とりあえずネットで確かめる

もうずいぶん前から、ネットが探し物の主たるリソースになっている。とはいってもたぶんそれだけでは済まない部分もけっこうあるはずだ。

しかしそれを最近実地に検証していないことに気がついた。

ひょっとしたらGoogleだけではだめでも、Wikipediaがあれば大丈夫なのではないか? それに禁じ手になってしまうとしても英語圏の学術サイトを加えればかなりの部分はカバーできるのではないか、と考えた。

いや、そうはいっても、たとえば「科学的根拠」という熟語ひとつとっても、最近筆者が考えているような概念は、ネットのどこにも書かれていないことは間違いない。おそらくEvidenceについても栄養に特化したものはない(見つからない)のではないだろうか、ということはやらなくても予想がつく。

では栄養素の健康効果といったものについてはどうなのだろうか? Wikipediaなどでも記載が充実してきているのではないだろうか。

もっとも判断方法が上述のようにどこにも書かれていないのだから、いくら正確な引用文献があっても、現実には無意味ということになりそうではある。

実際にやってみるかどうするか、微妙なところである。

誰もTVを買ってもご近所に吹聴しない

70年代以降に生まれた世代には、たぶんなにをいっているのかわからないかもしれないが、TVを買ったことが一大イベントであり向こう三軒両隣まで鳴り響く時代が1950-60年代にはあった(ような気がする)。わたしは小学生だったのでよく覚えていないが、なんとなくそんな感じだったように思うのである。というのは、隣のうちがカラーテレビを買ったので、『アタックNo.1』(カラーだった)をわざわざ見せてもらいに行ったことがあるからだ。

それを遡ること10年前の電気冷蔵庫のエピソードを紹介していたのが『Always』という映画ではなかったか?

コンピュータにもそういう時代があったが、いまでは冷蔵庫やTVと同じでだれも買ったことをわざわざご近所に報告したりしない。もっともコンピュータが自慢だった時代は一瞬で過ぎた。バブルの絶頂期だったし、TVや冷蔵庫と違って買っても何もできないことが多く、下手に宣伝すると使える隣の坊やにイイトコをさらわれてしまうリスクも高かったからだろう。

個人的には、スマートフォンはまだ所有した事がないのだが、iPod Touch も iPad も持っているので、いまさらハードの購入を騒ぐ時期ではなくなっている、というだけのことなのかもしれない、とは思う。1984年にMacを買うのとはまるで違うのである。

単に興味の対象が移ったというだけなのかもしれないが。

ていうか、それ以前の問題として、AndroidはMSのDOSのような、あるいはWindowsなので、当然といえば当然なのかな。でも、DOSもWindowsも当時はそれなりにほしいもののひとつだった記憶がある。

GoogleもGoogle以外ではただのヒト、かもしれない。FacebookもFacebook以外ではただのヒトかも。

でもMSは、それで世界一のコンピュータ会社になった。

Android携帯のRCTが出るまで待ちますか、とここでの文脈ではそういう話になるのかもしれない(意味不明)。

昔、あこがれのコンピュータがあった

今日、Android4.0の記事を見た。なのにどうしてほしくならないんだろう。

Apple社の創業者は、いろいろと問題は多かったかもしれないものの、僕がほぼリアルタイムで見てきた、創業者の製品Apple II, Apple IIc, Lisa, Macintosh, PowerBook, NeXT, iMac, iPod, iPhone, iPadは、それまでになかった唯一無二のものであるか、それと錯覚させるほど斬新なものだったと思う。

だからほしいと思ったのだし、買っても期待外れになることはまずなかった(はず。実際には半分しか買ってないので断言はできない)。

SweetJamkotobank.jp)のような日本語化ツールを使ってMSWordで原稿を書いていたのはもう20年以上前の話だが、当時は既にWindows2.0の日本語版があって(2.11だったかも)、Wordも動いていたと思う(当時勤めていた研究所で誰かに見せてもらった記憶がある。多分それは細胞バンクの水澤先生で彼の自作マシンだったか、彼の助言に従った図書室のマシンだった)ので、別に無理する必要はなかったのだ、ただ仕事をこなすだけならば。それ以前に98と一太郎で充分だった。直属の上司である生化学薬理研究室長の大野先生はOASYS派でしかも親指シフトをマスターしていた。彼がOASYSの廉価版を数台購入したので、あのころは報告書はほとんどOASYSだった。OASYSはCP/M-86をサポートしていたので、PC-9801(と後にはMacintosh)とのデータのやり取りに使ったこともある)。

