろうか?
ニベアクリーム、オロナイン軟膏あるいはムヒがあまり内服には用いられないのと同じ理屈で。
それでも内服について書いた文献が残存してはいるので、実際に飲んだヒトもひとりやふたりではなかったと思う。
アルコール抽出がいつ始まったのかは、結局今回は調べ切れなかった。インカ帝国時代のブラジルなのか(だからブラジル産が良いと言われているのか)? それとも、もっとずっと最近のことなのだろうか? アルコール抽出しても薬効があるとわかったからやったはずなので、どうしてそういう結論に至ったのかは大変興味あるところである。
インターネットでは、そういうことは捜しにくい。基本的にGoogleなど現在の主な検索エンジンは人気投票に過ぎないので、読者が一番騙されやすいサイトが上位に来る。それは人気投票の宿命だ。筆者が記憶している典型的な例は、トランス脂肪酸の危険性に関するサイトで、そこでは脂肪酸の構造図が、まったくでたらめに書かれており、少しでも化学を勉強したものなら、ただちにおかしいことが察知できるが、Googleではトップランキングというものだった。
医学博士も取ったという管理栄養士に見せたところ、なんで問題があるのか、というので、脂肪酸の構造がおかしい(実際はめちゃくちゃ)だろうというと、そうかと答えてから、実は化合物の構造式のことはよくわからないと言われた。
TVなしの生活が多くの人にとって考えられないように、Googleの検索は大きな影響力を持ちつつある。大学の教養課程で化学を学んだ人間には、一見して出鱈目であることがわかるような構造式を載せたページが、Googleのトップか二番手辺りに位置してしまったら、Googleに科学知識の啓蒙を託そうという気持ちが雲散霧消するのは当たり前だ。
ところが、悲しいかな、現実にはそのようなページは依然としてGoogleの上位を飾っている。
筆者はGoogleはランキングをコンピュータにまかせているので仕方ないとずっと思っていたが、最近読んだ本によると、そんなことはないらしい。それが事実かどうかは知らないが、人間が動かしているコンピュータで、理不尽な結果がまかり通っているのを修正できないとしたら、ひどい話である。
世の中には理不尽なことが、現実に存在するけれど、自分に関係なければ見ないフリをすることが多いような気がする。
理不尽なことの最たるものは、自分の説明を聞いた相手が、翌日会議の席上で経営陣のまえで、その内容を、自らのアイデアとして話し、喝采を浴びている図であろう。アイデアが評価されたことはうれしいが、それで地位も給料も上がらず、せいぜいその説明した相手から多少の評価を受けるだけだったら、もうなにもするもんかという決意を堅くさせるには充分な動機かもしれない。
そうやって、実際に活性化のためのアイデアの芽を潰していると思うけれど、経営陣は、上がってこなかったアイデアについては蚊帳の外であって、つまり評価の外にあるので、気付くこともないというわけだ。
さすがに、いままでは給料だけは保証されていたけれど、4月からはそれもわからないらしいので、生きるための手段だけは確保しなければならないだろう。
それだけは、何をいわれようと、しょうがないじゃん。
昔、眉村卓が『消滅の光輪』をSFマガジンで連載していた時、いつも文章の見出しに「(承前)」と付記されていた意味がわからずに、なんとなくかっこいいと思っていた。司政官シリーズで最長のこの長編は、そのようにして少しずつ書かれていったが、当時(確か)高校生から大学生だったわたしには、お役所仕事を苦悩しながら遂行する主人公に感情移入することができなかったので、連載時もその後もまったく読んでいない。
読んでいれば、承前が(続き)を漢語で言い換えただけなのはすぐわかったはずだ。冷や汗ものなのだが、幸運なことに誰にも言わずに済んでしまった。
幸いなことに(?)、わたしはまだこの小説を読んでいない。大学を出てからお役所のようなところにも勤めたので、今ならけっこう興味津々で読めるのではないだろうか。
さて。
えーと。
なにが理不尽なのか、よくわからなくなってしまった。
承前というのは、いつも承前なので、2回以上続くと順番がわからなくなってしまう。雑誌連載ならばわからなくなるはずはないので、問題はない。
直接の関係はないが、あの(承前)に惑わされてしまうというのは、SFマガジンという入れ物が持っていた魅力というものも大きいような気がする。ミステリ・マガジンもそうだが、早川書房の雑誌は、他社の雑誌とはかなり違う雰囲気をもっていた。ミステリ・マガジンならそもそも使っている紙が全然違った。SFマガジンも表紙は、開くのが躊躇われるような厚い紙が使われていた。わたしは、初めて買ったSFマガジンの表紙を、後先考えずに思いっきり開いて折り目をつけてしまい、ずっとそれを後悔していた(コレクターになっていたら今でも後悔していたかもしれない)。
などと思いつくままに書いていると、また理不尽の内訳を忘れてしまいそうで、それはそれでちっともかまわないことだが、今回は忘れないうちに書いておこう。
と思ったが、残念なことにまた失念してしまった。
でも、こんな調子では、そのうち忘れたくても忘れられない記憶が、なにを書き出すかという恐れがある。国民のために良かれと思って書いていても、勤務時間中にBlogをやったと注意される御時世である。
仕事の一環として行っているBlogまで、規制の対象とならなければ良いと思うけれど。
20年くらい前にはやった歌。作者は前世紀の終わり頃に一時代を築いたけど、この頃は、まだ一部のファンしか知らなかったかもしれない。わたし自身は、TMNetworkのファンだった女の子に聴かされた。同じグループの『八月の長い夜』とこの2曲だけは印象に残っている。
「歌は世に連れ、世は歌に連れ」という言葉があるが、歌はある時代というか瞬間の記憶をまるごと呼び覚ます、一種の呪文のような働きをすることがある。プルーストのマドレーヌという感じだろうか。
マドレーヌなら長い文学的な営みにもなろうというものだが、音楽の呼び覚ます記憶は、なぜかほろ苦いものが多い。思い出した瞬間に、顔をしかめてしまうような。
音楽に限らず、ふいに思い出す記憶は、要するに忘れたくて忘れていたのを呼び起こされるので、あまり良い思い出ではないものが多いような気がする。逆に忘れたくない記憶は、常に記憶にあるので、ふいに思い出したりすることはない。当たり前だ。
『春よ来い』の主題歌の二番は、
君に預けし我が心は
今でも返事を待っています
どれほど月日が流れても
ずっとずっと待っています
という歌詞で始まる。
ある日、カーラジオからこの曲が流れてきた瞬間に、涙が止まらなくなってしまったのは、心を預けた君にはもう永遠に会えないからだ。でも、自分でもさすがに驚いてしまったくらい、音楽には強い力があることを再確認させられた。涙が止まらなくなるどころか、泣くとさえ思っていなかった。
わたし自身の実の娘が、そのもう永遠に会えない君だったという事情があるにしても。
でもそれももう11年も昔のことだ。(と書いてあるのを読んで大半の人はほっと胸をなでおろすと思うけど、読者に気を使って書き足しているだけで、11年は昔ではない。ほっとした人とはお友達にはなれないかもしれない。もともとなりたくないだろうから、問題はないでしょう。)
なんだか、だんだんプライベートな話題が多くなっている気がする。栄研サイトからリンクが張ってあるので、以前にも上のほうから注意めいたことを言われたことが確かにあるし、自分でも気を使ってはいるのだが、とりあえず社会問題にならなければ黙認ということのようでもある。もちろん黙認だからといって、何を書いてもいいわけではない。
栄養研の職員は、4月からは公務員ではなくなる。自由になって良いというのも一面の真実だが、職員の中には公務員であることが意味のあることだった人間も少なくない。否応なく非公務員化は進行する。同情するなら金をくれというところか。
以前にも一度だけこの話題に触れたことがあったが、その時もお断りしたように、この話題にコメントしたりメールしたりしないで下さいね。
だれがころしたクックロビン
それはわたし、とすずめがいった
わたしのゆみとやばねで
わたしがころしたクックロビン
(マーザーグースより)
明日は、娘の命日だ。自分でも、いつもここに帰ってきてしまう理由がわからなかったのだけれど、やっと思い出した。そのことを書く。
わたしがウェブのHTMLを実際に書き始めたのは95年の夏である。
すでに、ウェブサイトがSGMLに似たタグのかたまりでできていることは知っていたが、日本語の手引きといえば、雑誌の記事しかなかった。HTMLを書くだけだけならそれでも問題はなかったのだが、現実にはウェブサーバのデーモンをコンピュータで立ち上げなければならず、それにはUNIXの知識、特にFTPとTelnetといったコマンドライン型のアプリケーションを覚える必要がありそうだった。
サンのワークステーションでUNIXは使っていたものの、それまでに二回ほど、システムがたちあがらなくなる失敗をしていたので(一回は自力でバレないように回復したが、二回目は業者に頼むことになってしまった)、あまり使いたくなかった。UNIXというのは、Macなら笑ってリスタートするだけの場面で、二度とたちあがらなくなることが多過ぎるというのが正直な感想だった。
それで、しばらく様子を見ていたとき、たまたまバンクーバーの学会に行く機会があって、その折にウェブの参考書を見つけたのだった。その本が良かったのは、ウェブのHTMLにせよ、CGIを書くのに使うPerlのスクリプトにせよ、ただひたすら単純なものを目指していたことだ。それまで、日本の雑誌でCGIが紹介されても、プログラムのプロが書いたPerlのスクリプトは、エラートラップまで完全に仕上げてあるもので、素人が一目で内容が理解できるものではなかった。明かに、仲間のプログラマ向けだったのである。
わたしがカナダの大学生協で見つけた本は、コンピュータについて一応は知っているが決して専門家ではない人間がウェブを立ち上げるために、本当に最低限知っていなくてはいけないことだけが書かれてあり、その後実際に動かしてみる時もほとんど問題なく動いたのだった。上述の雑誌のプログラムは、完璧らしかったが、それが災いしてか、わたしが使ったUNIX系OS上のウェブサーバではまったく動かなかった。当時の知識では直すこともできなかった。
なによりも助かったのは、その本にMacintosh上で動くウェブサーバも含めたUNIXアプリケーションがCD-ROMの形で添付されていたことである。ウェブが普及する前にフリーウェアを手に入れるのは、今では想像もできないほど大変だったのだ。雑誌にもついていたが、あの頃の雑誌のCD-ROMは何かが記憶されているという以上の意味をもったためしがない。皆無ではなかったとしても。多分、日本ではなにかが欠けていて米国にはそれがあるらしい。行ったことがないので、勝手な推測だが。
Mac上で動くサーバを手に入れたことで、ファイルの編集が簡単にできるようになった。
こうして無事に栄養研のサイトは95年の夏にはたち上がった。最初はMac上で。お隣の研究所のサイトが立ち上がるまで、外からは見ることはできなかったが、それも翌年の春には実現された。
冒頭の話に戻るが、すでにおわかりのように、バンクーバーに行ったり、ウェブサイトの構築に時間をかけているのは、時間があったからなのだ(バンクーバーで、わたしは入るつもりがなかった生協の書店に入るように勧めたのは家内であり、もちろん一緒に学会に行けた理由は言うまでもない)。
忘れようとしてウェブに没頭した、とか、新しいウェブは我が子の代わりのように思えて、とか書けばもっと感動的になるのかもしれないが、事実は最初に書いたように、どうしてなのかずっと思い出せなかった。
当時のわたしに聞いたとしたら、ネットのなかにいるから、とか、ストラスブールとシャルトルで告知された、とか、わけのわからない答えをしたような気がするが、忘れようとしたというのは、ひょっとしたら本当なのかもしれない。だって、あの年に初めてウェブサイトを立ち上げたことすら忘れていたくらいなのだ。
どうして立ち上げの頃の記憶があいまいなのか、深く考えたこともなかったが、それは考えるなということだったのかもしれない。ひょっとしたらある種狂気に近かったかもしれなくて、それで勝手にやっていても許してもらえたのかもしれない。って、それはないかな。すみません、いま作りました(ペコリ)。
この記事もコメント、メール禁止です。でも一応前記事のレゾン・デートルはできたかも。
eHealth Behavior Management Modelというものが、2004年10月に米国のCDC(疾病制予防センター)から発表されている。これは、限定された領域ではあるものの、健康教育で有名なトランスセオレティカルモデルに基いたインターネット上の健康教育モデルを提案したものである。
日本は三年遅れというのが通常のパターンなので、まだ二年近くかかるということかもしれないが、わたしも含めて、こういうものが既に出ていることを知っている日本人は少なくないはずだ。
無作為抽出偽薬対照研究(RCT)ではなく、ましてや症例対照研究(Case-control Study)ですらない、単なる印象批評のようなものは、すでにインターネットの世界では過去のものになりつつある。自分では決してインターネットを探索しない人間は決してそれに気付くことはないだろう。
でも、回りの人間すべてがそうだったら、全然問題ないかもね。わたしの研究所は、わたしが知っている中では、かなりマシなほうではある(ほんとうに、偶然ではあるのだけれど)。
いや、考えてみると、偶然ばかりともいえないかもしれない。
それにしたって、問題ないことにはかわりないような気がする。「ホームページ立ち上げ」記者会見をするといって失笑を買ったある先生の時代からはずいぶん進歩しているとしても。
大学院生の頃、不思議だったもののひとつに、ときどき郵送されてきていた(今の職場では一度もない)特定分野における英語文献リスト(日本語題名つき)がある。リストにある英語論文をまとめてコピーして送ってくれるサービスらしいのだが、その値段が半端じゃなかったのだ。
当時でも、ケミカル・アブストラクト、通称ケミアブは、隔週刊だったと思うし、インデクス・メディクスは月間だった。カレント・コンテンツも出始めていて、これは週刊誌だった。
郵送されてきたリストをあまり真面目に見たことはなかったが、最新情報文献とうたっていたような記憶があり、どうして印刷されてある文献リストが最新でありえるのか不思議だった。印刷はまだ印刷所でするものだったからだ。
つまり、わざわざ印刷している間に、新しい情報が別の印刷物で出てしまうのだから、送られてきた情報は既に古いものであり、最新でないだけでなく、完全でもない(最新のものが抜けている可能性があるから)。それ以前に、その種のダイレクトメールの送り主が、その分野の専門家集団とも思えなかった(分野が広汎であるわりにはリストのタイトルが専門的に過ぎた)ので、そのようなものを利用する人間がいるとは思えなかった。
後に大学院の先輩に聞いた話では、そういうものは製薬会社などでは利用するということだった。それなら、異常に高い価格もわからないでもない。
院生の人件費はただなので、ケミアブに一月ぐらい没頭しても経費はほとんどゼロだが、会社なら数十万の人件費が必要になるから、十万や二十万かかっても買ってしまったほうが早い。全く未知の分野の趨勢を知るためには安い投資というべきで、1冊七万円もする専門書などもその類かもしれない。この手の書籍はわたしもひとつふたつは購入したことがある。
ただ、これは全く未知の分野であるか、既に知っている分野であればかならず読みたい論文がそれ以外には入手できない場合の話であって、現在では上記のようなリストを買わなくても、PubMedとGoogleがあるので、最小の手間と経費でかなりのことができるような気がする。
だから最初に書いたような業者は死滅してしまっただろうと思っていたら、どうもそうではないようだ。ケミアブとインデクス・メディクスを引くのが面倒な人間にとっては、PubMedもGoogleも同じように面倒くさいらしい。
完全でないリストに本当にそれだけの価値があるのかは、当時も今も謎のままだ。だれも読まない報告書の末尾に載せるためものならば、厚ければ厚いほど確かに価値はありそうな気もするが。
この何日か読みなおしている、『人月の神話』(ピアソン・エデュケーション発行、星雲社発売)は、原著発行20周年記念増訂版と銘打っているが、本文にもある通り、状況はかならずしも好転していない。
わたし自身は、100行程度のプログラムを書いたことがあるだけの全くの素人だが、ウェブの構築なら多少の経験(業者の方々がおっしゃることの大半はまだ理解できる)はあって、多く示唆的であった。
この場合の示唆(suggest)というのは、原著論文で書く時の意味ではなくて、有益だという誉め言葉だ。
プロトタイピングという例についていえば、わたしが作って1年あまり実際に運用もしたBBSシステムを、まったく無視して作られた新しいBBSが、プロジェクトのネックになっていると担当が考えているらしいという現実がある。
もっとも、わたしが作ったのは、ファイルメーカーを使っている点がオリジナルではあるものの、見た目も挙動も、その当時一般的だったBBSをそっくりまねたのだから、えらそうなことはいえない。
ただ、こういうものを作ってほしいという原型(プロトタイプ)を実際に提示できたというに過ぎない。
思うに、会社の方は、自分がすでに開発した、したがってコスト減につながるシステムを捨てることが、個人的にも会社の方針としてもできなかったのだろう。
この会社のSEさんは、文中に絵を表示するタグの機能を把握していなかったし、Wgetのようなソフトでミラーサイトを作るための機能にも明るくなかった。仕事として強制されているのであれば、仕方ないとは思うが、BBSにとっては、書きこみが増えないのは致命的な欠点ともいえる。同じ会社に改良を頼むのが良いのかどうかは難しいところだ。わたしの判断からすれば、その会社は、アクセスを増やすための多くの提案を言下に否定したので問題外だが、他のだれもが、彼らの発言を否定とは思っていないところに実は最大の問題がある。
それらのすべてにおいて、彼らが間違っているとは主張しないにしても。
このシステムを使う人間には、可能な限りの単純性が必要だと主張したのはかれらだ(だから一番単純なBBSにすることに同意した)が、多くの会議室を並列に並べるシステムにしたので、どこに書きこめば良いのかわからなくなった(もとはたったひとつしかなかった)。
個々の素材についての批判は個々の素材情報を会議室に統合する形で行うと主張したのも彼らだが、結果としては、個々の素材情報は、書きこんだ本人以外は見ないことになってしまった。どこにいつ書きこまれたのか、だれにも通知されなければ、見るはずもない。
実際、わたし自身(一応管理者権限がある)が、個々の素材についての書きこみをどうやったら見られるのか、いまだにわからないでいる。
最初にわたしが組みたてたものは、書きこみは素材情報の下に表示されたし、その通知メールからただちに書きこみへと飛ぶことができた。特に難しい技術でもなんでもない。
わたし自身は、phpやJAVAのようなもっと下層の技術はまったくわかっていないのだから、決して彼らより知識があると誇ることはできない。でも、だからこそいくらでも言いたいことがいえるというのも本当かもしれない。
今回、4月から新しい中期計画(5ヵ年)が始まるので、五年前にHPのデザインをお願いした会社に連絡をとった。
会社の代表の方が、恐れ多いことに、お見えになったが、その後はなんの連絡もない。代表の方はわたしがむかし目一杯嫌味を言い続けたことを覚えていたので、そうなるのは本人自らがお越しになるという連絡があった時点で予想されたが、わたしとしては、もう一度引き受けてもらいたかった。
SE担当もデザイン担当も辞めてしまった会社に同じことができるわけもないというのも真実かもしれないけれど。
なにも予備知識がない状態では、これが生活習慣改善と結び付けられれば、単にサラダを食べる日々なのだと思うかもしれない。
それが大半の人の感想(調べたわけではないので、間違っているかもしれない)だと思うと、これをサイトのメインタイトルにすることには躊躇してしてしまう。
元来、サラダの日々というのは、salad daysの訳語であって、これはシェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』のクレオパトラの独白の中で使われている言葉である。サラダはフランス語(salade、フランス語では最後のeは通常発音しない)だったので、要するにダイエットの意味するものがdietとは相当異なっているのと、ある意味、同じ現象かもしれない(本来は塩を振りかけたものくらいの意味)。
クレオパトラの青春時代が、ほんとうに思慮を欠く(green、つまり青臭い)けれども、血は冷たい(cold)という、サラダのようなもの(サラダは緑色をした冷たい食べものだ)だったかどうかはともかく、英語においては、これがハチャメチャな青春時代を表わす表現として定着したらしい。
わたし自身が意図したのは、シェイクスピアの云うところのサラダの日々であって、ほんとうにサラダ(だけを)を食べる人間を想定はしていなかった。サラダはわたしも良く食べるし、それが健康寿命に与える効果も、おおむね信じていると云って良いのだけれども、いくら健康に良いと云っても、ヒトはサラダだけでは生きて行けない。サラダの定義にもよるが。
想像でしかないが、若いクレオパトラは、生き方はサラダの日々的だったとしても、食生活は違ったと思う。規模は全く異なるにしても、首相のような立場(というか権力を実際に持っている王族そのもの)だったのだから。
シェイクスピアに戻ると、サラダの日々の意味するところは、現在のサラダが意味するものとはかなり異なっていて、かなりエネルギッシュなものだという想定が成り立つ。まさに「無分別な青二才時代」という訳語の通りに、である。
そのような前提があっての、サラダの日々なので、それをダイエットのためのサラダのように受け取られるのは、わたし自身の思いとはかけ離れている。
二重の意味があるという前提での言葉の使用は、前提が崩れてしまえば、かえって無用の誤解を招くし、何の意味もなくなってしまうから、使いつづけるのは混乱を招くだけだ。
そのような理由から、一般に公開しているサイトでは、『サラダの日々』は使えないでいる。このサイトのように露骨なネーミング(ダイエットエンパワメント)のほうが、誤解が少ない分ましだと思う。
もっと面白い名前で、しかも奥行きの深いサイトがやがて現れるようになるだろうと期待はしている。そうでなくては先には進まない。
わたし自身は、『サラダの日々』の可能性を、とりあえず追求していくしかないが、それを他人にされるのは迷惑だし、勝手にやってもらうようなことでもない。
とはいえ、自分が作ったわけではない名称に固執するのは馬鹿げている。『リンクDEダイエット』のように、伝統的でも魅力的でもない名称(とはいえ自分で作ったとはいえる)に固執するほうがまだ理にかなっているとはいえるだろう。
あるいは、『ダイエットエンパワメント:ビギナーズガイド』とか。
といっても、今回は話が続いているわけではないかもしれない。
サラダの日々というのは、血が冷たくなければ成り立たないので、考えてみれば、無分別な青二才という日本語の語感とはズレがあるように思える。原作を読んだのは考えてみれば、わたし自身のサラダの日々のころだから、思慮も分別もなくてキチンと理解できなかったのも無理はないとしても、クレオパトラが思春期以前のことを回想しているわけでないのは明らかだし、それ以後の時期は、血気さかんな時代だというのが一般的だと思うので、シェイクスピアの云う冷たい血は、カポーティのようなものということになるのかもしれない。
読みなおしてみるのが良いように思える。思慮分別に欠けて、かつ冷血なら、若き女王にはぴったりかもしれないが、フツーの人間の青春時代には多く当てはまらないだろう。冷血を単に極端な自己中心主義というふうにとれば、良いのかもしれない。それなら、一般人の青春時代の形容としても成り立つ。
告白すると、この言葉には、高校時代からの思い入れがあって、当時も同じ題名でなにか書いた記憶がある。内容はすっかりわすれてしまったが、高校に教生で来ていた教育学部の学生さんに、タイトルのミススペル(Salade days)を指摘されたのを記憶している。フランス語のスペルにある「e」はわざと入れたのだが、それならいっそ「mes jours de salade」とでもするべきだった。当時はフランス語を知らなかったので、それができなかったのだけれど、わかりやすさを心がけるべきだという思慮分別のある立場から云えば(とりあえず今はそういう年齢ではある)、勉強してでもそうするか、単に注釈を入れるべきだった(一応「salade」はイタリックにして区別はしたつもりだったが)。
何を書いたのかは、本当に全く記憶に残っていないが、サラダのように青臭いものであることだけは確かなような気がする。『アメリカの鱒釣り』の二番煎じというところではないだろうか。村上春樹のデビュー前後、松田聖子で松本隆がブレークするよりも前のことだ。
本当は、新サイト『サラダの日々』の構想を書こうと思ったのだけれど、思い出話になってしまった。でも当らずとも遠からず、ではある。思慮分別に欠けて、血が冷たい人たちにサラダの効能を説く、というのが主題だからだ。
今はどうかしらないが、昔の高校生なんて、サラダには栄養(これをカロリーあるいはエネルギーと云いかえれば正解だが)はないから、あんまり食べないほうがいいと本気で信じていたりするお子様たちである(動脈硬化になっても知らないぞ)。逆にスーパーモデルにあこがれてサラダばかり食べたりもする(肥満はもちろん色々問題を引き起こす原因となりうるけれど、痩せた人間のほうが病気になりやすく死亡しやすいのは明白。普通なら22前後のBMIが、たとえ40を越えても寿命が10年縮まるだけだが、16以下になったら明日のいのちも危うくなってしまうのだから)。
実際に自分が食べるものを自分で規定するようになる世代が重要であり、効果も高いはずだ。いくら教育は早いほうが良いと云っても、栄養素の概念を理解できなければ成り立たない。そのためには、代謝がわからないといけないし、からだが大きくなっていく理屈もわからないといけない。
生存するための必要条件は、ことさら教育されなくても普段の生活の中で自然に身に付く。何万年ものあいだ特別な栄養教育なしに人間は生き延びてきた。現代でもとりあえず生存のための食生活ができない人間は、特別な施設や病院に収容される可能性が大きい。
でも健康に長生きするためには、それだけでは足りないかもしれないということだ。ただし、クレオパトラは長生きしなかった。若き日々の彼女に考え直してもらうように、というのもそれなりに意味のあることかもしれない……
サラダの日々は、クレオパトラが二十歳の頃からの数年間を指していた。原作を読みなおしてわかった。シーザーとの恋愛時代のことを、アントニーと恋愛している現在から回想しているので、思慮分別もなく血もたぎることのなかった時代だと云っているわけだが、もちろんそれは事実ではなく、比較されている現在の気持ちを強調するための言葉である。
アントニーとの不倫(アントニーは独身ではなかったから)は、クレオパトラが38才の頃と推定されている。
というわけで、前回書いた推測はみな間違いで、血がつめたいと云うのは相対的なものに過ぎなかった。シーザーと一緒にローマに移り住み、シーザーの暗殺で終わった日々のことなのだから。
言葉は重要である。最初に言葉があったかどうかは知らないけれど、言葉の故に物事が決まってしまうことが、ないわけではない。
営養というのが、元々の漢語では正しくて(今でも中国語ではこの字が使われている)、栄養は、そういう文脈においてみれば、明かに間違いである。だが、思いの丈を伝えるためにわざと奇妙な言葉を使うという技法は一般的であり、この場合もその一例と考えられるだろう。身近な例で云えば、『リンクDEダイエット』は「リンクをたどってダイエットしよう」という意味ではなくて、栄養士のリンク(liens de la dietetique)を暗示している(つもりだった)。
そのような文脈において、高校生大学生向けの栄養サイトを、『サラダの日々』と称することは、意味もあるし正当でもあるのではないか、ということである(ちょっと座りが悪いので、もっと良い言葉を捜しているのが本当のところだが)。
すでにして、クレオパトラにもアントニーにも全く関係ない。
手塚治虫は、1971年に、COMの存続が難しくなった後、そこで連載してきた『火の鳥』に短いエピソードを付け加えている。
羽衣篇は一回限りの読みきり短編で、その後なかなか単行本に収録されなかった、原発問題に対する問題提起の作であって、中学生のわたしは、面白い浄瑠璃漫画くらいにしか思わなかったが、いくら自分の発行する雑誌でも、発表するのを躊躇うに吝かでないという内容だ。だれもがありそうだと思っていることなのだが、絶対に云ってはいけないことになっていた(ような気がする。チェルノブイリ以前のことだ)。
翌月の『火の鳥』は、物語とは全く関係がない作者の心情吐露である。これはさらに入手困難になっていたが、この本に採録されているらしい(わたしは、この本は見ていない)。
火の鳥が作者のライフワークと作者自身がとらえており、結末は自身の死に際して公開するという内容だった(35年も前のことなので、間違っていたらごめんなさい)。
当時は虫プロの存続に忙殺されていた時期だろうから、その後の展開が全然異なっていたとしても、それはそれで仕方ないが、個人的には、『火の鳥』は、あの休憩で完結したと思っている。
途中でCOMとは仲違いした石森章太郎も、『ジュン』や『009』で本領を発揮していた(が、その後は仮面ライダーに活路を見出して行った)し、萩尾望都の短編などを見ても、明らかにCOMは異質だったように思える(小学生にわかるように書くのと社会人に向けて書くのでは違いがあって当然で、萩尾望都も手塚治虫も、SFマガジンの連載では、SFマニアに向けて、さらにディープな内容になっている。『銀の三角』や『鳥人体系』がそうだ)。
どんどんそれている。休憩ということで、そういえば昔、火の鳥の、という連想に過ぎない。火の鳥がギリシャ・ローマ篇から始まったことも(少女クラブ?版で、COM版とは大幅に異なる)一因かもしれない。でも、わたしは実はそちらも真面目には読んでいない、改めて考えると、手塚治虫の熱狂的な愛読者とはとても云えない一読者に過ぎない。
COMコミックスの単行本になったキャプテン・ケン(昭和27年。まだ生まれてない)からアトムの最終回(『火星から帰ってきた男』。確か昭和44年だったはず。雑誌『少年』が休刊するので最終回になっただけで、アトムの物語は全く終わっていない。アニメの最終回のほうが、まだ最終回らしい体裁を整えている)を経て、『ブラックジャック』に至る少年漫画のほうよりは、『地球を呑む』や『きりひと讃歌』といった青年コミックや、作者自身がやけっぱちだったのかもしれない『やけっぱちのマリア』や『アポロの歌』『不思議なメルモ』のような性教育漫画を覚えている。もちろん、もっとも印象的だったのは『火の鳥』であり、あとは『陽だまりの樹』だろうか。
もっとも、小学生の頃、アトムの光文社版(B5版でカラーの単行本があった)全巻を揃えていただけでなく、枕元に置かないと眠れない、文字通り枕頭の書だった時代があるので、あまり信用しないほうが良いだろう。鉄腕アトムはアサヒコミックス版も全巻揃えている(光文社版は捨てられてしまっていたからだ)。
石森章太郎は、全集を揃えて、幽霊少女も兄ちゃん戦車も読み(どちらも生まれる前の作だ)、『ジュン』は箱入り単行本を買い、『009ノ1』も好きだったが、その後が続かない。『サブと市』も『ホテル』も『日本経済』もほとんど読んでいない。もちろん、仮面ライダーもキカイダーも、あるいは少女コミックでやってた『009』の続編も読んだことはない。
王様と神様の違いなのだろうか。マーロウとシェイクスピアの違いなのかもしれないが、よくわからない。そういうことはもっと後の時代に決まるのだろう。
実は、プルタルコスを読み返しているのだが、サラダの日々そのもののクレオパトラとカエサルの日々にまだ行き当たらない。
アルファ版というのは、ソフトウェアが最初に外部に公開される版のことをさす。ただし、業者向けのもので、一般の人に公開されるのは、ベータ版、そして完成版になって市販されることになる。フリーウェアでは、アルファ、ベータとは言わずに、バージョン0.1から数字を増やしていくことが多い。
実は、昨日ケーブルテレビで『小さな恋のメロディ』を放送していた。主演のマーク・レスターとトレイシー・ハイドは、撮影時には10才くらいだったはずで、ハリー・ポッターの第一作に主演した時のダニエル・ラドクリフとエマ・ワトソンと同じ。
考えてみると、この年齢で駆け落ちというのは、どう考えても早熟に過ぎる。ハリー・ポッターにはお色気はほとんどなかったが、そっちのほうが自然である。『ロミオとジュリエット』、『フレンズ』といった思春期の恋愛映画が、60年代後半から70年代前半にかけていくつか作られたが、製作者の意図はともかく、この映画は、そういう恋愛映画に対する一種のアンチテーゼにさえなっている。
つまり、幼稚園で、○○ちゃんが□□くんと結婚すると宣言した。みんなが暖かい微笑を返すのに反発した二人が、実際に駆け落ちを決行するという話なのだ(もちろん成功の見込みは絶対にない、ていうか成功しちゃったら二人のほうが困ってしまうだろう)。
ということで、これは、サラダの日々のアルファ版ではないだろうか、というわけだが、ちょっと強引に過ぎるだろうか。公開当時の日本では、純粋なロマンスとして受け取り、だからこそヒットもしたのかもしれない(わたしもそう思っていた)が、純粋ではあってもロマンスではないというのが今の感想だ。
しかし、健康食品からはどんどん離れてるな…
などと、題名だけはものものしくても、現実には、マーケティングをしているわけでもないので、はなはだ怪しいことだけは、はじめにお断りしておく。
この数年の間に、ビタミンのサプリメントは、大規模調査の結果を踏まえて、なかなか効果が見えにくいことが露見してしまった、と思しい。効果がないかどうかがわかったわけではないし、動物実験では効果は確かにあるらしいので、サプリメント以外にも生の野菜や炒めた野菜や茹でた野菜を食べる機会の多い人間を対象にすると、効果が見えにくくなるというか、少なくとも有意差という統計学的な指標での差異がでないということだ。
ビタミンに関しては、そちらの専門家がもっと精細な議論をこれからもしてくれるだろう。
で、他のサプリメントは、ということになるが、アガリクスのようなキノコ類に関しては、過去も現在も、一度として人間、特にがん患者が服用して効果があったという報告はしていないはずだ。科学論文としてはということだが。
もともとインディオが食べていた、けれども欧米や日本の食生活には馴染まないのかどうか、実際に食べたことがないので判断できないキノコの効能が、シイタケ(これは日本人は美味しいと思って良く食べる)と少なく見積もっても同程度の効果しかないということが、PubMedのような医学文献のデータベースからは伺える。日本人もインディオも英語が苦手だと仮定して、だからPubMedの文献が少ないという仮定もできなくはない。