昔話をしてもしかたないが、とりあえず、記事の写真を見ても、iPhoneだよね、としか思えないのが悲しいことではある。Appleが創業者を追い出した後の10年間にやった、たとえばNewtonやHyperCardも悪くはなかった。どちらも持っているしHyperCardのスタックはけっこう作った。だからすべてが創業者に由来するわけでもない。現在のノートブック型のパソコンにはほぼ100%パームレストがあると思うが、これを最初に作ったのも創業者不在のApple(PowerBook100)だったはずだ。

そもそもVisiCalcもExcelもピンボールコンストラクションキットもウィザードリーもMYSTもSimCityもFileMakerですら外部の会社が作った。

もちろんSweetJamもそうである。上記のようにその会社はまだ健在のようだが、なによりもあの当時、MSWordを日本語ワープロとして使うというだけでなく、漢字Talkではなくてシカゴフォントの日本語版でMacを使うということが、なによりも貴重なことに思えた。

こんなものがあり得るとは想像だにしなかったというようなもの。というよりは、実際にはAppleが作ってきたのは、こんなものがあったらいいけど出来ないとみんなが思っていたものだったのではないか。この「できない」というのがポイント。iPhoneをいくら洗練させてもそれだけではダメ。スクリーンの上で「ちちんぷいぷい」すれば、というような名古屋打ちの世界なのである。

#Appleとは関係ないのだが、書いているうちに、90年前後の日本のコンピュータ環境は実はそれほど悪くなかったことを再認識した。JustSystemは当時独自のウィンドウシステムを提案していたはずだし、坂村健はTRONの実用化に奮闘中だったように思う。同時進行的にLinuxがありWorldWideWebが立ち上がりつつあり、現実にはそちらが主流になってしまったが、TRONはかなり魅力的に思えた。ただ実装が遅かった。坂村のTRONの本を読んでいたころ、すでにHyperCardはありふれた存在になっていたと思う(本でもTRONの説明に使っていたのではなかったか。当時は明らかに日本人が大嫌いらしいヒトが作っているとしか思えないCMSのはしり、Frontier、もあったので、日本人のためのOSは大歓迎だった。記憶で書いているので時代が5年くらいずれているかもしれないが、まあ気分的にはだいたいそんな感じだった。今の水準から考えたら、1990-95年ごろの日本語(OS)環境はMacintoshかTRONしか考えられないというくらいの状況で、しかもTRONは未実装だった)。

流言蜚語なんて冗談だよね

流言蜚語にたとえられたあなたというのはどのような存在なのだろうか。

もちろん想定していた人物はいるのだけれど、いま読み返してみると、まるでもっとだいそれた批判のようになってしまっている。たぶんそれは気のせいなので、あとで読み返したらもっとまともになっているだろう(んなわけないか)。

別に弁護する義理も義務もないとは思うのだけれども、あなたはそういう、つまりなにかに例えてでも言及したい存在なのだ、ということはできるのだろう。

夏ではなくて、流言蜚語として永遠に生きるとしたらこれはトリックスターというやつではないでしょうか。

もちろん最初に想定していた人物は、最低の俗物です。永遠に生きるトリックスターなんて肩書は、かえって失礼にあたるような気さえします。ていうか、何を言ってるかわかんないだろうし。