他のキノコ、例えばマイタケの有功成分についての論文は確かにPubMedにも登録されているが、マイタケを食べた効果を調べたわけでないのは要約を読んだらすぐにわかることだ。
キノコは、もともとエネルギー源としては役に立たないが、日本人はシイタケもマツタケも好き(アガリクスの日本名はヒメマツタケだ)なので、これが健康に良いとなればそこそこ売れるだろうということは、だれでも考えるだろう。考えること自体はいつでも有益なことだし、それが科学の発展要因でもあるが、証明できなければ無意味である。
クロレラやスピルリナは、現地住民の食用だったとしても、他に食べるものがなければ食べたいとは思わないたぐいの藻類で、これもアガリクス同様、それを食べていた人間ががんに効くと思っていたかはかなり怪しい。それは外国ではほとんど飲まれない緑茶もそうだ。
プロポリスにいたっては、古来食用に供されたという文献は極めて少なく、もっぱら外用薬の扱いだった。
というわけで、この数年は、もっぱらもともと体内に存在する補酵素の類がクローズアップされている。
αリポ酸、CoQ10、カルニチンである。ビタミンのようにヒトが合成することができない物質ではないので、もっぱら老化によって欠乏するということになっているが、そのこと自体どの程度の信憑性があるのかも疑わしい。合成が低下するのは事実としても、老化によって合成が少なくなるものなら他にもたくさんありそうである。
ビタミンの場合にはもともと野菜を食べることで補っていたと考えられるので、食事で摂取することは自然だが、これらの補酵素の場合は、食事がどのていどの役割を担っていたかも、実はよくわかっていない。足りない分は体内の合成を高めるしかないのかもしれないが、そこまではっきり断言する論文も見たことはない。
さらに、ラクトフェリンという母乳に含まれている物質がある。乳児には意味があるかもしれないが、この物質は、普通のヒトならだれでも、唾液中に分泌しているものである。尿中にもあるし、それでも足りないのなら、精液中にも、膣分泌液にも含まれている。それが本当に免疫的な機能を果たしているのかどうかは文献に譲るとしても、それらが老化によって欠乏するとは誰も言っていないし、証明はもちろん存在しない。
乳児が腸管で役立てているというのが事実なら、それを期待するのも無意味ではないかもしれないが、そのまえに、ヒトは、その腸管にもラクトフェリンを分泌している事実は承知しておく必要がある。理屈としては、足りないものを補うという感覚なのだろう。ビタミンも同様である。それが有功に作用するかどうかは、その足りなさ加減にかかわるので、なかなか証明しにくいのも事実である。上に書いた補酵素も事情は似ている。
まいにち1時間の散歩をすることが健康増進に役立つとして(これは論文がいくつもある)、健康食品を摂取することも同じように役立つと考えるかどうかは、難しい問題だ。
論文がないことは、単にその証明が難しいことしか意味しないかもしれない。つまり本当は(あるいは服用している本人には)、効果があるのかもしれない。
誤解してほしくないのは、確かにここに書いた食品(と云えるならばだが)に健康効果がないとはいえないのが実情だが、他のものと同様に、むやみにたくさん食べたら、効果どころか害になるというのは間違いなく真実である。
塩は300グラム、砂糖は1キログラム、どんなものでも食べすぎれば死ぬ危険性を秘めている。医薬品は云うまでもない。運動だって同じことだ。
健康食品のことばかり悪く云うようには思わないでもらいたいものだ。がんの特効薬のように喧伝されているとしても、医薬品でないなら、あるいは医薬品であるならなおさらのこと、多く飲めばいいわけでないことは、明らかなのだから(医薬品でなければ、安全性を個人で判断しなければならないし、上に書いたようにどんなものでも大量摂取は危険が伴う。医薬品なら、安全性について検証されているので摂取上限量は決まっているはずだし、医薬品には明らかな疾病治癒または予防効果があるという人体への影響が明らかなので、そのような「強い」効果には副作用もまた無視できないというのが用量作用曲線が当てはまる限りにおいては当然予想されるからである)。
そういえば、五年前の中期計画開始の年(21世紀の最初の年)も、4月1日が休日(日曜)だった記憶がある。あれから丸々五年が過ぎたというわけだ。
過ぎてしまうと一瞬なのだが、今では当然のように毎日更新している『リンクDEダイエット最新健康栄養ニュース』は、まだ存在していなかった。栄養研のホームページは今とは全く異なっていた。
何が一番変わったのかといえば、みんなのインターネットに対する意識だろう。昔、こんなことを好んでしているのはわたしのような物好きだけだったのだが、商売(というかなんていうのか、よくわからないもやもやしたもの)になると思うと、正規のルートでお墨付きをもらった有象無象が出現して、いつの間にか、自分の権威をさかんに宣伝するようになる。
わたしの理解では、自分の権威を宣伝することくらいインターネット的でないものもないので、恥ずかしくてとてもできないことである(というくらいの宣伝は、対抗上しないと生きていけないのだが)。
とりあえず五年は過ぎた。明日からは次の五年がはじまる。
国立健康・栄養研究所のホームページを新しくしました。
まだ中期目標や中期計画などの文書が古いままですが、順次掲載されるでしょう(でも前回は数ヶ月かかった)。
時間の関係で、全面的なリニューアルは間に合わなかったが、これも数ヶ月以内になんとかするつもり。
というわけで、リンクDEダイエットとEBISもよろしく
HATENAは、いろいろそろっているし、なにより自分でインストールしなくて良いのが気楽だが、栄研からのリンクが外部リンク扱いになるので、ランキングがいつまでも上がらない。
ランキングが上がらないと、アクセスも増えないので、まあ増えてもたいしたことはないが、面白くない。
なので、近いうちに、ここは撤退するような気がする。ひとりしかいないのだからいくつもの場所で文章を書くことにはかなり無理がある(オフ世界の文章もあるし)。『リンクDEダイエット』メインに復帰するセンがいちばん濃厚だが、一種の禁じ手として、まったく新しいドメイン、たとえばhttp://www.nihn.go.jp/なんてのも面白いかもしれない。このドメインはまだ存在しないけど。
メールシステムひとつ満足に動かせないプロバイダなんて、何の魅力もないし、いまどき丸一日システムを止めるプロバイダなんてないでしょ? 民間人が勤務する法人なのに、という新たに発生した問題もあって、このあたりは、単に(そのプロバイダが)予算を多くもらいたいという観点ではなく、真面目に考えてもらいたいものだ。
唐突だけど、衛試に同じ年に入所した同い年の男(彼は試験を受けて入り、わたしは単なる流動研究員、比較するのがそもそも間違っているね)が部長になったと聞いた。花束やってください。いや、彼の場合は座布団かな。
わたしは自分が追い出されたトラウマで、若い子たちに冷酷なビッグブラザーを演じ続けているかもしれない。三年を越えては雇用できない、とかなんとか。わたしが良心の呵責に耐えているのは、みんな三年以内に退職しているからだ。給料が安すぎるのだろう。
鬼ッコにしたのは、あんたがたじゃないか。という正論もあるだろうけど、わたしはむしろ感謝している。すんでのところで窒息するところだったよ、てなもんである。
給料は、これからなんとかしないといけないとしても。
#わたしには、こんな場所でさえ黒子に徹することが理解不能。ここの更新はわたしも自宅でやっているし、だからこそなんでも書いてしまえる。翌朝に削除することが多いのはそのためかもしれない。
一度アップしたものを変更するべきではないという理屈は印刷物の因習を踏襲しているだけで、ネットの書きこみは、どちらかといえば、井戸端のお喋りに近い。いちどは言ったくせにというのでは、発言は萎縮する。いくらでも変更ができるものを変更させない力というのは、なんなのだろうか(ただし、発言に返信がついた後は、勝手に変更するのはズルイと言われても仕方ない。ここで言っているのは、返事がない場合だけだ)。
田中哲弥著のハヤカワ文庫JA。本屋で平積みになっていたので、買ったのだが、まさかあじゃぱんの世界になろうとは予想もしなかった。
まだ半分しか読んでいないのだが、出身地から考えてこのまま終わるとも思えない。
楽しみではある。
最終話が完全なSFになっていて、解説によると「なんとか」辻褄を合わせたらしい。一読して理解できるほど単純ではないので、ゆっくり読めばわかるかもしれないが、ワインを飲みながらではとても無理な相談である。
とはいうものの、この連作短編はとてもよい。解説の大森望の絶賛もよくわかる。実際、この水準でコンスタントに作品を発表していれば、筒井康隆とまではいかないかもしれないが、カリスマ的存在にはなっただろう。すでにカリスマではあるのかもしれないが、最近のSF界の事情はまったく知らないので、よくはわからない。
萩尾望都の『銀の三角』と筒井康隆の『脱走と追跡のサンバ』を読んでから、本作品を読むのがオススメだ。解説者は本を買わせるために書くが、ここではそんな必要はないからだ。でも前のふたつは、時代劇ファンにはつまらないだろうな。
時代劇が好きなら、最近読んだ『牡丹燈篭』がとてもよかったが、わたしは基本的に時代小説は読まないのであまり信用されぬがよかろう。
機関車先生という映画をケーブルでやっていた。
声が出なくなっても、教育することもできるし、もちろん生きることができる。
五年前に、研究室の移動を命ぜられて、今の場所に引っ越してきた時は、それでも何週間かは必要だった。
それを3日でやれというのが理不尽でないとしたら、なんなのだろうか?
なんだか、もうどうでもよくなってきてしまった。先生のおっしゃること、ごもっとも、そのために何か変わるとしても、ごもっとも、いくらでもいってよ、なんでもごもっとも。の世界である。
もとが何語なのかわからないが、語尾のクーロから、英語、ドイツ語などのゲルマン系の言語ではなさそうである。語尾にオはまずつけないフランス語でもない。語尾にオがよくつく言語と云うことになると、わたしの知っている範囲では、日本語かスペイン語イタリア語あたりということになるだろう。
これは絵画の明暗の重なりのことを指すらしいので、そうなるとルネッサンス発祥の地イタリアの言語なのかもしれない。
もっとも、イタリア語とスペイン語は(フランス語も綴り通りに母音を省略したりせずに発音すれば、かなり似ている)ラテン語の変化したものとして、互いに良く似ている。うわさでは、イタリア語のナポリ方言などは、イタリア語というよりスペイン語と云って良いくらい似ているそうだが、わたしは良く知らないので、そういううわさもあるというに留める。
この言葉は、英語からの翻訳にカタカナ書きで出てきたもので、もとのスペルもわからないが、スクーロは、英語のスクロールと語源は同じように思える。とすると、キアロが明暗だろうか。時間があれば辞典で調べてみることにして、とにかく、キアロスクーロなのである(辞典で調べたら、キアロが明でスクーロが暗というイタリア語だった♪(((/。\≡/。ヽ))♪)。
ここで、著者のコンドルが述べている(『河鍋暁斎』岩波文庫青569‐1、2006年)ことは、日本画には陰影がないことは事実だが、描線によってそれを補っているというもので、これはそのまま日本のマンガに当てはまると思ったのだ。
実際、河鍋暁斎が書いたポンチ絵のたぐいを見れば、明らかにマンガの描線であり、ということは、逆にマンガは、彼の絵を下敷きにしたということなのだろう。
無表情が美人画の伝統と云われると、わたしがときどき使っている3Dソフトの人形の無表情がなんとなく受け入れられる理由がわかる気がしてきたが、3Dソフトは立体的に陰影をつける、いわゆるキアロスクーロがあり、だから欧米では違和感なく受け入れられる。
日本での普及がイマイチなのは、日本人は線描画の伝統から、陰影のない絵を好むあるいは慣れているということで、それがマンガだということになる。
ただ、アニメの製作がデジタル化されて3dの陰影をもった絵が従来の絵と共存して使われるようになっている現状もあって、いずれマンガ表現にも、そういうものが増えていくとは思う。
わたしは、自分の手では微妙な描線が引けないので、こういう傾向は大歓迎だが、一般化するにはまだ少し時間がかかるような気がする。
欧米のほうで、逆にアニメ化を進めている実情もあり、ひょっとしたら、このキアロスクーロのない日本的表現のほうが標準になるかもしれないし。そのためのソフトが整備されるなら、それはそれで良いことだろう。
岩波文庫を読んで、初めて河鍋暁斎が、マンガや怪奇絵の画家ではないことを知ったので、こんな感想はほとんど意味ない(大方のヒトにはたぶんもっと前からわかりきったことだったのではないか)だろう。
1 引越しをして来た一団は、その場所に以前から住み着いてる土着の住民に事前に知らせるようなことはしなかった。
2 たまたま通りかかった土着民の女性が、引越しプランらしきものが広げておいてあったので、眺めていると、そこに現れた引越し団の一味らしき女性が、ひったくるように持ち去った(つまり、言語的なコミュニケーションがなかった)。
3 日本人が愛して止まない伝統的な風習であるのか、戦後の混乱期に占領軍が持ちこんだものなのか、バブルのためなのか、その崩壊のためなのか、9.11のためなのか、よくわからないが、けっこう見かける光景ではある。
4 引越しの時にそばを食べたり御近所に配ったりするのは、食べ物の蕎麦と場所が近い側をかけたシャレであり、科学的な根拠を問うことに意味はない。世の中には、この意味がないということを、根拠がないから間違ったことというふうにしか考えられない人間がいるらしい。祈りの効果の科学的な根拠を問うことに意味がないのと同じことで、決して間違ってはいないのだ
5 正しい健康情報の読み方を教える啓蒙書に、祈りの効果のRCTを紹介するような人間の同類が一定数存在するらしいことから、間違ってはいないと云うことが理解できない人間が一定数存在するのも明白なように思える(同数とは云えない)。
6 蕎麦はおろか、越してきましたの挨拶もないのは、たぶん越してきた一団は日本語を話さない集団か、人間が比較的一般的に共有する習慣を理解できない(ということはそもそも人間ではないのかもしれない)集団かのどちらかなのだろう。
クロマニヨンとネアンデルタールは、今のゴリラとヒトとの共存のようなものだったという説がある。化石からみれば同じ進化系統樹の仲間だとしても、たとえば動物を狩るにしても、頭の使い方がまるで違うレベルだったので、一方は滅び、他方が残ったというものだ。
年々痛感するのだが、頭の悪い人間(つまりワタシのことだが)は、頭の良い人間の発想を理解することができない。わたしがわたしより優れていると思えるヒトは幾らでもいるので、日々これ劣等感に苛まれる。
ある元上司が、自分の子供にピアノを続けさせても才能ないのがわかっているのに、という愚痴をこぼした(あるいは自慢の一種だったかもしれない、というか、そうだったのだが、わたしは理解し損ねた)ので、わたしの子供の話をしたら、「でもkhirota1958の子供でしょう?」と一緒にいた元同僚と口を揃えて、しかも3回も繰り返して云われたことがあり、それはさすがに、そこまで断言してなんら恥じるところのない東大の卒業生を羨ましくも感じた。
それでも彼らは、元部下のわたしを姑息に出し抜こうとはしない。東京人の弱みかもしれないが、それは神奈川出身のわたしにも多かれ少なかれある弱みである。
そういう弱みにつけ込むことさえ何ら恥じるところがないどころか、積極的にマスメディアを通じて煽っている地方もある。いや、さすがにそれは言いすぎか。よそ者には理解できない単なるお笑いのひとつなのだろう。
がさつで下品であることを選べるのは強い証拠だ。わたしはそれを賞賛して止まない。それは皮肉ではなく。
電磁波の恐怖といえば、廣島・長崎の原爆(つまり放射線)であり、真夏の紫外線によるDNAの損傷(実際、分子が壊れる)であり、強烈なサーチライトを見つめて視力が落ちることであり、赤外線コタツで異常な暑さを感じたりすることであるかもしれないが、最近の恐怖は、一味違う。
一味と言うか、周波数がもっとずっと低いのだ。低ければ低いほど恐怖であるらしい。一番問題になるのは送電線であり、50ヘルツで小児がんのリスクが二倍になるというもの。
携帯電話で心臓ペースメーカーが誤作動というのは、事実として報告されているが、ヒトはペースメーカーではない。通常ヒトは体内にも体外にもペースメーカーのような機械をつけていないのだが。
電磁波なびというサイトをみつけたが、このサイトとても面白い。電磁波の人体への影響というサイトも国立環境研究所の一部のようだが、同様に極めて興味深い。
簡単に言うなら、あなたは今日テレビを見るだろうし携帯で電話もするかもしれない、電子レンジでチンするかもしれないが、その恩恵をあなたに与えている電気が諸悪の根源かもしれないと云っている。
こういうサイトをインターネットで検索できること自体奇跡のなせる技以外のなにものではないのは明白だ。だって、それほど電磁波を恐がっている人々が、電気(というか送電線)がなければ存在できないインターネットを利用して恥じないのだから(自家発電の方には謝ります)。わたしは、恥じないわけないと(勝手に)思ったので、ここで検索できるのは、奇跡なのだろうと(これも勝手に)思ったのである。
自分一人が止めても関係ないと云うのが事実だろうと、わたしも思うけど、自分のせいで、どこか送電線の近くに住んでいる子が一人、また一人とがんになっていくと(本当に)思っているなら、まず自分が電気を使うことを止める。
これほど明確な因果関係もないのに、どうしてインターネットで電磁波の悪影響を糾弾することができるのだろうか。
恐るべし、電磁波!
と云えば良く聞こえるかもしれないが、単に地下一階の実験室から、三階の元部長室に移動するだけのことだ。元であって、これからはサーバ室になるのである。
もともとわかりきっていたことをここで論ってもしかたないので、事実関係のみ書いておくけど、今現在わたしの研究所の所内のメーリングリストは使えなくなっている。最近の変化というのは、サーバの置かれている部屋に、何の前触れもなく多量の荷物が運び込まれたことだけなので、因果関係を疑っても良いのだが、そんなことをいってもしかたない。もうひとつの変化というのは、12台のコンピュータがサーバの隣(同じハブを共有している)に移動してきたということだけなので、因果関係を疑っても良いのだが、そんなことをいってもしかたない。さらなる変化というのは、そんなに多数のコンピュータを移動した結果、セグメント内のIPアドレスが満杯になってしまったということだけなので、因果関係を疑っても良いのだが、そんなことをいってもしかたない。
仏典のような云い方をするとそういうことになるだろうか?
次なる変化というのは、サーバだけでなく、なにもかも移動しろという圧力に屈して、サーバそのものを移動したことだけなので、因果関係を疑っても良いのだが、そんなことをいってもしかたない。
いや、それはウソ。メーリングリストが機能不全に陥り、原因はわからず、どうせ移動はしなければならない(わたしが要請を拒むことはまずありえない)のだから、ついでに移動もしてしまおうとしただけのことである。
以下は単なるうわさなので、適当に読み流してほしい。
最近の変化というのは、方忌(かたいみ)の方角から凶日(きょうにち)を選んで移動をしてきたので、サーバにのろいがかかってしまったというものだ。因果関係を疑うどころか、そのままだが、そんなことをいってもしかたない(女子の間ではもっとも人気が高いうわさである。面白さなら)。
最近の変化というのは、雌狐にたぶらかされたルナールが、理不尽だが押しつける(良くある話だ)ことをしたので、サーバが駄々をこねたというものだ。因果関係そのままじゃん。そんなことをいってもしかたない。
だれでも上司の命令には従う。直接の上司ではなくても、上層部であることが明らかなら従う。従った結果が予測できない不測の事態というものであったなら、別に誰にも責任はない。
因果関係はどうでもよいが、どうしてメーリングリストが動かなくなってしまったのか? わたしの推測は、セグメントのIPをすべて使いきってしまったことに直接ではないだろうが原因があると考えている。
壁がほしければ、妥協案はなしで壁。12台移したければ(無理があることは事前にT先生に聞かれた時に伝えた)、そのとおりにする。
どうでもいいです。メーリングリストが永遠になくならないと良いですね。
5月1日は、メーデー(直訳すれば五月の日か)である。
いつもなら、亀戸か代々木に行っている日(わたしはふだんはぜんぜんまともな活動はしないのにこういうときだけ仕事を休んで昼間から酒が飲めると思って参加するチャランポランなやつである)だが、引越しの予定があったのでやめた。
でも実際には、その引越しも電気工事やクーラーの工事、その後に来るサーバラックの移設工事などを考えると、わざわざ連休の中日にする必然性が薄いので、中止した。
結局締切を過ぎた原稿を書いて一日が終わった。
歳をとるにつれて重みは増す、ような気がする。でも、死ぬ間際の経験と、十代のころのあの思い出と……死んでしまえばすべてが無に帰すと思っているわたしには、どちらが大切なのかを決めかねる。死に際の思い出(というものがあればだけど)として。
もちろん、思い出以外の日常もある存在にとって、常に続く現在には今も昔もあるわけがない。だって昔には帰れないんだから。
それはともかく。今日、初めてだと思うけど、50近くなってなにかを始めるのも良いですといわれて、自分の歳を自覚させられた。50近い人間が何かを始めるはずがないと素直に思える年頃が正直うらやましい。
米国の学術雑誌サイエンスのオンライン・ニュースによれば、日本人がスリムなのは、タウリンを多く含む魚介類を良く食べるからかもしれない。
わたしの勤め先である、国立健康・栄養研究所の笠岡(坪山)宜代研究員の研究で、雑誌『内分泌学』のオンライン版に4月20日付で掲載された。
実は、この論文の投稿用の図表を彼女が上手く作れなくて、手伝わされたのである。それこそIT支援じゃないですかとか彼女は言うのだが。……多分、違うと思う。
中公文庫のこの本を読むと、信長も秀吉も独裁者であり、その点、夕方ケーブルテレビでやっていた『アドルフの画集』のヒトラーと大差ないようである。
著者は、近代民主主義がどんなに欠点を抱えていようとも、独裁者を生み出さないだけで良いシステムといえると書いている。
でも、ヒトラーもムッソリーニも政党政治の中から出てきたのではなかったっけ? 東條は?
独裁者というのはどんなところにでも現れるからこそ恐いのではないか?
権力が集中するようないかなる仕組みも排除してきたはずの日本において、それに逆行するシステムが機能し始めているように思える。だれも個人の思い通りにならないシステムがよかったのではないのだろうか? 上に立つ人間の意志をそのまま通さないのが良かったのでは?
かならずこの体制のなかでも独裁者と後に呼ばれる人物が現れるに違いない。未来の予測は必ずはずれるので、これもはずれるのは間違いないけれど……
人間中心主義という場合の人間は、ヒトではない。つまり生物学的な存在としてのヒトではありえない。
もちろんいろいろな考え方があるだろうけれど、(生き物としての)ヒトは、ただそこに、進化の過程で(サルの仲間としては)一番新しく現れた存在であるかもしれないが、そこにあるだけの存在だからである。
そんな存在を中心にできるわけはない。中心というのが、時系列的な(現時点での)最終(最新)を意味するというような説明はあきらかに欺瞞があるからだ。
最近になって、人間栄養学がどうして違和感があるのかに思い至った。だれだったか、この言葉はおかしいのではないかと言うとただちに、「でも人間関係学とか、ありますよね」という答えが返ってきたことがあった。関係学があって、それに人間を賦与したのなら意味があるけど、これは人間関係の「学」だから、まるで反証になっていない。そんなことは直ぐにわかるのに、言ってみなければ気がすまなかったということだろうか。
言葉にこだわりすぎているという反省は確かにあって、ヒトでも人類でも人間でもどうでも良いのかもしれない。
でも、人類生態学を人間生態学と言い替えるとまるで異なる意味になるだろう。明らかに(少なくとも日本語では)人類と人間は異なる言葉なのだ。人類栄養学と人間栄養学も同様に異なる領域を意味することになるはずである。
結論からいえば、人間栄養学を目指すというヒトがいて、なんの問題もないということにわたしは気がついた。それはつまるところ、人間医学というようなものなのである。ヒトを対象にしない医学はありえない(その場合は獣医学という)のでそんな言葉は出てくるはずもない。ならば栄養学はヒトを対象にしないのかというと、それもそんなことはないはずで、栄養学はその出発点から徹底してヒトを対象にした学問だった。
でも、世の中には、動物実験をしていると、どうしてヒトが蔑ろにされるのかと、本気で憤るヒトがいるのである。わたし自身、どんなにありえる状況であっても、レンズマンをいまだに読めない強い忌避感があることを認めざるを得ない。いまさら読むものでもないというツッコミは禁止。
もしかしたら、ビタミンを物質的に明らかにしたのがハトの実験だったことに、いまだにトラウマを感じるヒトがいるのかもしれない。ハトの実験だったからなかなか認められなかったのは、振り返ってみれば、汚点のようにも見える。
というわけで、わたしは、できれば人間栄養学なんて言葉はなくなってほしい。人間という生物学的存在以上のものを意味する言葉を使うこともおかしいが、そもそも栄養学に人間も動物もないと思うからだ。
いや、ヒトと動物の代謝の違いはもちろん存在する。でも、栄養学という時に、だれが乳牛の栄養学を思い浮かべるというのだろう。看護学はもっと端的な例である。動物を対象にした看護学なんて基本的にはあり得ない(もちろんどちらも獣医学の領域として存在しているが、頭にけものを意味する単語が付加されるのが普通だ)。
議論のなかでは、人間という単語が肯定されているが、医学も看護学も、そして栄養学も、人間を対象にしているのだから、これはしかたない。わたしは、栄養学をわざと貶めるような言葉遣いが嫌なだけである。
かつて、人間工学という学問が持て囃されたことがあった。人間のための工学という意味で、これは明かにヒトではない人間を意味している。なぜならば、ヒトとしての人間は、その工学技術に適応しているからである。生物学的な存在としてのヒトが使うようにすべての工具は作られている。当たり前の話で、動物が使うようにデザインされたものは恐らくただのひとつもないだろう。
それなのに、なぜ人間工学なのか。わたしはこれがそのまま人間栄養学にも適用できるのではないかと考えている。
というわけで、昨日は、周産期栄養学があり小児栄養学があり、それらをひっくるめて人間栄養学だ、人間だ、と主張する理屈は、ほとんどそのすべてが人間社会のため、人間が暮らしやすくなるための工学に「人間」を付加する理屈と同じではないかと述べた。
工学というものが、人間を無視しているという観点からの警鐘の意味があったのかどうか、この言葉が広く使われるようになった70年代にはわたしも生きていたはずだが、知る由もない。
ウィキペディアの説明が正しいかどうかは判定できないにしても、文中にある心理学的側面というのがポイントかもしれない。もともとエルゴノミクスはエンジニアリングとは全く異なる単語だから、それが工学であることは日本人には自明ではあっても、なんと呼ぶべきか議論があったことは想像に難くない。
前述のように、工学技術は、すべてヒトに合わせて作られている。クマの曲芸用の踏み台やライオンの火の環潜りの環をふくめて(サーカスで客が喜ぶように設計されているのだから。そもそもクマもライオンもそんなものは存在しないほうがうれしいのではないだろうか)、そういう意味では、ヒトのための工学であり、それ以外にはありえない(ラットの給水瓶というようなものもあるが、それは例外に属するだろう)。
蛇足だが、ロボット工学の三原則を御存知だろうか? SF作家のアイザック・アシモフが、編集者キャンベルの助言に従って作り出したということになっている。アシモフのロボットものにはかかせない三原則だが、ロボットについての工学という意味で、ロケット工学と同じつくりの造語であり、決してロボットの立場に立脚した工学ではない。これを人間工学と同じつくりの造語にできれば、アシモフはサイバーパンクのさきがけにもなったかもしれないが、はたしてそんなことが可能だっただろうか?
1 ロボットは自己を守らなければならない。
2 ロボットは、人間に与えられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。
3 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。ただし、あたえられた命令が、第一条および第二条に反する場合は、この限りでない。
実際のロボットの三原則では、人間に危害を加えないのがもっとも根本的な原則だ。ロボットはヒトのために作られた道具なのだから当然である。でもロボットが自意識を持つとしたら? チャペックの戯曲『R.U.R』は、ロボットの語源になったそもそもの作品だが、当然のこととして、そのような高い技能を代行できる存在の自意識が主題になっている。つまり、ロボットは反乱を起こし、ヒトを殺してしまうのである。
そんな自明のことを未然に防いで物語を紡ぎ出すのが編集者であり、できればそれに騙されないのが良い読者ということになるだろうか。
自分でなにかを見つけるというのは貴重なことだ。見つけたものをだれかれなく喧伝してあっぱれなヒトもいる。わたしはとてもついていけないことも多い。判断を自分でするという当たり前のことが励行できるなら良いのだけれど。
というと、旧があるのかという話になるが、それはあったようななかったようなで、未公開のまま闇に葬られつつある。あるいは、新がつくのは、今ここであえてサラダの日々なのだから、というようなことでもよい。
実はまた新しいブログを立ち上げたというわけだ。栄養社会学あるいは栄養クレオール主義の拠点になるべき新プロジェクトである、とかなんとかいっても、ほとんど思いつきで書いているに過ぎないので、いままでにも紆余曲折あったように、それに重なるアクシデントにも見舞われたように、予定がリニアに進むとは自分でも思えないが、栄養クレオール主義のとっかかりは見えてきたように思う。
でも、その言葉がなにを意味しているか聞かれても答えられない。単なる思いつきの域をでない。二年前、栄養学が新しい声を手に入れようとするとき、それはクレオールになるだろうと思ったのがきっかけだが、もちろんクレオール主義という題名の書籍があったから思いついたのだ。とはいうものの、未だにクレオール主義は何度読んでも理解できないので、当然栄養クレオール主義はクレオール主義となんの思想的関連もない。
クレオールやピジンの説明から始めたら長くなりそうなので、この言葉はそれ以来使わなかったが、それが栄養社会学としてひとくくりにできるような気がしてきた。
もちろん、栄養社会学も単なる思いつきの言葉であるが、ヒトの生き方そのものを変える(生活習慣を変えるというのは、かならずそういうことになる。自分の習慣の由来をなんでもいいから考えてみればすぐわかることだ。ことさらそうでないものを捜すという意地悪なやり方は、それ自身そのことを証明してしまっているという意味で墓穴を掘っている)のであるからには、差別や排除の構造を探るのと同じような力と方法論が必要だと思ったところからきている。
たとえばなしになるけれど、共同生活をした当初、言葉に齟齬がみられるという経験は一般的だろう。これを解消するためにピジン・イングリッシュが生まれる。これが発展するというわけでないところが微妙なところだが、同じように共同体のコミュニケーションのために生まれかつ母語といっていいい存在になったものがクレオール。
栄養クレオール主義というのは、栄養学が疫学や心理学などの概念を取り入れて、ヒトの栄養学をことさら人間栄養学とよんでみたり、栄養カウンセリングという言葉で栄養指導には心理学が必須だという思いを込めたりする、その総体を社会学的な現象としてとらえるものだと、いま書きながら思いついた。
これはたしかに栄養社会学のような気がしてきた。
現在の栄養士教育課程では、栄養教育または栄養カウンセリングという言い方にかわりつつあるが、「栄養指導」という熟語は、栄養研の初代所長、佐伯博士の創案によるものだということを最近知った。
ならばむやみに変えるべきではないのかもしれないが、今は「食育基本法」の時代である。「食育」という単語は、起源は知らず、少なくとも明治36年ごろには、知育体育徳育に先立つもの、つまり今の食育と同様の用例がすでにあるが、時代はそれに遅れること十数年の新語「栄養」のほうへと傾いた。
用字が異なるだけで、「営養」という言葉はもともとあったのだから当然ともいえるが、同時代には「食養」という言葉もあったようで、それらの意味するところは各々異なってはいても、結局は日本人の健康を増進というかキッチリしたいという目的は同じだったと思う。
それで、戦後の法律は栄養改善法だった。今は健康増進法に代わられている。健康増進法というのは、私鉄の駅が全面禁煙になり、JRでも朝は全面禁煙になった、あの原因を作った法律だが、栄養関係のことも、すべてこの法律に受け継がれて、栄養改善法は消滅した。
国が推進するものは食育になった。健康日本21を作っているときにはあまりそういう考え方はなかったように思う。まだ栄養学の時代だった。
なるほど、それで人間栄養学という言葉をしきりに提唱していた先生が最近めったに使わなくなったことが了解される。たぶん、これからは人間食育なのだろう。という冗談はさておいて。
栄養指導はどうなのだろうか、というのが本稿のテーマであるが、意外にも「食育の推進には栄養指導が効果的だ」と書いてもあまり違和感がない。ということは、やっぱり栄養指導でいいんじゃん、ということだろうか?
本当に重要なのは言葉ではなくて本質、というか具体的な行為だとは思うものの、食の教育ということで、いままで栄養学にはほとんど登場しなかった食の専門家、つまり料理人の世界が活気付いているのは、料理学校の校長が栄養研の理事長と同じレベルで栄養学(というか食育)を競い合うところまできていることからも明らかだろう。別に個人の資質や職業の貴賎を言いたいわけではない。
つまり、食育なのだから。もう栄養学の枠ははみだしてしまったのだから、新しい枠組みが今作られつつあるのだ(多分)ということなのである。
こういう記述は、歴史学なのかもしれないし、社会学なのかもしれないし、考現学のような言い方のほうが良いのかもしれない。どうせわたし自身は社会学はおろか文系の研究に関する教育は全く受けていないので、なにをやっていても無視されるだけ。ついでにいえば、いままでもずっと無視されていまに至っているので、もうそういうことはどうでもよくなってしまっている。単なるルポルタージュでもドキュメンタリーでも良い。
ところで、今気付いたのだが、栄養研の新しい組織図では、栄養教育の中に食育が含まれる形になっている。現状認識としては、このほうが正しいのかもしれない。しょせん、言葉だけなら遊びである。本質を見極めるというような、書いていて恥ずかしくなるようなことを、いつまでも恥ずかしがっていないでするのが良いわけだ。
つまり、これは栄養社会学である。どっちが上位概念かではなく、両者の融合を考える。栄養クレオール主義というわけだ。もっと栄養学的にわかりやすくしたほうが良いのだろうが、一方では栄養教育とか栄養カウンセリングと言い、他方では、いきなり食育である。
ほんとうに、本質を見極めることが重要とでもいうしかないのだが、もとの言葉(フランス語)とアフリカ人奴隷の言葉、インディオの言葉が混ざり合う現実において、本質とはなんだろう。クレオールの話者の大半にとって、あるのはただ日常だけであり、その結果なりゆきまかせにできる言葉がクレオールである。主義という場合、その本質にもっと自覚的にという意味合いがあるとはいえ。
これ、ぜったいヤバイ。これからは、なるべく公開サイトでは書かないようにしようと思う。
今晩は。書いているそばからウソっぽい気分に背筋がゾクゾクするkhirota1958です(^^;
選び方のポイントを教えられれば、られるほど、ますます迷うに決まってる、というか、迷ってもらわなくちゃこまる、というか。
簡単なものは、といえば、青酸カリで自殺する方法。でも、胃腸薬の飲み方、頭痛の治し方になると、もうだめ。そんな急性疾患の治療薬も簡単には選べないとしたら、どうして、30年後に効果がわかるものを選べるというのだろう。
たぶん、タイトルの意味しているのは、選び方のポイントを列挙するときに、迷わなくなるということ。それは教えることが容易だし学ぶことも容易。いつだったか、選び方のポイントをやはり教えたパンフレットがでまわっていたが、手当たりしだいに目に付いたおかしな広告をあげつらっただけのようで、その項目がどのような順番でならんでいるのか、書かれていなかった。広告のことばのほうが理解されやすいと思ったのか、それをもっと普遍的かつ理解しやすく一般性もある言葉に置き換えなかったのが最大の欠点だと思われた。
もっとも、論理的だとおもわせておいて、むちゃくちゃを述べ立てる技術もあり、書かれたものには常に注意が必要だ。もちろん、そのようなことを文章でいうこの文章にはもっと注意が必要だろう。上記の文書がベストセラーになったりテレビに取り上げられたりしているのに、このページは街の噂になったりしないのだから、信用しないほうがいいにきまってる。
そうですよね?