しかし、これからは全ての物事を前向きにとらえるんじゃなかったのか。いったそばからこれでは前途多難。

あなたを流言蜚語にたとえようか

あなたを流言蜚語にたとえようか。
いいえ、あなたはもっと賢くて隠微な存在だ。
流言蜚語の嵐はけなげなつぼみをいじめるだけ、
なりより流言蜚語はあっけらかんと去っていく。
時に流言蜚語はあまりに本物らしく思え、
かと思えばその見せ掛けの顔はしばしば曇る。
どんな偽りもいつかその虚構性をはぎ取られるがさだめ、
偶然なのか、自然の摂理なのかの違いはあれど。
でも、あなたという流言蜚語は永遠の若さをもつ、
もちろんあなたの美しさはいつまでもあなたのもの、
ましてあなたという流言蜚語を死神の手柄話に加えさせない、
永遠の詩の中であなたは永遠を手に入れる。
人間が呼吸し、目が物体をとらえる限り、
この詩があなたを流言蜚語に例え続けるから。

元歌はシェイクスピアのソネット18番

長芋ノニ巻カロニ?

規範科学などというものは単なる錯誤なのではないかということは繰り返し言われてきた。

規範科学というのは、いつの日にか充分な知識が蓄積された暁には、科学に基づいてそれを演繹的に運用するだけで全ての実践活動が可能になるという前提で科学活動を人類の全ての行為に拡張適用する考え方のことである。

ここでのテーマに関連して言うならば、いつの日にか栄養学の全ての科学的根拠が明らかにされた暁には、それに基づいて全ての実践活動は演繹的に導くことができるという前提で、現在までに明らかにされた科学的根拠についても、そのような態度で解釈しようという考え方である。

これは、こういう書き方をすれば馬鹿げているように思えるかもしれないが、決して馬鹿げてはいない。そう考えている(というより考えていないので自然にそうなってしまっている)栄養科学者は多いように思う。確かに科学というのは真理を明らかにする営みであり、真理が100%明らかになれば、なすべきことはその真理から必然的に出てくるはずである。だからこそその研究に心身ともに捧げ尽くすというわけである。

問題は、真理を100%明らかにすることが現時点では単なる絵物語であってこの先とうぶん実現の見通しはない、というかそのようなことの実現そのものが夢想に過ぎないということではない。このような規範科学が、客観的情報と実践をつなぐ倫理的価値判断が、極めて太くて強固な一本綱として存在していればこそありうるだけの仮象の関係に過ぎないということであり、栄養学の分野においては、社会学や経済学同様に容易に破たんしてしまうものであるということだ。

朝食を食べないことが身体に悪いかどうかの答えを科学的根拠に基づく栄養学というものに求めること自体がナンセンスなのである。

栄研オープンハウス10月15日

http://www.nih.go.jp/eiken/

http://www.nih.go.jp/eiken/info/pdf/openhouse2011.pdf

2011年10月15日(土)は、独立行政法人国立健康・栄養研究所のオープンハウス(一般公開)の日です。

研究所にある日本で最初のヒューマンカロリーメーター(今では筑波とかにもあります)の見学や、健康食品の専門家(NR)による相談コーナー、あなたの日頃の食事の問題点を科学的な手法を用いて解析するコーナー、骨密度測定、体力診断、フィットネス体験、講演会など盛りだくさんの内容でお送りします。

受付時間は14:50までですのでお早めにお越しください。

だれも来ないようなので

このサイトに引っ越してきて、やっとアクセス数を把握することができるようになりましたが、予想通り一ケタ台という信じられないような数字でした。予想どおりなのに信じられないというのは矛盾してますが。

更新もしないし、たまにすれば、延々電波なことを書くので、読者が減るのは当たり前です。もちろんわざとやっているわけなので、この数字は予想通りだったわけです。でもリンクDEダイエット本陣はそこまで少なくはないので10-20くらいはあるかもしれないと期待していたので信じられないと、そういうわけでした。

電波女OP MAD

原作しか読んでいないのですが。

EBIS栄養情報学

というわけで、これが次期公開サイトの現在の状態です。11月には公開するつもりでいます。内容もほぼ決まっていますが、みんなをしあわせにするコアンドルの江口洋介みたいなケーキ作りがなかなか難しい。

引っ越しました

はてなダイアリーは、いまどき広告が出ない珍しい商業ブログだと思っていたのですが、数週間前から広告が載り始めたので、こちらに移動しました。

ひさしぶりに一からインストール作業をしたので疲れましたが、これなら広告はでません。

しばらくはここでひっそりと暮らそうかと思います。