というのって、ありますよね。
古いメールを検索していて、一年半前の第三種接近遭遇を見つけて、思わずにがーい思い出がこみ上げてきました。
大した技術力もない(ウェブに関してということです。ソフトウェア開発の会社だし、それなりの技術はあるはず。「でもしかウェブ業者」というのですが、教師と一緒で最低ランクが普通)のに、恰幅がいいものだから、堂々と出鱈目を主張してくるという、一番困ったタイプ。どうして一番かというと、わたしはこういうヒトが横にいると、いかにも自信なさげ(実際ないんだからしかたないけど)で、まずわたしの主張の正当性は受け入れてもらえない。相手は相手で、40年も人間社会で生きていれば、強気強気でたいていは誤魔化せることを実感しているし、それがわたしのような人物の横だと特に見栄えがすることを充分承知しているので、立て板に水という感じになって、ますますわたしの印象は悪くなる。
そういうかんじにでたらめばかりをベラベラと小一時間ばかりもまくし立てて去っていく。
先々週のことですが、わたしの新しい提案について、その「でもしかウェブ業者」の代表取締役の話を直接聞いたさる先生が、あれはアブナイそうだと耳打ちしたとかで、受け入れられなかったというエピソードがあります。
アブナイのは確かに事実なんだけど、「でもしかウェブ業者」の代表取締役の話はまるきり出鱈目に近い、というか、言っている本人が言葉を良く理解していないと言う最悪のケース。
聞かされている担当者がたまたま同じ水準だったりすると、そのレベルで話がとんとん拍子に進んでしまう、という。
いやいくらなんでも「まさか」だよね。
「でもしかウェブ業者」の代表取締役に嫌気がさして、しばらくその手の仕事は敬遠していた(というのは、「でもしかウェブ業者」の代表取締役と人々が、とんとんとん、とかとんとん。だ、そうな…
マンガ日本昔話ですか?
いや。
業者と話をすれば、するほど、「でもしかウェブ業者」の多いのに驚かされます。立場的にはそういう業者を見極めるというのがたぶんお給料の意味なんだろうけど、ほんとうのウェブを構築するためには、「でもしかウェブ業者」の代表取締役のような豚の餌にもならない存在がなくならなければどうにもならないのかもしれない。
とういわけで、やっと本題に近づいた。豚です。「でもしかウェブ業者」の代表取締役がとても*だという意味ではありませんよ。デンマークに行って豚の食肉工場を見学してきたのです。
でももう紙数がつきました(わけないけど、時間たってつかれました)。 (以下次号)
以前本家でやっていたMovableTypeのブログがだいぶ前からサーバの移動でアクセスできなくなっていたので、ここに移してみました。日記に近いものなので、今更読んでもあまり意味はないと思うけど、意外と変化していないものも多いので、それなりに意味あるかもしれません。2005年のほぼ1年間は、浮気して別のブログを書いていたけど、この時期のものは読み返すのがつらいほど荒んでいるので、たぶんずっと失われたままでしょう。
なにもかも失われたままになるのが良いのかもしれません。
世の中には、ヒトの状態を変化させるための様々な方法が提案されているが、ひとつとして完全なものはない、というのは多分に真実だろう。
他人の言葉を素直に受け取っていてはダメなのだ。
もちろん、初学者、あるいはズブの素人であれば、まず最初は、基本をそっくり真似ることから出発して、修正を加えていくのが普通である。
普通というのは、研究をする場合の一般論としてということであって、最高レベルの研究をされている先生方には当てはまらないと思う。というのは、彼らは最初から独自な存在であるようにも思えるからだが、そんな推測をしていても仕方ない。ふつうのヒトとして、ふつうはこういうふうにやったらと勧められることも多いだろうし、何もわからない状態では、論文を読んで再現してみるくらいしかアイデアがないことも多いだろう、といういたって凡庸な演繹の結果、そのような結論に辿りついた。
というか、要するにわたしはそうだったのだ、ということである。
しかし、自己弁護にしかならないかもしれないが、最初は真似でしかたないとして、なにか本格的な研究(これもなにが本格的なのか議論の余地があるが)を一人でできる、一応一人前という段階になるころには、真似というわけにはいかない。それなりに変更が加えられているはずであって、それも経験的には普通の過程だと思える。
それは研究に限ったことではないだろう。
わたしは、実践的に、例えば薬局で薬剤師をやったことはないし、もちろん栄養指導の経験もないので、実際のところは想像するしかないのだが、実践活動においても、同じような過程が存在するのではないかと思う。
そして、ここからが本題になるのだが、単に実践活動をするのではなくて、それを研究的に、つまりより効果的な実践活動の開発といった目的が存在する場合、変化の度合いがもっとも大きくなるのではないだろうか?
研究の分野では、自分の目的にかなう総説を見つけてしまったら、そのテーマのもっとも素朴な部分はすでにかなり検討されてしまっていることを意味する。いまどきDNAの基本構造がどうなっているか、どうやってアミノ酸の配列を保持しているのか、を探求する意味はほとんどないように思える、ということだ(皆無ではないし、そこから幾多の天才が出現する)。
同じような推論で、実践分野でも、マニュアルが出版されていたら、そこには研究価値はないのではないのだろうか。きわめて大雑把な話としてではあるが、マニュアルがまったくない分野よりもマニュアルがある分野は、それがどれほどずさんなマニュアルでも、恐らく「ない」分野よりも成立が古い可能性が高いし、マニュアルを書くだけのノウハウの蓄積、書ける人材がいるということで、(新奇な研究活動の)将来性という点では逆にかなり減点されるに違いないからだ。
まあ、あまりにも当たり前のことなので、なにをいまさら、ではある。
最近、知り合いの水泳コーチから、同業者があちこちのブログをパクって自分の文章としてほぼ(98%くらい? デスノートの読みすぎ?^^;)そのまま掲載し、出典も何も書かずにいるという話を聞いた。いくらなんでも、コピーはすぐばれるだろうし失脚の危険を犯してまでする行為ではないから、半信半疑だったのだが、実際にそのブログを見たら、まあこれがものの見事にコピーだったりするんだよな、あきれるほどに。
立派な(?)盗作であって、明かに犯罪である。ただ、教えてくれたコーチやわたしが告発しても無意味(犯罪は基本的にはされたヒトとしたヒトの問題だから)なので、今のところどこにもチクったりはしていないが、盗まれた本人が知ったらそうもいかないだろう(話がそれるが、HFNETの健康食品素材の説明文を丸ごとコピーしているサイトが複数あることは関係者はみんな認識しているが、現状では無視しているのは、宣伝には使われていない(かえって売れなくなるくらいきついことしか書いていないから)ので元々の趣旨に反しないから、である)。
正直な話、こんなのは水泳コーチの世界だけのことだと思っていたのだ(すみません)。研究者は違うと漠然と思っていたわけ。そんなことあるわけないじゃん。と。でも、水泳コーチだろうが栄養学者だろうが、このウェブ全盛の時代には関係ないようだ。ウィニーに象徴されるように、いくらでもオリジナルと同じコピーが作られる時代。
少し前のことだけど、管理栄養士でもある研究員が、ウェブからコピーしてはいけないはずの素材を使ってプレゼンをしていたので、注意したことがあって、そのとき、管理栄養士は栄養指導の媒体を作るために、既存の本その他著作物を、いかにうまく切り貼りするかというノウハウを教えられるらしいということを知った。
それは、実際的なやりくり、現場の知恵としては正解かもしれないが、まず第一に、既存の著作物は参考にとどめ、1行以上の無断引用をしない、図表はすべて書きなおす、第二に、どうしても引用するなら出典の明記が必要(同時に量が多い場合、図表の場合は、原著者への許可を求める)。という、他人の作ったものをどうやって利用するかという基本が無視されてしまっている。
第一に:自分の言葉で語ろう。もちろん参考書も必要だけれど…。パワポで入力する時には参考書は閉じておくように努力しよう。
第二に:そうしたとしても、頭の中にもうすっかりこびりついてしまっていて、どうみても真似にしか見えないのであれば、きちんと出典あるいは参考文献として資料のどこかに書いておきましょう。心の片隅に書いていますなんて言うのは不可です。
こんなだれもみていないような場所でも、書いている自分はこの場所が自分の場所だと知っている。どうして他人の文章をコピーしてこられるのか、実は全然理解不能。同じように、他人の前で、どこかの教科書をそっくりコピーして、わたしの新しい研究として、というのも理解不能。
本当に理解不能だと思うのは、他人の書いた文章はぜんぜん自分と違うから、そんなものをコピーしたら、自分のサイトとは思えなくなるのに、全篇すべて他人の文章でもOKという感覚。これはほんとうにわかりません。
とかいておいていきなりだが、全然違う話題。BBCの健康ニュースによると、オーストラリアの女医ヘレン・オコーネル先生は、陰核の解剖学的な位置付けを見直すべきだと主張されているらしい。それは丘ではなくて山なのだという(再考つながりです)。
ちなみに、ドイツ人は、標高1,000mの実際にどこからみてもわたしには山にしか見えない地形(だってそこにはスキー場もあるのだ)を丘(hill)だと主張して譲らなかったりするので、hillとmountainの違いはよくわからない。
で、本題である。
栄養教育において、ダイエットエンパワメントというものが必要だというのがこのページの根本理念であるが、もちろんダイエットエンパワメントは定義された一般的な用語ではないので、なんのことだかわからないと思う。すでにここかどこかで使ったことのある用語で説明するならば、それは栄養クレオール主義の一部として、フレイレの教育学や米国学校図書館協会のリテラシー教育、コロラド州の健康リテラシーなどを取り入れたものである。
これでも既に理解不能だろうが、さらに最近わたしは、これらを一言で要約できる熟語を思いつき、さらにダイエットエンパワメントの強力な方法論も思いついた。さすがにここでそれをいっても混乱の度合いを増すだけなので、やめておくが、結局「ダイエットエンパワメント」はそういうものであって、それ以上でも以下でもないものだ。
そのためのマニュアルは頭の中にしか存在しないので、それを検証した論文などあるはずもない。ということは、これを検証する仕事は「研究」だということである。
もちろん、その研究がうまくいかない可能性は大きい。実際に研究をしている人はうまくいかないことが大半であることを実感として理解していると思う。そもそもうまくいくいかない以前に、それを実証できる方法があるかどうかもわからないのだから。
健康信念モデルとエンパワメント教育を組み合わせて、「それをインターネットで実現する」というのは、カッコ書きの部分が明らかに新しい研究ではあった。20世紀には、ね。今はもう商業ベースのサイトが、日本にも、いくらでもある。今でも無意味ではないが、それは研究として新奇な知見を生み出す可能性が皆無ではないというだけの理由で、特に期待されているわけではないと思う。
それでも10年来なにも変わらない(というか悪い方向にだけ変わる)サイトというものが現実に存在している。Googleは、単に更新されているだけでそれを良いサイトとみなしてしまう。こんなこと指摘して、改良されたら死活問題というヒトも存在するかもしれないので、このへんでやめておく。
いいひとは、いまもわたしの周りにはたくさんいるし、他の場所にもいる。そんなことは誰にでもわかりきったことだ。日本人には説明の必要もないことだが、これは求人やお見合いの相手を探しているヒトの決まり文句であって、いいひとがいない嘆きとは無関係である(多分)。
実は、わたしはいいひとを探しているのだが、これは今居るいいひとがいなくなってしまうからである。いいひとがいなくなってしまう職場(あるいは家庭)というのは、よくないひとが多くいる場所かもしれないが、今回は、いなくなってしまうひとは、ニューヨークの大学院に9月から通うので、ここには来られなくなるというのが退職の理由だから、よくないひとが多いからではないと思いたい(もちろんわたしはいいひとであるが、そういうひとが一番あやしいのもよくあるはなしだ。よく確かめてからのほうがいいだろう)。
冗談はさておき(冗談ですよ、もちろん)、英語の情報を探すヒト、ホームページを作るヒト、栄養社会学を実践するヒト、どれかひとつでも得意分野がある方を、本当に募集しているのです。
急募 技術補助員若干名。
独立行政法人 国立健康・栄養研究所 情報センター IT支援プロジェクト(リーダー・廣田晃一)
勤務地:厚生労働省戸山庁舎内(東京メトロ東西線早稲田駅下車徒歩8分)
採用は7月1日以降、事務処理の可能なもっとも早い日付で、時給はだいだい1000円前後です。週5日勤務で、朝9時から夕方は5時半(8時間勤務)。通勤手当は別に支給。住宅手当はなし。社会保険はあり。ボーナスはなし。残業は何時間でもOK。一人暮らしの独身者は、別に主たる収入(株とか不動産とか)がない限り生活していけないだろうということはお断りしておきます。
希望する方は、khirota@nih.go.jpまでメールをください。電話(03-3203-5722)でもかまいません。
はじめは国立健康・栄養研究所のデータベース計画の一環だった。98年ごろはまだGoogle以前の世界だったので、誰もがきちんと検索できるシステムを求めていた。栄養学に関してだけでもきちんとした情報を得られるようなサイトをと考えて細々と立ち上げたサイトだった。その後、Googleが普及して、わたしはリンク集の更新をやめてしまったが、それ以前の世界では、まだそれなりの存在意義があった。実際、業界紙やマスコミの取材を受けたことさえある。
更新をやめてから、もう5年近くが過ぎた。Googleの優位性は、他のほとんどの検索エンジンを壊滅状態に追い込んだことからあきらかだが、しだいにその欠点も見えてきた(詳細は触れない)。
最近になって遅まきながら気付いたのは、ウェブの世界にはきわめて高品質かつ信頼性の高いデータベースが既に存在しているということだ。それはPubMedという米国の国立医学図書館のサービスで、文字通り最新の医学情報にアクセスすることができる。医学生物学分野の研究者ならだれでもこのサービスを日常的に利用しているし、それはわたし自身も例外ではない。
気付いたというのは、それがおかしな情報を、つまり研究者の目から見てということだが、流しているサイトの作者にも容易にアクセスが可能だという事実である。英語だからということで敬遠されるということは明らかだったが、それ以前にPubMedが信頼するに足る(足らないものもあるが、それは今は措く)情報であることさえ一般には知られていないという事実には全く気付かなかったというわけだ。
まったく同じインターネット(というのはそれはひとつしかないから)に共存するふたつの異なる聴衆が存在するという事実。わたしは、健康食品業者の目を覆いたくなるような記述に辟易していたにもかかわらず、業者がPubMedを見れば良いとは思いつかなかった。
気が付けば簡単な話で、すべからく健康食品の宣伝をしようと志すもの、かならずやPubMedに通暁すべし、ということにつきる。
わたし自身の個人的な問題としては、さて、どうやったら可能なのか、ということ。EBISはひとつの解ではあるが、なかなか更新できないでいるのが心苦しい。
ぜんぜん関係ないのだけれど、世の中には、http://www.nihn.go.jp/というサイトが存在することをご存知ですか? これもやっているのはわたし、というか栄養研で、それはnihnが、National Institute of Health and Nutritionの略称であることから明らか(go.jpドメインは登記簿などの証明がないと取れなくなっている)ですが、いまのところどこからもリンクは張っていない。張らないとGoogleに登録されないのだけれどね。数ヶ月あるいは数年後にはまた状況が変わるでしょう。PubMedとは全然関係ありません。
クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング。通称CSNY。太田裕美の歌(君と歩いた青春)にもシイエスエヌワイ聞きだしてから…という歌詞がある。
ニール・ヤングの出発点はもう少し前で、CSNYのスティルスが一緒だったバッファロー・スプリングフィールドが、米国デビューだったかもしれない。もともとはカナダ出身らしい。
過去への旅路というのは、同名の映画に付けられた曲をまとめたアルバムだったように記憶しているが、文字通りのサウンドトラックも存在して、いまタイトルが思い出せないが、そのアルバムで僕はバッファロー・スプリングフィールドを初めて聞いた。むかしのLPを見ればわかるのだが、実家(でも実家というのは嫁入りした女性が生家をさす言葉だったはずだ。男性は今住んでいるのが実家であり、生まれ育った家は生家であるような気がする)にあるのだ。
Googleはこういうときにはとても重宝する。Time Fades Awayというのが、歌詞の中に"Journey through the past"とでてくるライブ盤(新曲ばかりで会場の反応がまばら)のタイトルで、未公開の映画のサントラは『過去への旅路』だが、どちらも日本版のCDは存在しないらしい。
75年ごろジャズの好きな自治委員とかがクラスにいた。私はニール・ヤングも好きだがタンジェリン・ドリームも好きで、しかもデューク・エリントン、ソニー・ロリンズ、ジョン・コルトレーンも結構好きだったので、話が合うはずもない。自治委員というのはいわゆる学級委員のことだから、話がかみ合うと思うこと自体が間違いで、それは幼稚園から今に至るまで変わらない。もっとも、間違いだと思うようになったのは大学を出てだいぶたってからのことだ。それから過去を振り返って、「そういえば…」と思い出したのである。
幼稚園の「ぜんたちゃん」ともうひとり(ごめんね、ぜんたちゃんは副将できみがボスだったのに、どうしてもおもいだせない)をはじめとして、小学校の神山くん、中学校の竹内くん、高校の田中くん(たぶん)に至るまで。
まてよ。私はなにを書こうとしているのだろうか? そんなにむかしにもどるつもりはなかった。2003年の年も押迫った頃のことを書こうとしていたのであるが、夜も更けた。続きはいずれまた。
前項からの続きで、タイトルはバッファロー・スプリングフィールドの曲から。わたしは既に書いたように、オリジナルではなくて、過去への旅路のサントラ盤しか知らない。ニールヤングの悲しげな歌声が印象的だが、一般的には『ミスターソウル』というロックンロール・ナンバーのほうが評価されているらしい。過去への旅路では、二つがメドレーでつながっていたはず…
いちご白書でも使われていたニールヤングは、すべてが傑作かもしれないが、繰り返して聞いてみたいと思えない曲も皆無ではない。そもそも、もう30年も新譜を買っていないのだから、ほとんど知らない部類に入るのではないだろうか。ZumaとかComes a timeとか、そのあたりまでだ。
"Time Fades Away" 以降は、あまり聞く気もしなくなったというのは、当時の正直な感想だった。まとまっていて佳作が多い、『アフターザゴールドラッシュ』と『ハーベスト』がやはり双璧をなすが、一番よく聞いたのは、セカンドアルバム収録の、"Cowgirl in the sand" だったりする。やたらに長いギターソロのせいかもしれない。いちばんよくきいたピンクフロイドが『ウマグマ』か『雲の影』で、いちばんよくきいたタンジェリンドリームが『リコシェ』と書けば、全部知っている人にはなんとなく共通するものが見えてくるかもしれない。
わたしの、そういう音楽に対する嗜好がどのように形成されたのか、過程はわりと覚えているが、理由は多分最初からあまり意識していない。そうやって生活習慣が形成されている。
自分で書いているとよくわかるが、こんなことを他人にそう簡単に云うことはできない。
でも書くことは比較的やさしくて、それは目の前にだれもいない、という単純な理由だと思う。単にワープロに文章を打ち込んでいるだけ。
折れた矢を持っているのは誰なのか、難しい問題ではある。
そう。問題は誰が折れた矢を持っているのかなのかもしれない。
ではありません。はとほの違いはけっこう大きいかもしれません。年に一度というのは、耐え忍ぶ一年マイナス一日が言外ににおわされているのに、たなからぼた餅が降ってくる人間は別に耐えてもいないし忍んでもいない、敗戦の日の日本人とは逆の境遇にある人です。だからこそ「もうけもの」を意味するわけです。だから、耐え忍んで得たものは普通たなぼたとはいいません。
と、またしても目一杯脱線したからといって、別にロート製薬からお金貰っているわけではないのです。底も抜けてないし。
近頃、業務が以前にも増してコンピュータ寄りになってきていて、だんだん栄養学の話題を調べる余裕さえなくなってきているが、所詮予算は通常のIT予算に比べればほんとうにわずかなものだから、依然として栄養学中心で業務をしていろという意味だと勝手に解釈する。
もちろんわたしはオタクという言葉が科学者という言葉よりはよほどしっくりくる(と自分でも感じる)存在なので、ずっと面倒臭くて使わないできたWebDAVが最適解だと思えば、使うことにためらいもなく、幸いMacOSXのDAVはとても簡略化されていて使用も容易だ。
とはいえ、わたしにはまだ研究者だという自覚があるし、今の職場にいるのだって研究者だからである。それも栄養学というか生化学の研究者、だったはずだ……。思えば当時の部長に、赴任と同時に新しいコンピュータを購入してあげるといわれて、それはもうこれいじょうないくらい細かな注文を出したのだが、今となっては、あれが間違いのもとだった。
もっとも、移る前の職場の教授にいわせれば、わたしの業績はコンピュータをネットにつなげて適正に運用したことが第一らしいから、もっとずっと前から間違っていたのかもしれない。
結局、このブログをみて応募のメールをくれたひとはいまだに存在しないが、あきらめて栄養研の公式サイトに載せたらすぐに何人かの応募があった。
ときどきこのページを見ているのは作者ひとりだけではないかと思ったりするが、そう思って筆がすべると、すぐにメッセージをいただいたりして、(実はうれしかったけど)精神的ひきこもりの作者は、過剰反応してしまったりする。
最近『リンクDEダイエット』のGoogleランキングはさらに8ページ目あたりまで後退してしまい、もやは回復不能という感じになってしまった。ダイエットの記事を載せなくなったから当たり前ではある。ネットのなかだけでは一日500アクセスが限界だったのが、TVで紹介されれば簡単に10万を突破する現実を見てしまい、Googleやアクセス数なんてどうでもよくなってしまった、ということもある。
だれがみつけたの?
正確にいうなら、はえは、小さな眼で彼(クックロビン)が「死んでる」のを見たわけです。
それは、カールスルーエから支線に入った小さな町にある中洲の学校での……。
すみません、なんのことかわからないですね。萩尾望都です。カールスルーエは、ユリスモールがトーマを連れ戻しに列車で向かう途中で六角メガネに偶然出会う駅(……だとずっと思い込んでいたが、違うらしい。グーグると、ユーリの実家はウィースバーデンだったとか。3年位前に文庫版も買っているのだが、そんな細かいところまではチェックしていない。そういうアバウトさは自覚していて、つくづくオタク、評論家、ついでにいうなら研究者としても半人前だと思う)。
『小鳥の巣』では、中洲の学校の所在は西ドイツとしか書かれておらず、カールスルーエの近くかどうかもわからないので、かなりいい加減な類推だし。
Wikipediaの『ポーの一族』の項によれば、作品が発表されたのは1973年の4月から7月にかけてである。他人事みたいに書いているが、もちろんリアルタイムで読んでいた。トーマはそれからほぼ一年後の週刊誌連載で、いままで月刊誌にしか描いていなかったのと目を患っていたらしいことから、ほんとうに完結できるのか毎週ひやひやしながら読んでいた記憶がある。毎号のトビラ絵がゾクッとするような素敵な絵になっていて、とても毎週リアルタイムに描いていたとは思えなかった。
それはともかく、『ポー…』は基本的には英国の物語であって、そっち系は、『トムジョーンズ』と『トリストラムシャンディ』に(嗜好としては)受け継がれていくが、『小鳥の巣』と『トーマ』がヘッセ(作中に出てくる)とマンとゲートとさらにはハイネも引きずりこんで、ドイツという存在をワタシ的には決定的なものにしていくのである。
では、どうしてハイネと共にドイツ滞在中の座右の書はモンテーニュだったのか、という問題につきあたるのだが、今14歳のあなたはともかく、24歳のあなとと34歳のあなたに云えるのは、ヒトは変わるということにつきる。面倒なので説明はしないから、これからの10、20、30年のあいだにゆっくり考えてね。
それは、わ・た・し、とすずめがいった
わたしの弓と矢羽で
わたしが殺した……
ドイツ語では、「W」は英語の「V」のように濁って発音されるので、ワーグナーはヴァーグナー、ウェーバーも最近はヴェーバーと表記されることが多い。とはいえ、何十年も清音で記憶してきた名前が急に濁ると別人にしか感じられないので、ここでは清音で表記する。ドイツ語で話すときはもちろんヴェーバーと目一杯前歯を唇に擦りながら息を吐き出している。
話がそれるけど、ドイツ人と話すとき、自分では美しくないと思う発音をするほうがわかってもらいやすいと感じる。例えば、本を意味する「ブッフ」の後ろの「ッフ」は咽喉で発音する音で、決してカタカナから連想されるような、唇をちょっと尖らせて出す「ウフ」のような口の前の方でする音ではないと思う。咽喉の奥から息を思い切り吐き出す感じで、「R」の咽喉を震わせるのに似ているように感じる。ドイツ語の専門家ではないのであまり信用しないように。
ウェーバークライスというものが存在したということを知ったのは、岩波現代文庫の『神話と科学』(上山安敏著、岩波書店)でだったが、その時点でも特にウェーバーの著作を読もうとは思わなかった。
最近社会学というものをきちんと勉強しないといけないのではないかと感じはじめ、社会学といえばウェーバーだと信じ込んでいたせいで、文庫になっている著作を読み始め、いままで白帯だからと敬遠していたのは失敗だったかもしれないと思うようになった。
もちろん、ウェーバーを読んでも、クックロビンが殺された理由が明らかになるわけではないけれども。
Humpty Dumpty sat on a wall.
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king's horses and all the king's men
Couldn't put Humpty together again.
もちろん、それは卵のことである。サーバの名前に使ったのは、栄養=卵という単純な連想からに過ぎない。でもひょっとして、メリーベルのことが記憶の片隅に残っていたのだとしたら?
割れてしまった卵を元に戻すことはできない。この日記をずっと過去に遡っていくとそれがわかるかもしれない。でも卵はいずれ割れるのだ。卵がかならず割れることを理解できないヒトもいる。割れない卵も死んだ卵なのに。
割れた卵からひよこが出てきたかどうかが大切なんだけど。
一般には、取り返しのつかないことの比喩としてこの歌が引かれることが多いが、中からひよこが出てきたとしたら、ぜんぜん意味が変わってくる。王国の騎士団も歩兵も単なるオヤジになってしまうだろう。モンテーニュがいうようなオヤジということである。
梅雨もようやく明けた7月の最後の月曜日、湿っぽい言葉は似合わないし、ギターも湿っぽい音を出したりはしないだろう。だいいちギター持ってないし。
トラルファマドール星人を知っている人間が今どれくらいの割合で存在するのかわからないが、一応解説しておくと、トラルファマドール星人というのは、人間が三次元空間をひと目で見渡せるように、時間軸も見渡してしまう宇宙人だ。人間が生まれてから死ぬまでを鉛筆の端から端までを見るように見ることができるのだから、当然人間そのものの見え方も人間とは全然違っている。映画のフィルムを手に持って眺めるようなもので、視線を上にずらしていけば人間は年をとっていくし、下にずらしていくとどんどん若返って、生まれた瞬間がその端になるが、その下にも生まれるまでの十月十日が、これは母親の大きなお腹しか見えない(透視能力はないから)が、つながっている。
そのトラルファマドール星人によれば、人間が生まれるためには、五人の人間が必要なのだそうで、それもすべてがつながっているからこそわかることなのだろう。そういう視点から考えてみると、確かに子どもができるまでに母親に接触する(別に性的な意味だけでなく)人間が何人かいてもおかしくないような気にもなってくる。
でも、わかりきったことだが、このトラルファマドール星人というのは、カート・ヴォネガットというアメリカの作家が書いた小説の登場人物に過ぎず、五人云々も、たいして意味があるわけではない。なにか暗喩なのかもしれないとはいえ。
わかりきったような解説をすると、ヴォネガットはドレスデンでの体験を書かなければならなかったが、まじめに書いたらあまりにも陰惨な物語にしかならない。SFというのはいつでも荒唐無稽(ゆえに微苦笑を誘う)という隠れ蓑の影に陰惨な現実を滑り込ませるものだから、ヴォネガットもそれを利用したに過ぎない。それをSFと呼ばないファンも多いのだけれど。
陰惨な現実を下敷きにした小説は、『われら』とか『1984年』といった名作も多いし、いまここで話題にしている『スローターハウスファイブ』も間違いなく傑作の部類に入る。荒唐無稽にでもしなければ作者自身が書き進められなかったのではないかというほど、まじめに考えれば考えるほど陰惨な現実が背後には、ある。
まあ、いつまでも講釈たれていても始まらない。トラルファマドール星人は、上に書いたような目を持つ宇宙人なので、当然の帰結として、時間から超越している。超越というのは言いすぎか。人間は三次元世界を眺めることができるので、その見えている世界の中であぶなそうな領域には普通は踏み込まないようにしている。けれどもトラルファマドール星人のように時系列は見えないから、いつの間にかヤバイ空間にきている可能性もある。実際、そうやってヒトはトラブルに巻き込まれるわけだし、寿命のように時系列的に考えれば、最後の避けられない瞬間というものもある。
ところがトラルファマドール星人の目があれば、端っこのほうには近づかなくてもすむ。時間を空間のように眺められるのだから、危なそうな「時間」には近寄らないという判断が働いて当然なのだ。トラルファマドール星人もおおかたの生物同様、滅亡する運命である。トラルファマドール星人自身がそれを知っている。その原因も知っている。でもそれを避けることはできない。人間が三次元空間のヤバイ場所にはいかなくても、そのヤバイ場所そのものをなくすことはできないのと同じに、時間が棒のようにつながって見えても、それは見えるだけのことで、変えることはできない。
人間がいろいろ努力してヤバイ場所を変えようとするようにトラルファマドール星人も、それを変える努力をした。でも変えることはできなかった。楽屋落ちになるかもしれないけれど、時系列を眺められるということは、ある程度固定された時系列が存在することを前提とする(でなければ、時系列はいつでもボケボケの写真で、なにも見えないことになるだろう)。となると、無限に開かれた未来が存在することは物語の成立もあやうくしてしまう、ということだ。
さて、そういう前提で組み立てられた物語の中で、トラルファマドール星人がなにをするか、ということだ。それを書くために延々とここまで物語を説明してきたのだ。
単純といえば単純なことなんだけどね。一番面白かった時空間だけに意識を留めておくというのだ。人間が一番安全だと思うところに身を留めておくのと同じに。それでいいのかって話なんだけど。
トラルファマドール人ほどリアルにではないけれど、人間も思い出だけに閉じこもってしまうことがある。ヴォネガットの視線はやさしい。そうやって人間は悲しみから逃れられる。もっと積極的にその効用を考えてもいいじゃないか、という。
リアルからファンタジーへ連続して分布する人間の意識というものを想定しよう。一番リアルなのはたぶん政治の世界で、その次に行政がくる。なぜかというと、そこにあるのが、常に今の世界だからだ。一番ファンタジーに近いのは、芸術活動。芸術には過去がある。モナリザ然り、ひまわり然り。政治には過去はありえない。いま、どうするか、が全てだから。
リアルが現実の世界ではある。それがすべてではある。でも、人間はそれだけの存在ではない。それこそが人間を他の動物と異なるものにしているといってもあながち間違いではないはずだ。
いや、わたしは決して逃げているわけでは……。逃げているわけか。
ゆうべ見た夢の中で
僕は空を飛んでいた
小川の上を落っこちまいと
あひるみたいにはばたいた
夜の心の暗闇から夢はわいてくる
誰もそれを止められない
そしてお早うの朝はくる
(谷川俊太郎 「お早うの朝」)
昔見たTVドラマは、なぜかけっこうさわやかな印象だった記憶があるのだが、舞台背景を考えると(それしか覚えていないのだ)そんなに明るい話だったはずもない。谷川俊太郎の歌詞がこの物語のために特に書かれたのかどうかわからないが、それでも朝は来るんだという希望というよりは期待、現実には朝なんか来ない人間は一杯いるのに、無理やり天体現象に重ね合わせてしまおうという、深読みしすぎかもしれないが、そんな歌詞と小室等の曲がとてもよく合っていた。
ネットを探してみたら、歌詞全文を引用してあるブログを見つけた。実はドラマの記憶はほとんど残っていない。田宮二郎がロビーのようなところでベスト姿(だったと思う)で決意を表明している姿だけがおぼろげながら思い出されるだけで、つぶれそうな高原のホテルの建て直しが成功したのかどうかも覚えていない。画面のキャプチャ入りで紹介しているサイトも見つけた。ということは結構反響があったのかもしれない。リメイクされているようだし。実は、山田太一原作だということもいままで知らなかった。
小室等は、ソロで谷川俊太郎が全ての歌詞を書いたLPを出していたはずで、「お早うの朝」も含まれている。アマゾンで検索したら、それは『いま生きているということ』だと思い出した。収録曲のリストを眺めていたらメロディも歌詞も思い出してきた。
片岡に露みちて、揚雲雀なのりいで、蝸牛枝に這ひ、
(ロバアト・ブラウニング、上田敏訳「春の朝」)
すべて世は事も無し なのである。
なわけないじゃん。裏では生徒は死ぬは、昔イジメを苦に自殺した生徒の死体が川から上がるは、もうむちゃくちゃな状況で、エドガーもアランもイギリスに逃げ帰ろうとしているところなのだ(『小鳥の巣』参照)。
今夜はやたらにパトカーのサイレンが喧しい。たまたまだろう。事も無しの世界なのだから。
恋もなく恨もなきに/わが心かくもかなし
(ヴェルレーヌ、堀口大学訳「雨の巷に」)
上の世代は、恋もなくて恨みもなくて悲しいのはぜったい変だと思う気がするかもしれない。下の世代には、まるきり逆に、理由のない悲しみは当たり前だと受け止められるように思う。
もちろん本当になにも原因がないのに悲しいというのであれば、医者にいくのが良いに決まってる。ヴェルレーヌは本当の理由を語らないだけだ。恋でもなく恨みでもないというのだって、どこまで本当なのか。
所詮これは単なる詩なのだから、真実なんてかけらも必要ないのだが。
「そしてお早うの朝はくる」
ハーバード大学のウィレット教授のように、女性に心臓病を起こす度合いにおいて、トランス脂肪酸は飽和脂肪酸より何倍も強いと主張するする一派もいるが、実際に分析してみるとトランス脂肪酸含量は、ばらつきが極めて大きかったと主張する論文もある。製造者としては、トランス脂肪酸は入っていて欲しくない不純物に分類されるだろうから、含量が一定しないというのもありそうな話ではある。化合物の化学合成をやったことがあれば、微妙なさじ加減があることは明らかなので、製造工場ごとに異なっていても少しも不思議ではない。というかありえないことではない。
さて、ウィレット教授のような疫学者が、過去20年にわたって看護婦のトランス脂肪酸含量を推定する場合(食べたもの全てをガスクロなどで分析するのでない限り推定にしかならない)に、このばらつきがどのくらい影響するかということが問題になる。
疫学者は、ベータカロテンにがん予防効果があるとして、喫煙者にサプリメントの形で摂取させて、かえって発がん率を高めた(調査は直ちに中止された)という前歴もあるし、そもそもがんの原因の30%は食事だという単なる意見の域をでない(原論文を読めばわかる)ものをあたかも事実のごとくに流布させた前歴もある(こちらはまだ信じているヒトも多いだろう)。もちろん正確さに欠ける言い方であることは認めるが、でたらめというわけでもない。
90年代以降、サプリメントとしてのビタミンEには顕著な効果が見られたためしが(あまり)なくて、それを疫学者はなんども主張しているにもかかわらず、いまだにビタミンEのサプリメントは効果があることになっているという逆の面もある。ベータカロテン、ビタミンC、そしてビタミンEの大規模疫学研究は、おおむね効果が見られないという方向では一致しているといえるのに。これも正確さに欠けることは認めるが。
結局、科学者は理論的な根拠を詳細に提示するだけで、だからこうしたほうが「良い」とか「悪い」とかは科学の仕事ではないし、現実たいした影響力を持ち得ないということではないのだろうか。これはウェーバーが社会科学の方法として主張したとおりである。将来的には可能になるのかもしれないが、いまのところ、良い悪いというような価値判断は、個人や組織が各々くだすものであって、科学が論理的に結論を導くことはありえない。
ウィレットにしたところで、だからトランス脂肪酸の摂取は控える「べき」とはいえるが、控えた方が「良い」とはいえない道理なのである。「べき」なのは、そうすれば心臓病などになる確率が減るだろうからだ。病人を減らすことは医学の目標のひとつであって、その価値まで否定してしまうと、医学研究そのものが成り立たなくなってしまう。
しかし、それが「良い」かどうかというのは、価値判断である。極端なはなし、早く死んで欲しい人間に、トランス脂肪酸の摂取を控えるように忠告するのは、だれにとって「良い」ことなのか。
最初から話題がぜんぜん違う方にそれてしまったが、トランス脂肪酸の害とマーガリンの害を区別しなければいけないと言うと、なぜか生理的な反発が起こってしまうのは何故だろうかと考えていたのである。
牛乳を飲むヒトも多いだろうし、牛肉を食べるヒトもたくさんいるはずだ。みんなトランス脂肪酸を食べている。マーガリンを食べなくてもトランス脂肪酸を食べている。べつにトランスだろうがシスだろうがあまり関係ないように見える。でも、それがマーガリンだと嫌なんですね。
不可解なのは、マーガリンを嫌いだといえばすむのに、別の理由を持ち出すことだ。いや、不可解でもなんでもないかもしれない。単にユダヤ人が嫌いなのに、どうしてユダヤ人を排斥しなければならないのか言い訳しないと気がすまないのが人間らしいから。
嫌いとか、悪いとかは、このさきもできるだけ判断材料にはしないようにしたい。もちろん、好きも良いも不可。EBMも、エビデンスの「質」などという価値判断は、もうEの範疇ではなくてMの領域なのは明らかである。せめてそれはもうEではないことくらいははっきりさせておく必要があるだろう。再現性とか確度というような言い方をすればすむことなのに、それを「質」というのはあまりにも見え透いている。
えいよう・みゅーんを再開しましたが、もともと非公開に近かったのでほとんどご存じないですね。論文の少し詳しめの解説記事を掲載していて、その部分だけはアクセスがありましたが、もうあまりサイト全体がどうとかいう時代ではなくなっていたので、記事だけ読んで去っていくパターンが多かったようです。
特に一般ユーザのアクセスは想定してなかったし。
今回も、基本的に栄養士さんが対象です。おそらく一般ユーザの方は、登録してもぜんぜん面白いものがないでしょう。
エンパワメントのような言葉は両刃の剣である。
正直に言おう。私は、この言葉を聞くたびに、自分自身が鼓舞されるような奇妙な高揚感を感じる。私はこれを実施する側にいるのだから、相手をエンパワメントするための方法論やら哲学やら実施するための具体的な手続きやらでいそがしいし、少なくともだれも私をエンパワメントしてくれない。
それなのに、である。エンパワメント、エンパワメントと言いまくっているだけでエンパワメントされてしまっている自分にふと気が付くのだ。もしかして勤行というのはこのようなものなのだろうか?
別に私は、ソーシャルワーカーや糖尿病の治療にあたる医師が、エンパワメントを合言葉にして自分たちを叱咤激励していると、言いたいわけではない。だが、例えば、糖尿病のためのエンパワメントの教科書が、治療や指導を実施する側(私から見ればこちら側)をエンパワメントすることばかりで、それに比べるとエンパワメントされた患者の視点がいささか欠落しているように見えることがとても気になる。
フレイレがその元祖だと書いてある(日本語の)本があったので、実際にフレイレを読んでみると、確かにそのようにも見えるが、フレイレはエンパワメントのようなキャッチフレーズは使っていない。
エンパワメントでは、「傾聴」という日本語では通常目上の人に対する行為を示す言葉を、目上とは考えられない立場の人の話を聞くのに使うのだが、フレイレでは(日本語訳しか見ていないので、もしかしたらポルトガル語では同じ単語かもしれないが)単に「対話」と表現している。
対話というのは、同等でも上下関係があっても関係なく成り立つが、傾聴するのは、ふつうは相手を尊敬しているからである。例えば、あなたが、後輩の話を「傾聴」するのはどんな時かを考えてみれば明らかだろう。後輩と対話をするのとはずいぶん違うだろうし、そもそもそんな経験を持つ機会は少ないような気がする。というか、まずないのではないだろうか?
患者はいつも施療者からは目上という意味があるのかもしれないが、現実の関係がそうでないのに、建前だけで目上扱いするのは、慇懃無礼というものではないか。
私の言語感覚を笑ってもらってもかまわないが、こんな言葉遣いに無神経な人たちがするエンパワメントも、さぞや無神経なものに違いないと思えてくる。
揚げ足取り? そうかもしれない。
でも、傾聴ではなくて、耳を傾けると言ったらどうだろうか? 同じことを言っているとしても、私の受ける感じはかなり異なる。まあ、全く同じ意味合い、同じニュアンスに受け止める人もいるかもしれないし、個人個人の受け止め方には明らかに幅がある。お互いに笑っていればすむことかもしれない。ただ、書き手の意図したように理解されたい場合には、日本語の表現としては、誤解されない表現を選ぶほうがよいというのが、ふだんの私のやり方ではある。
ならば、おまえはダイエットエンパワメントなどと、わざと誤解されそうな題名をつけているのかと批判されるかもしれないが、実はそうなのである。というか、このほうが誤解されないだろうということだ。とはいえ、えいよう・こみゅーんはまだしも、サラダの日々やソネット第18番に至っては、ヴィアンの『北京の秋』といい勝負。その度合いによって、書き方も変わってくる。
残念ながら、キャッチフレーズには、どこまでいってもキャッチフレーズ以上の意味を持ち得ない場合もあるようだ。杉山先生が、早い時期にこの単語を使わなくなったのは、たぶんそのことに気が付かれたからなのだろう。
私自身はこの先もエンパワメントという言葉を使う。糖尿病エンパワメントも別に医師や管理栄養士を鼓舞するだけのものではない……と思うし。ほかならぬこの私自身がいちばんその効果を期待しているのかもしれないのだが。
前回言いがかりめいたことばかり書いたことをおわびします。私も「いわゆる傾聴ってやつ」のような言い方をするし、「気分はケーチョー」みたいなこともあるし、それになにより、私はエンパワメントを取り入れた栄養教育を現実には実践していない。
リンクDEダイエットの最新ニュースの解説やEBISのページをご覧になれば一目瞭然なように、私は入り口の敷居を低くしようとしているだけで、少しも相手の話を「傾聴」していないし、実際のユーザさんの参加を求めてもいない。
ニュースの解説は諧謔に満ちていて(自画自賛。現実にはそんなにレベル高くない)、およそエンパワメントの対極にあるように思う。
「そうね、エンパワメントね」とか言って胸張ってるどこかの管理栄養士と同じレベルだろう。私のイメージ(あくまでイメージね)では、「そうかもね、エンパワメントかもねえ」ぐらいがちょうど良い加減で、それはつまり、エンパワメントというのは、ぼろぼろの対象者というくらいの存在に対して、ふつうにやってみても良いんだという気分にさせ、それを実践させるものなので、胸張られた瞬間に逃げちゃうだろうと思うからである。
そもそもエンパワメントと一語に要約してしまっている時点でもう間違いだろうが、それは今は措く。
臨床化学会年会のお手伝いがおわって、ちょっと一息。
時代はますますテーラーメイド医療への道を突き進んでいて、買ったままになっているニュートリゲノミクスの本をまじめに読まないといけないと感じる。というか、米国では、栄養でもそういう単行本が出版されるところまで来ているのである。
3年遅れの世界ということは、2009年ごろには日本も栄養遺伝子学とか言っているかもしれませんね。
不思議現象は、むかしからみんなの大好きなものだった、というか、昔の方がよほど不思議のオンパレードだったような気がする。
むしろ、20世紀という時代が、逆に不思議現象にかげりが見えた特異な時代だったのではないだろか?
それは相対性理論に代表される科学の勃興が、その理由のひとつだろう。
では、その時代を基盤にさらなる進展があるはずの現代において、どうして不思議現象の再興が特に若者を中心として起きているのかということが問題になる。
教育だけでは、20世紀を形作った人々は19世紀の後半から20世紀の前半に教育を受けており、その教育は基本的に暗記中心の現在の受験勉強につながるようなものだったはずなので、説明できない気がする。
ヒトはみな不思議現象を信じたがるような生得のメカニズムをもっているようであり、私自身も小学生の頃には、人並みに占星術や手相、UFOなどの実在を信じたいと思うような感覚をもっていた。
中高生のころでさえ、米国ハーバード大学の生化学教授にして、SF作家のアイザック・アシモフがUFOはまったくのでたらめで、あれが宇宙人なんてとんでもないという意味の発言をしていることを知って、釈然としない気分になったのを覚えている(いつだったか思い出せないが、小学生のときはSF小説を読まなかったので、それより後であるのは間違いない。いまでもSFファンだが、アシモフの意見は当たり前すぎてかえって面白みが無い)。
問わず語り(古文で読むほうがよほど艶っぽくて面白いというのは冗談)はさておき、私はいかにして水爆を愛するように…(すみません、これも冗談です。博士の異常な愛情の副題です)
紅茶キノコや人面犬のようなブームもあり、今の現象も別に再興ではなくて、要するにヒトはずっと不思議現象がすきだったというのはかなり事実に近いと思う。
私の経験からいうと、不思議現象は増えても減ってもおらず、変わったのは私の意識のほうである。テレビが近年特にひどくなっているということもないと思う。川口探検隊がいなくなっただけ良くなっているのではないか(失礼、これも冗談です)。
つまり、
問題は、科学そのものの絶対性のようなものがゆらいでいること、マスコミがわざとではないとしても、科学とはいえない立場から科学しているような発言をすること(解釈技術が、マスコミにも受け手にもなければ、科学ではない)だろうか。
そのような現状に対処しない教育の問題と言えないこともないが、教育されていればすぐにわかるような欺瞞をおこなうのはあきらかに背信行為というものだから、そのようなおかしなものを全国民に届けてしまうのが最大の問題ということになるだろう。ずいぶん変わってきているとは言っても、あいかわらずマスコミの情報はかなりおかしいことが多い。結局、消費者は自衛しなければならない、ということで教育の問題なのだということは可能である。
でも、なにを教えればよいのだろうか?
栄養教育に資するような新しいサイトを立ち上げると、決まって誰かが、その効果は? とたずねる。研究所の中の場合もあるし、外の場合もある。
つまり、その人は、新しいサイト(生活習慣病予防のための自己学習システムでも、えいよう・こみゅーんでも、本家のリンクDEダイエットなどなど)に効果がなければ、わざわざアクセスしてみようとは思わない、ということなのだろうか?
というか、ということ、なのだろう。私も別の局面では同じように質問するのはほぼ間違いないと確信できる。ようするに、相手の話がよく理解できず(本当に新しいものを立ち話の二三分で理解できるはずがない)、でも興味が無いわけでもないときには、よくそんな質問をする。
新しいものに関しては、それが実際のところ、新しいという以外にどんな利点があるのかを見定めなければならない(というのが研究的な視点というものだ)から、話し相手との共通の約束事として、「効果」(表現はいろいろあれど)を質問するのは考えてみればきわめて自然なことだったりする。
でも、それはあくまで自然科学系の学会やそういう文脈での話である。栄養教育の話は、舞台はどこであれ、少なくとも自然科学とはいえないだろう。
したがって、冒頭の一行には、もちろん否定的なニュアンスがこめられている。インターネットサイトの機能が、教育効果だけでないのは明らかだし、もしそれだけだったとしても、相手の話に興味を覚えたら、URLを訊いて、あとは簡単に使い方を教えてもらったり、コンセプトを訊いたりする。はずだと思う。
効果の問題は、なかなか証明することがむずかしいものであり、相手が研究者ならそのあたりはお互いの共通理解の範疇なので、あまり率直には訊かない。少なくとも相手と今後も仲良くしたければ、私は遠慮しがちにしか訊けない。相手が研究者ではない場合には、むずかしいことは避けている(利益にならないから?)ことが多いので、まず効果の問題を訊いたりするが、これも仲良くしてきたいときにはあまり率直には訊かないかもしれない。
そのように考えてくると、冒頭の質問者は、私と仲良くしていきたいとは思っていないということになるのだろうか?
それが、でも、そうではない、というのがいちばんの問題なのだが、冷静に考えると、やはりそういうことになるのかもしれない。
アッシジの聖フランチェスコのようになりたいよ。
HFNETの会議室が今日リニューアルされて、かなり読みやすくなりました。投稿が少なければ、前の方がわかりやすかったかもしれませんが、少ないことを前提にリニューアルするヒトはいないので、これは良いことでしょう。ぜひユーザーになって書き込みしてください。
と、いうことで、わたしも書き込みかけたのですが、冗談を書く板ではないので、編集途中でこちらに移動してきました。
で、以下がその文章です。
> あと、元の情報が科学的根拠に基づくかどうか、についてですが、同じような主張が
> 山梨医科大学名誉教授 佐藤章夫氏のサイトに書かれています。一応参考文献もつい
> てますのでご参考になれば。私は斜め読みしただけで脱力してしまいました。一文一
> 文を熟読・検証する気力は湧きませんので、どなたか気合いのあるお若い方、よろし
> くお願いいたします。
> http://www.eps1.comlink.ne.jp/~mayus/index.html
新谷医師の赤本(『病気にならない生き方』)は、副題がミラクル・エンザイムで、最初からファンタジーであることを主張しているので、SFとして読めばなにも問題はないのです。いかにも本当らしい記述を続けて、いきなりミラクルですから。酵素の元ならプロトロンビンやプラスミノーゲンのような酵素前駆体やアポ酵素のことかと思いきや、そんな説明はいっさいないようだし(全文は読んでいないのでどこかにあるかもしれませんが)。
ミラクル以外の栄養学批判は、いままでのいわゆる正統派栄養学批判の焼き直し的な感じで、それが世界的権威の医師の手にかかると、あれほどまことしやかになってしまうという意味で、わたしは新谷医師をすごいと思ってしまいました。
それにくらべれば、上記の佐藤名誉教授の文章は、まともですが、日本では牛乳を1,000年もの間飲まなかったという主張は、江戸城にウシの牧場があり、チーズに似たものを生産していたと主張する本に対立するものです。確かに牛乳そのものは飲まなかったようですが。
基本的に、医師や生物学系の研究者は、なぜか自然科学からはずれた部分(このばあいは日本史)になると、とたんにトンデモ本の主張を鵜呑みにして、まったく批判的な視線が欠落することが多いようです。
何十年の間、自然科学者にあらずんばヒトにあらず、の世界で生きていれば、無理も無いのかもしれません。経験的にいえば、歴史のようないかがわしい分野(自然科学者的にはですよ)について、(自然科学では普通にするような)文献を引用しながらの論証を試みる行為自体が、その自然科学者が自然科学者として能力がないことの証明になってしまう世界(そんな論証をする時間があるということは、自分の本来的な仕事をなまけているからである)ですから。
だからといって何を言っても良いはずはありませんが、おそらく大半の研究者は、科学的な研究をするのでトンデモ本を批判する余力はないでしょうし、70歳に近い先達の意見を表立って批判するのは憚られるし、というところでしょう。
4月には完成していなければならないものを6月の終わりに初めてプロトタイプで提示して(その時点で3ヶ月遅れている)、それを9月の終わりに批判したら、誠実でないとなじられる様なものでしょうか(実際なじられた)? 誠実でないのはどちらですか? 3月の24日にと言っていましたが、研究所の方向は閣議で認められる以前から明らかだったし、明らかでなくても対応策を立てておくのが誠実な態度でしょう? 立てないでいても、6月の終わりでは3ヶ月も経っているわけで、少しく遅れているとはいえないのでしょうか? 現在が提示されてから3ヶ月なのは事実ですが、もともと3ヶ月近い遅れをもって提示したものを、3ヶ月近い遅れ(現実には遅れではなく、もともと遅く提示されたというだけ)で解答して責められる理由はありません。とはいえ、これはこれ。科学とは無縁。わたしが両方やっているというだけのこと。人間というのはそういうもろもろの総和ですよね。
ガリレオの『天文対話』を読むと、ピサの斜塔から落下する重さの違うふたつの物体が、どうして同じ時間で地上に到達するのか説明するのは、そのころの言葉ではむずかしいことがわかる。翻訳で読んだせいもあるが、ニュートン力学を数式で説明することとはまったく異なる。
これは、ある意味、なにも知らない子供に科学を教える場合に似ている。それに、サイエンスフリー(無料の科学 ^_^;)な調査研究を支持する人々への反駁にも似ているかもしれない。
実は、サイエンスというのは、そういう部分を注意深く避けることによって発展してきたわけだから、困難なことは目に見えている。つまり、「神は真空を嫌う」のでエーテルで充満していることになり、「神の宇宙は完全」なので地球は動かない、というような理屈を論駁しなければ先に進めないのである。
栄養学に、西洋も東洋もない、というのが栄養学が学問として成り立つ根拠のはずなのに、食養という考え方を支持する研究者の中には、西洋流の合理主義を入れることで、日本人の食という人間の根本的な営みが穢されたという考え方をする者もいるようで、そういう価値判断を超越したところで成立している学問に、それを批判しろといっても無理があるのは明らかだ。
もちろんそんなのは少数派ではある。けれども、朝ごはんは一日のリズムを作る大切な食事だから、100%の子供がそれを摂るようにするという目標はどうだろう。
さて…
今日、うちで働いているバイトの子相手に、もうウェブじゃないと言い、それはそのとおりではあるけれど、まだまだウェブの時代は続くし、そのウェブは携帯やゲーム機と見分けがつかなくなるところまで行くだろうというのも本当で、ウェブじゃなくなるのはたぶんこれからの5年から10年過ぎたあと、ということだ。マスとしては。
それで、関係ないけど、そのときたまたま一緒にお茶してた卒論生が言っていたことを思い出して、YouTubeをのぞいて見た瞬間、なんだか「わかった」と思ったのは、ウェブページが10億ページを超えた(あるいは20億ページかもしれない)この過去数年間のどこかの時点で、ウェブのランキング上位に来るとか知名度がとかいう価値は、たぶんTVの視聴率と同じものになってしまったのだ、ということだった。
つまり研究所や研究者という視点から、多分TVだってラジオだって、ある時点(短かったと思う)までは、視聴率が高くないといけないと考えていた時期があるはずなのだ。ウェブでいうなら、95年から2000年ころというのは、Googleがまだ無い時代にランキングというか知名度は重要な問題だった。よそからリンクを張ってもらえばうれしかったし、Yahoo!にも登録され、雑誌に紹介されたこともなんどかあったが、そういうことが重要だと思えたわけだ。
この1,2年はダイエットで検索してもウチのサイトはもう出てこないけれど、もうそういう時代ではないというか、そういう時代ではすぐになくなるだろう、という感じがして、それは例えばニューヨーク在住の大学院生Asakoさんの多分まだほとんどだれも知らないサイトでも、5年前にはそこいら中に書き込みしたりリンクの登録をしたりして宣伝して、アクセス数をふやそうとしただろうと思う。
でも、現在では、すこし特殊な用語であれば、わたしたちの作っているページのどれかが一位にくることも珍しくないくらいおなじみにはなっている(彼女のサイトも例外ではない)。というか、多分数年を経た特に隠匿しているサイトでなければ、みんなおなじみになったのだと思う。だから、Googleは、広告のリンクを目立つ位置に入れたわけだ。べつに因果関係があるわけではないだろうけれど。
最近では、サイトのアクセス数を増やしてくれるというありがたい業者からのメールも来なくなって久しいので、実際もう全然そういう時代ではないということがわかる。ただ、アクセス数が研究所の目標でないことは誰の目にも明らかで来年の業績評価からははずしてほしいとも思うのだが、まだ2、3年は確実に続くでしょうね。
ソーシャルネットワークはヤバイと思うが、2チャンの対極にある、けれどある意味ではとても似ているし、とても日本的な感じだ。
むかし、11月中旬のドイツでバスに乗っていたときのことである。街の大きな乗換駅で、ごく普通の買い物帰りの女の人が、バスを降りようとしてだれかとぶつかったらしい。
彼女は、バスを降りて、振り向きざまに、なにか怒鳴りながら、つばをはいたのだった。
乗り降りの女性同士のちょっとした接触で、諍いになることがそもそも驚きだった(でも日本でも全くありえないことではない。見たことはないが)が、混雑している乗り物にむかってつばをはく姿をみて、ドイツと日本は違うと感じた。
当たり前の話だが、ドイツ人といっても別に日本人と異なるわけではない同じヒトであって、(遺伝子を介して子孫を残す生物全体の中で比較すれば)遺伝的な背景はほとんど一緒である。ちがうのは環境の方だと思うが、その違いが2チャンを生む土壌になるのである。
環境因子は、国によって言語が違うことが障壁になって、なかなか見えにくいのだが、欧米とアジアの諸国のウェブサイトをひとつずつ見ていくと、逆に日本人であることが見えてくる。全部が日本語か英語ならばその差異は歴然だろう。
そのようなことも含めての将来像ではある。
ニューヨークと読みます。
あさこさんのブログにはコロンビア大学の栄養教育のさまざまな話題が書かれています。
最近だと、食育というほうが近いかもしれません。食環境学のようなエコロジーもあるし、マクロビオティックにのような考え方もまじめに考えるし、アメリカ人はさすが移民の国、補完代替医療が国家プロジェクトになるのもうなずけます。
日本の大学で、エコロジーやマクロビオティックや「食養」を講義の中に取り入れているところはないのではないでしょうか。
でも、栄養学というのは、純粋科学ではなくて応用科学であり、さらに栄養教育学や栄養情報学に至っては、社会科学だろうと思うので、これが入るのは当然で、だからコロンビア大学では教えているということだと思うのですが、その辺りは、国家資格における必修科目の選定が国毎に違うのは当然なので、管理栄養士とResistered Dietitianの違いということになるのかもしれません。
そういう意味では、食育の方がより広い範囲を包括するので便利ですが、栄養学という言葉を作った佐伯博士の研究所に勤める人間がそれを言っていいのかどうかというのが、最近の興味の焦点でもあります。食育は、食養から来たものだと思うので。
つい半年前には、マーガリンよりバターなどと、どこかの自称「専門家」の言を真に受けて、そのまま引用しているようなサイトだったのに、今日見つけた記事には、トランス脂肪酸は肉などにも含まれると最初にことわっていた。でも肉といっても含まれるのは牛肉が主で、反芻動物でなければあまり多くはないように思う。記事が鶏肉の話(KFC)だったので、「牛肉と違い、鶏肉にはトランス脂肪酸はほとんど含まれないが、揚げる油に入っていては意味がない」とか書けないのだろうか。本当にそうかどうかは調べてみないとわからないが、細菌類でなければトランス脂肪酸は合成しないはずだから、反芻動物との差異は大きいと思う。
随分進歩したように思って、ちょっと見直したい気持ちになったが、そもそもトランス脂肪酸が取り上げられる理由は、日本人しか食べないとか使わないという理由で捕鯨や割り箸が糾弾されるのに似ていると私自身は思っている。だからマーガリンよりバターというのは、本来的にとても正しい言い方だと思うので、中途半端な記事はかえって悪いものになってしまう。
トランス脂肪酸の悪い影響については、いまでも議論が続いており、循環器系の疾患に対して飽和脂肪酸と同じかそれより少し悪い影響を持つという認識だと思う。がんなど他の疾患についてはかなり不確かな証拠しかないのではなかったろうか。
などとえらそうに言う資格などもとより私にあるはずもない。
最近、私は、結局のところほとんどの人間というのは権威が好き、というかそれに依存して生きるのだろうと思い至った。栄養学の権威といえば、ハーバードのウィレットで、彼はトランス脂肪酸バッシングの急先鋒だが、学界全体としてはそこまで極端ではないから、権威に依存して生きる「残りの我等」的には、トランス脂肪酸も飽和脂肪酸も悪いが、どちらがより悪いのかははっきり言えない、ということだ。
自分で言い訳していれば権威にはならないという素朴な信仰が今でも栄養学を覆っている。あるいは、自分が気にしなければ権威にならないという信仰だ。
直接対面するヒトにはそうかもしれないと思うが、権威の形成過程では、大半のヒトはその権威に対面しない。まさかそんなこともわからないという無知を装うのか、それならそれで新谷先生ぶりをゆっくり堪能させてもらいたいものである。
弱肉強食の世界ではある。
こういう時に権力を振りかざさなくてなんのための権力ぞ、ということだ。それはわたしもよくわかります。さらにそれが全くの善意と保身の混ざったものであって権力の行使などでは間違ってもないと心底信じているということも。
セキュリティ的には、暗号化もされていないメールで、そのセキュリティ上の問題のあるURLを何もわからない事務職員にそのまま送ってくるという行為が、最大の問題だろう。セキュリティホールを管理者以外の人間に平文のメールで堂々と送られては、セキュリティもなにもあったものではないのだが、これを正面切って指摘すればろくなことにならないのは目に見えている。これが権力というものである。
ときどき映画のギャグに使われる、秘密を漏らしたと指摘するエージェント自身がその場面で逆に自分でより多くの人に秘密を漏らしてしまっているというシチュエーションなんだけど。
だれが一番セキュリティを犯したの? でもこんなこといったらやばいよね。教えていただいたことには大変感謝しておりますが。
ここも、もう撤退だね
なんとか、http://humpty.nih.go.jp/ (リンクDEダイエット)と http://humpty.nih.go.jp/linkdediet/news/ (むく鳥通信)は、データベースと連動させる形でほぼ復活した。まだ検索ができないし、裏の方の仕組みも手作業だが、最新のニュースが見られるようになったので一安心。
なんとなくやり方がわかってきたので、探索頁のほうはたぶんもう少し短時間で復旧できると思う。
旧探索頁は、やたらに面倒なソートをしていた官公庁リスト以外は一応表示できるようになったので、あとは官公庁リストだが、以前のものが簡単に使えればよし、大幅な手直しが必要なら単に言語別にならべてしまうことにする。
ニュースソースリスト:なぜか英語サイトが全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。
ジャーナルリスト:こちらも英文雑誌が全てアクセス不可になっていますが、プログラムのバグですので無視してください。
外のプロバイダで、うちと同じデータベースを使っているところは数ヶ所ある。以前一度検討したことがあったが、そのときはまさか何も起こらないうちに使用を禁止されるとは思わなかったので、現状維持とした。
今はそのまさかが起こってしまって現状維持どころではないので、外のプロバイダをもう一度検討するべきかもしれない。でも、問題は、主としてドメイン名から来るもの(このブログも、えいよう・こみゅーんも改ざんされようが踏み台に使われようが誰も問題視しないだろう)なので、公的なドメイン名を使わないではすまされないモノについては解決されないのが明らかだ。データベースのソフトを変更する以外には方法はない。
機械翻訳のサーバーを借りていて、それは英日、中日、韓日の3つで、各々独立した契約である。
年間で契約しているから、当然毎月その経費を払っている(一括で払ったかもしれない)のだが、経費を実際に払い込む部署では、その肝心の翻訳機能がどこにあるのか、ちょっとした問題になっていると聞いた。
もちろん、「その部署からの要請で使うことができなくなった」サーバにあったので、現在は中日と韓日の翻訳機能にはまったくアクセスができないのだと正直に言うほかはなかった。そのサーバを使用するなというのは、上司からの業務命令なので、従わないわけにはいかない。翻訳機能はサーバと直接の関係はないので、速やかに復旧したいが、かなり根本的な変更を余儀なくされているので、英語だけでも2週間以上かかった。努力はしているが、現在はまだその段階である。
機能が使えないのだから、契約を打ち切ってもらってもしかたないとその部署には伝えたが、どうするというはっきりした返答はまだもらっていない。
これもその同じ部署から指摘されたので、ここでどのような意味があるのか書いておこうと思う。どうしてウェーバーの『古代ユダヤ教』を買う必要があるのか、ということだ。岩波文庫で、三分冊、全部買っても3千円するかどうかだが、もちろん研究上の意味を説明できなければ目的外使用との謗りを受けよう。
そのようなわけなのだが、もっと必要だろうか。
「ワインを飲むべきなのか」とか、「シーザーサラダを食べるべきか」、という疑問は、一般的な疑問であり、これは根拠に基づく医療(EBM)の最初のステップである「解答可能な疑問を立てる」の条件を満たしていない。解答可能かどうかが不明だというようなことではない。
そもそも、この「解答可能な疑問」が、患者の治療についてだという前提のもとにあるということである。それは、医療行為なのだから当然の前提であり、明文化されているかどうかの問題ではない。つまり、医療行為を行う医師自身が疑問を立てる当の主体であるのは疑いを得ないとしても、彼が漠然と「ワインを飲むべきなのか」と言ってみたり、あるいはもっと具体的に「今夜私はワインを飲むべきなのか」と言ってもそれはEBMとは切り離して考えるべきだということである。
医療行為は人間(患者)を対象になされるものであり、したがって「私」という主体がまた「患者」でもあるなら「今夜私はワインを飲むべきなのか」という問いもEBMの一部になりうる*。
しかし、対象を特定しない漠然とした「ワインを飲むべきなのか」という問は、その対象が広すぎる。広すぎてもかまわないという意見があるかもしれないが、広すぎてはいけないのである。というのは、EBMがなぜ必要なのかという理由を考えてみれば明らかであろう。EBMというのは第一義的に患者の治療における物質的な拠りどころを提供するものである。臨床疫学の方法論によって、質の高いエビデンスから低いエビデンスが区別されたが、それ以前に印刷されていない根拠は除けられる。そして、なるべく大規模の無作為対照試験が複数あることが質の高いエビデンスの条件となる。EBMは、多くの人々から得られたデータに基づく統計学的な処理の結果を、患者個人に如何に当てはめるかという医療行為の一形態である。それは、法則の定立をもっぱらとしてきた科学(基礎医学)を従来(というのは微生物の発見からフレミングの抗生物質にいたる、主として基礎医学上の業績が、臨床医学を大きく変革したことに疑いはないと思う)以上に直接的に応用するEBMの本質的な部分であろう。従来的なあり方というのものを仮に想像してみるなら、ストレプトマイシンの効果を先輩医師や教授から聞くのである。それはすごいと思って実際に使ってみるのである。